第3話 魔法実験での悶着

 〈光の聖王子〉と呼ばれるフィールの言動には、側近であるシンしか知らない特徴が三つある。

 ひとつは、その語彙に、時折、意味のわからない単語が混じる事だ。

 これを聞いた人々の多くは、王立図書館の書物を読破した王子の事であるから、それらのいずれかに記載された言葉であろうと、深く考える事はない。

 だが、シンが王立図書を管理する文官に聞いた限りでは、どの文献にも、それらの言葉は記されてはいないようである。

 言葉自体は、むろん、ナウザー大陸で使われる標準的な言語なのだが、例えば『品種改良』『交配』を始めとして『通信教育』『医療保険制度』『定期健診』などは、意味も由来も不明な単語である。

 そして、フィールの言動の特徴の二つめであるが、これは、おそらく、シンにしかわからない特徴であろう。

 シンにしたところで、非常に感覚的なものなので、第三者に説明しづらいところでもある。

 その二つめの特徴だが、なんというか、この美しい王子――成年の儀を数ヶ月先に控えた少年の言い方や態度に、その年齢に似つかわしくないものが混じる時があるようなのだ。

 そのほとんどは、よく言えば「大人びた」とか「年齢以上に聡明な」などと形容できるものである。

 だが、時折、何と言うか、場末の酒場で騒いでいるオヤジ達に一脈通じるような言い方や振る舞いを感じさせる場合がある。

 いみじくも、王子の乳母でもあったシンの母親が「中身はもう少し大人みたいな感じ」と表現したことがあったが、シンの感覚では「もう少し」と言う範疇を逸脱しているようにも見える。

 先ほどの、フィールのもの言いがまさにそうであって、傍目には天真爛漫と言う形容がこの上も無く似つかわしいのだが、何かしら、酒場のオヤジ達が、若い女給の胸や腰を見ながら浮かべる卑猥とも言える視線や笑みを連想してしまうものがあるのだ。

 シンは頭を軽く振って、その錯覚とも言える印象を脳裏から追い出した。

 そして、無駄と知りつつも窘めるように、彼の主君に言った。


「殿下。まだ、諦めていなかったんですか」

「諦めるものか。それと殿下はよせ。ぼくは、王位継承から外れた身だぞ。宰相あたりの耳に入ったら面倒なことになる」

「そうでしたな、殿……いえ、王子」


 シンは言い直しながら、なおも説得を試みる。


「ですが、王子。太陽神の巫女の沐浴は神聖な行です。覗き見るというのは、いささか不遜ではないかと」

「太陽神ナギ神殿の神事に関する文献を見た限りでは、巫女の沐浴を部外者が見てはいけないと言うものはなかったぞ。ま、沐浴というより、あれは『日光浴』だけどな」


 王子が言っているのは、太陽神ナギの神殿において、その巫女達に課せられた行のことである。

 ナギの顕現した姿である太陽が姿を現す、つまりは朝に、巫女達は太陽神の子供を身籠ることを意味する象徴的な行為をする。

 それは、子供を宿す胎内に、ナギの恵みを招き入れると言うものである。

 具体的に言うと、朝の陽光に向けて、一糸纏わぬ姿で大きく股を広げて、更には、産道へと至る部分も広げた上で腰を突上げ、もしくは這って尻をかかげると言う、あられもないというか、とても余人には見せられない格好になるのである。

 嫁入り前の若い娘である神殿の巫女たちがこうした神事を行う場所は、当然のことながら高い壁で仕切られ、男子禁制の施設となっている。

 従って、巫女の『沐浴』を部外者、それも男が見てはいけないと言うのは、わざわざ指摘するまでも無く一般常識の範疇であり、神事を記した文献に書いている筈も無いのであるが、王子はそれを口実として、自分の行おうとしている事を正当化しているのだ。

 こうした女性の身体に対する興味。

 これがフィール王子の言動における三つめの特徴である。

 もっとも、これは、この年頃の少年に関して言えば、むしろ自然なものと言えるかもしれない。

 事実、ウルネシア王家の過去には、成年の儀を迎える前から見境の無かった者も居た。

 その王族は側仕えの侍女を手始めとして、上は貴族の娘から下は街角に立つ娼婦までに手を出し、御落胤を大量生産したのである。

 おかげで当時における王位継承の争いは、フィールの時の比ではなかったと伝えられており、その時からウルネシア王族の教育には「節度」の項目が必修となっている。

 逆に言うと、ある程度の節度さえあれば、王族男子のそうした方面に関しては多少目をつぶってもらえるところはある。

 しかし、〈光の聖王子〉のその方面の素行は清廉そのものと言う評判であり、これがフィールの声価を高めている一因でもあった。

 むろん、シンはフィールの『本性』が決して清廉などでは無いことを知っている。

 それどころか「多少」では済まないようなレベルだと確信していた。

 常春のウルネシアにも訪れる夏の季節に薄着となる若い侍女たちの胸元を、気づかれないように一瞬横目で見る、その視線に含まれる粘着質な光は、雷戦士の称号を得たシンにしか感知しえないものであったが、しかし、噴火する直前の火山のように抑圧された危険な成分を含んでいた。

 もっとも、それらの若い侍女は、この美しい少年に声をかけられれば、喜んで相手を務めたであろう。

 だが、金髪の王子は、若い娘に興味津々なくせに、なぜか行動に移すのを躊躇うところがあった。

 どうも、苦手意識とか怯えに近いようなものを、そうした年代の女性に抱いているようでもあった。


「どうせ、ぼくは元々から『むっつり』なんで『三次元』な女の子は苦手だよ。悪かったね」


 一度、シンがその点をさりげなく指摘した時、フィールは不貞腐れたようにそう言った。

 その『むっつり』とか『三次元』なる意味不明な言葉も含めて、じつに不可解な返事だった。

 元々から、と言う表現に、生まれる前から、と言うニュアンスが感じられたのである。

 ともかく、今は、王子の不遜かつ不埒な企てを防ぐことが先決である。

 それは、シン自身に降りかかる災難を防ぐと言う事もあるのだが。


「とりあえず、今度覚えた新しい魔法を試すから、そこの魔方陣の中央に立ってくれないか」


 フィールは、例によって、説明を省略してそう切り出した。

 それを聞いたシンは、こめかみに鈍い痛みを覚えつつ、間髪入れずに拒否する。


「お断りします」


 フィールは心底不思議そうに側近の騎士を見た。


「なぜだ? ナギ神殿の巫女たちの秘められた神事を見る絶好の機会だぞ。見たくないのか?」

「あのですね、王子」


 シンは深いため息をつきながら言った。


「私も男の端くれですから、見たくないと言えば嘘になります」

「うんうん」


 王子はさもあらんと言いたげにうなずいた。


「ですが、この間のように王宮本殿の尖塔まで吹き飛ばされるような目に遭うのもごめんです」

「ああ、あれか。まぁ、あれは失敗だったかも知れないな」


 フィール王子はしなやかな指で形のよい顎をつまみながら明後日の方向へ視線をそらした。


「高い壁に囲われた沐浴の場を上空から覗こうと言う思いつきはよかったのだがな」


 失敗だったかも知れない、ではなく、明かな大失敗だ、と、シンは思ったが、それを口に出すのはぐっとこらえた。

 これは、先日に行われた浮遊の魔法とか言うものを試した時の話だ。

 風の精霊魔法に属するもので、鳥のように空を飛翔する事ができる、と言う話に興味を覚えたのが敗因だったと、シンは反省している。

 後にシンが聞き及んだところ、浮遊とか飛翔の魔法と言うものは非常に緻密な制御が必要とされる類の魔法であって、それなりの才能と魔力の持ち主が永年に修行を重ねて実用できると言う性質の魔法だったようだ。

 もっとも、フィール王子の魔道士としての才能は非凡と言えるものであった。



             ◇



 通常、魔道士の修行というものは、導師と言われるクラスの魔道士に魔力の流れや編み方を伝授してもらわないと、そもそも魔法の発動に至ることは無いと言われている。

 この伝授は非常に感覚的なもので、大抵の場合、手取り足取りのレベルになる。

 だが、フィール王子は、遥か遠方のマズィルの魔道士と、魔道具による会話のやりとりでだけで、自力で魔法の発動レベルにまで到達したのだ。

 これは過去に前例が無いわけではなかったが、極めて希少なケースであって、この時に魔道具を通して魔法の発動を感知したマズィルの魔道士は、驚愕と感嘆のあまり、一刻ほども絶句したと伝えられる。


「さすがはウルネシアに名高い〈光の聖王子〉。並外れた才能と、素晴しい集中力です」


 と言う手放しの賞賛と共に、マズィルの魔道士はフィールが修行を始めてから魔法の発動に至るまでの最短記録を更新した旨を告げられた。

 確かに、手取り足取りの指導でも一ヶ月はかかるところを、フィール王子は一日でやりとげたのであるから、その驚きも並大抵のものではなかっただろう。

 もっとも、シンの見るところ、才能はともかくとして、その集中力の原動となったのは、一刻も早く『目的』を実現させたいという王子の執念である。

 いかなる困難をも克服するその執念は、目的が目的でなければ、シンとしても賞賛したいところではあった。

 もうひとつ、指導にあたった魔道士が告げたのは、フィール王子の魔力容量が、通常では考えられない規模の、桁違いの大きさであると言う事であった。

 この事実は遠く離れた友好国であるマズィルはともかく、ウルネシアと領地を接する近隣諸国の懸念材料となった。

 才能ある強力な魔道士と言うものは、敵対する勢力にとって、軍事的にも脅威となりうる。

 ましてや、ウルネシアは食料や資源を輸出するほどの大国であって、その経済力を背景にした軍備は大陸東部でも有数の強国でもある。

 ウルネシアと領地を接する諸国は、魔道士を抱えることによってパワーバランスを維持してきたのである。

 逆に言うと、ウルネシアの国力は魔法無しでも他の国々を圧倒するだけの強大なものであったわけで、これがこの国に宮廷魔道士を始めとしてフィールの指導に相応しい魔道士が不在であった理由でもあった。

 ここに突如として〈光の聖王子〉と言う魔法分野での脅威が出現したのだから、国家的な均衡が崩れたものと見なされても、これはしかたがなかっただろう。

 ウルネシア国家首脳としては周辺諸国に対し協調路線を取る戦略を定めていたから、ウルネシアの覇道を警戒される元となったフィール王子の魔法的才能は、宰相の新たな頭痛の種にもなった。


 国家間の緊張をもたらす事になった当の本人は、そうした事情に気づくことも無く、次々といくつかの魔法を習得していった。

 透視、隠蔽、そして浮遊、及び飛翔の各魔法である。

 所謂、攻性魔法に分類されるものはひとつとして無く、どちらかと言うと精密かつ繊細な制御が必要な魔法ばかりであって、フィール王子の資質に合致しているとは言い難いものばかりであった。

 フィール王子の習得した魔法に関しては、指導にあたったマズィルの魔道士からウルネシアの宰相に報告が上げられ、その過程で、各国の放った間諜を通して周辺諸国の首脳部にも伝わったが、現時点では、脅威になりえないとして静観している状況である。

 もっとも、マズィル側からも


「もし、王子が攻性魔法を習得されましても、あれだけの魔力規模で使われますと、確実に味方をも巻き込んでしまいます。今のところ、王子におかれましてはそちら方面への興味はお持ちで無いようですが、仮に習得を希望されましてもこちらからの伝授は控えさせて頂きます」


 との連絡があり、関係者は安堵していると言うところではあった。

 そして、今日、新たな魔法を伝授した事が伝えられた。



             ◇



「透視の魔法って見えるっていうより、存在を検知するって言う感じなんで、沐浴場に巫女が居るって言うのはわかるんだけど、全然見えないんだよなぁ。どうかすると、検知先も沐浴場の向こうに焦点が合う感じだしさ。ナギ神殿の極秘文書や財宝の秘蔵場所なんか興味ないっつうの」


 フィールはシンに向かってぶちぶちと愚痴をこぼした。


「隠蔽の魔法も制御が難しいんだよね。姿を消すっていうより気配を断つって言う感覚で。ぼくにとっては、なんというか戦斧で麦粒に彫刻するようなもので、今ひとつうまくいかないというか」

「それで、今度は変化の魔法ですか」


 その魔方陣を横目で見ながら、シンは冷ややかに言った。


「うん。本来は外見を変えると言う、ま、隠蔽の魔法と元は同じものらしいけどね。ほら」


 フィールは傍らの机にあった筆立てをシンに放った。

 それを受け止めたシンは、少し目を丸くした。

 見た目はずっしりとした金属製なのだが、手の中のそれは軽く、手触りも全く違う。


「金属製に見えるけど、実態は木製だよ」

「ほう、これは凄いですね。こうして触らなければ全くわかりません」

「マズィルから伝授された通りにやるとそうなった。で、それをぼくが改良したのがこっち」


 フィールはもう一つを放って寄越した。

 それを受け取ったシンは、今度は目を見張った。

 見た目は宮殿のあちらこちらで活けられているのを目にする事の多い花であったが、しかし、それは貴重な金属製の造花にも見えた。

 花卉かきの類いには疎いので、その花の名前は知らないが、貴金属に関する目利きは自信がある。

 それはミスリル銀だった。


「ロヴァの花を『変化』させてみた。どうだ。完全に中身までミスリル銀だろ」

「こ……これは、また」


 シンは絶句した。

 いにしえの伝説にある、触れたものを貴金属や宝石に変えたと言う錬金術師。

 目の前の主君は、その伝説級の魔法をいとも簡単に再現してしまったのだ。


「童話に出てくる触れるものを全て黄金に変えた王様と違って、一応、制御はできている……って、違った。の説話では錬金術師だった」


 フィールが、またしても意味不明な事を言っているが、シンはろくに聞いていなかった。

 この魔法は危険だ、と、彼は確信した。

 経済の事は分からないが、軍事や戦いは戦闘神官たる彼の良く知るところである。

 こんな貴金属……それも希少なものを魔法によって造る事が可能となれば、それが戦争の火種になることは明らかであった。


「それで、この魔法をもう少し発展させて、と言うか、正確には隠蔽の魔法と組み合わせて、姿を見えないように『変化』させるように調整したのがこの魔方陣でね。これで姿を消して――つまり『透明人間』みたいになって、ナギ神殿の沐浴場に忍び込もうと言う算段なのさ……って、シン、聞いているかい?」


 フィールが何事かを言い続けているが、シンはそれどころではなかった。

 マズィルの魔道士が伝授した魔法の事を宰相に報告している事は彼も知っている。

 そして、その内容を吟味の上で、わざと間諜に漏らす事で、周辺諸国の首脳陣に知らせているのも、密かに把握している。

 おそらく、現時点では、最初に伝授された外見を変えるだけの無害な魔法と言う認識だろう。

 いや、それとても、王子の魔力容量からすれば、この外見の変化は永続的なものになり、見破る事は難しいだろうから、重さを似せた偽の貨幣を金貨に見せるなどの可能性を考慮すると、話の転び具合では非常に厄介な話にはなり得る。


「しょうがないなぁ。ま、シンが協力してくれないならそれでも良いさ。たまには自分で試してみるよ」


 いや、外見の変化だけなら、それを維持する為に魔力の波動が残るので識別は可能な筈だ。

 だとすれば、改良したと言う魔法だけを知られないようにすれば……

 そこまで、シンが考えた時、ようやくフィールの言葉が脳裏に染み込んできた。


(え? 自分で試す?)


 シンが慌てて見回すと、フィール王子が魔方陣の中央に立ち、呪文を唱えるところだった。


「ちょ……王子、莫迦な真似は……」


 あまりに非常識な主君の振る舞いに、雷戦士の称号を得た側近の騎士も反応が遅れた。

 そしてシンが王子の近くに駆け寄った瞬間、魔方陣が発動し、部屋の中は膨大な魔力の輝きで何も見えなくなった。



             ◇



 気絶していた、と言う自覚より先に、手は傍らに転がっていた剣を掴んでいた。

 ゾーガ神殿で、先達の雷戦士が手元に剣が無いのは素裸でいるよりも心もとないと言っていた事を思い出す。

 神殿で与えられ、愛用の一振りとなった雷戦士の剣の重みは、たしかにシンにとって心強いものがあった。


(心強い?)


 つまりは、自分は何かを警戒しているのだろうか、と、シンは自問した。

 気を失って倒れていたようだ、しかし、体内時計では、それは極めて短い時間だったようだ。

 シンは素早く立ち上がった。

 だが、立ち上がった瞬間、何故かバランスを崩しそうになった。

 なんとなく、手足が自分のものではないような感覚がある。

 それに胸元にずっしりとした重みが感じられて、妙に肩がこるような……いや、自分の事は後だ。

 シンは周囲を見回した。

 フィール王子の莫大な魔力が荒れ狂ったのか、部屋の中はひどいことになっていた。

 そして、その中心……輝きを失った魔方陣の中央に金髪の主君が倒れているのが目に入る。

 シンの戦士としての本能が、その身体に怪我も無く、打ち身等の異常も無い事を瞬時に確認する。

 そして、慌てて目を逸らした。

 魔力に吹き飛ばされたのか、美しい金髪の主君は、はしたなくも素裸の状態で床に大の字になっていたのだ。

 その時に、ひんやりとした空気を素肌に感じ、シンは自分も服を吹き飛ばされている事に気がついた。

 手にした〈厳之霊の剣〉の守護に包まれているのを感じていたせいで、気がつかなかったようだ。

 たしかに、あの先達の言葉は正しかったようだ。


「う、ううん」


 金髪の主君が気がついたらしく、呻くような声が聞こえる。


「王子、早く服をきて下さい!」


 シンは自分も衣服を探しながらそう言った。

 ここには寝泊りする事もあって、着替えを置いてあった筈なのだが、家具の一切がぐちゃぐちゃなので、見つけるのがひと苦労だ。

 なんにせよ、魔法の実験は失敗のようである。

 たしか、姿を見えなくすると言う話だった筈だが、王子の身体はしっかりと見えているのだから。

 不意に、先ほどの光景が思い出されて、シンは真っ赤になった。

 その光景を拭い去ろうと、意味も無く目をこすった。

 だが、素裸で大の字になっていた少女の、露わになった形のよい乳房や、美しい両足の付け根にあった金色をした淡いくさむらに覆われた翳りは、シンの脳裏にしっかりと刻みつけられて……


(ん?)


 一瞬、シンの思考が止まった。


「うー、体がいやにだるいな。シン、すまないが手を貸して……え?」


 背後からのつらそうな声が驚きに変わった。

 しかし、その声はシンの耳になじんだ王子のものとは間違いなく異なっていた。

 シンはゆっくりと振り向くと、上体を起こしかけた、フィール王子の面影をかすかに残した金髪の少女と視線が合った。

 その少女の美しい顔は、まず、驚愕の表情を浮かべ、それが次第に歓喜の表情へと変わっていった。

 その表情の変化と共に、少女の視線が下がって行くのを感じ、つられたようにシンも自分の身体を見下ろしていく。

 最初に目に入ったのは、二つの山だった。

 この角度から見る機会があまり無いので、それが何だかわからなかったが、ようやくシンにもそれが乳房だと言う事が理解できたのは、数瞬の後だった。

 つまり、自分の胸にかなり大きな乳房が有る……


「え?」


 乳房が邪魔で見えないので、慌ててそこに剣を持たない方の手をやる。


「無い……いや、あるけど、こ、これ……これは」


 ごくりと生唾を飲み込み、目を閉じる。

 そして、ゆっくりと深呼吸して、目を開くと、乳房の向こうにある自分の股間を覗き込んだ。

 一瞬の空白の後。

 シンの声にならない悲鳴が、第一離宮の中に響きわたった。



             ◇



「まあ、何にせよ、今日の所はナギ神殿までいかずともすむわけだ」


 と、にこやかに、フィールは言った。


「なにしろ、こうやっていれば、まあ、目の保養には事欠かないからな」


 そう言いながら、先ほどまでぐったりしていたのが信じられぬ程活気に満ちて、素裸のままで、無事に残っていた姿見の鏡の前であれこれとポーズをとる金髪の美少女を見やって、先ほどから頭を抱えたままのシンは、こめかみに軽い鈍痛を覚えた。

 フィール王子の面影を残したこの美しい少女は、やはり、フィール王子だった。

 原因は不明だが、シンと金髪の主君は、完全に女性化してしまっていた。

 この女性化に関しては、二人の間で大きな隔たりがあった。

 フィールの場合は、よくよく注意してみれば、やや面影が残っており、この王子に姉か妹がいれば、このような少女だろうと言う事を感じさせる外見だった。

 これは、元々、この金髪の王子が女と見紛うほどの美貌の持ち主で華奢な体つきでもあったから、その意味では大きな変化は無いといえただろう。

 もっとも、知っていればこそフィールの面影を探すことが可能であって、その体は年齢に似合わぬ完全な黄金比である。

 この完璧な外見を持つ少女が元は王子だと言う事を信じる人間は、まず居ないだろう。

 信じられないと言えば、シンの方の変化だろう。

 穏やかで端正な顔立ちであったものが、野生的で精悍な印象の美女になってしまっている。

 たしか、父親の先祖の肖像で、これと似た美女がいたような記憶があった。

 鍛錬で培った逞しい筋肉は、あらかたが消え失せ、それらの大部分が胸と尻に回ったような印象である。

 特にその胸は、はち切れんばかりの大きさであり、しかし、一向に垂れるような気配も無い。

 もっとも、シンにしてみれば、動くたびに、ゆさゆさ、たゆんたゆんとして邪魔くさいことこの上無い。

 彼の得意とする剣を両手に持って大きな動作で行う大上段の斬撃は、この胸が邪魔で、封じられてしまったも同然である。

 もっとも、筋力もだいぶ落ちてしまっているので、その得意技も含めて、剣の使い方を色々と改める必要があるだろう……


(いやいや、そういう問題じゃない!)


 シンは頭を掻き毟った。

 その未だに混乱したままのシンと違って、一方のフィール王子は、女体に対する視覚的欲望さえ満たされれば、活力にあふれ、悩むことは何もないという態度だった。

 この神経は、いっそあっぱれとでも評すべきであろう。

 しかし、そんな王子と価値観を共有すべき義務は、シンにはなかった。


「王子、そろそろ私は戻らなければなりません」

「ああ、そうか。今日はご苦労だった」

「ご苦労だった、ではありません」


 ついにたまりかねてシンは叫んだ。


「早く私の体を元に戻して下さい」


 それを聞いて、神秘的なほどに美しい少女の顔に、きょとんとした表情が浮かんだ。


「元に……戻すぅ?」


 その瞬間、シンは、じつは呼び出しを受けていた時から覚えていた、その悪い予感がものの見事に的中したのを知った。


「ま、まさか王子……!?」

「いやあ、元に戻そうにも、こーゆーことになった原因がわからないんじゃ、それは無理だよ」


 あっはっは、と、女体への興味を最優先に考える王子は、脳天気に笑ったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る