第2話 王位継承での悶着
時は一ヶ月前に遡る。
晴天であれば夕日に染まる時刻だが、そろそろ雨も降り出そうかという雲行きの為、かなり薄暗くなったウルネシア王宮へと至る道を一人の青年が歩いていた。
赤銅色の長い髪を後ろに束ねた端正な顔立ちの若者で、穏やかで落ち着いた雰囲気は、騎士の装いでなければ文官職にも見えただろう。
しかし、彼を見る城門警護の衛士は、緊張した面持ちで誰何した。
王宮、いや、首都ラーラルルネで、この青年を知らない者は居ないが、これも衛士の役目である。
「お名乗りとご用件を伺います」
「お役目ご苦労様です。親衛騎士シン。フィール王子のお呼びにより、まかり越しました」
青年はいやな顔ひとつせず、丁寧とも言える態度で応じた。
王宮へ武装したまま入場できる資格を持つ者は近衛騎士であって、青年の名乗りにあった「親衛騎士」と言う役職は存在しない。
しかし、衛士は、背中に剣を背負ったままの青年に、大人しく門扉を開いた。
その「親衛騎士」なる呼称は、この青年ただ一人を示す役職でもあった。
だが、一般には、この青年に対しては別の呼称――いや、称号が使用される。
即ち「ゾーガの戦闘神官」もしくは「雷戦士」である。
青年は通用門を通り、第一離宮へと足を進めた。
ウルネシアにおいて、王族は基本的に王宮本殿に住まう事になるが、何らかの理由で王位継承権から外れた王族は、こうした離宮で生活するのが慣わしである。
この本殿から遠く離れた第一離宮も、現在はある王子の住居に定められている。
その王子の名はフィール。
亡くなった前王妃が産んだ、現国王の長子とされているが、現在では、その弟にあたる第二王子が王太子として擁立されることが、ほぼ決定している。
フィール第一王子が王位継承から外れたのは、彼が魔道士として認定されたからだ。
◇
ウルネシアの宮廷では、フィール王子が国王の実子では無いとの噂がある。
前王妃が王子を出産したのは事実だが、これは死産だったとも言われている。
その産後の肥立ちが悪く、前王妃は亡くなったわけであるが、亡くなる前に静養地として過ごしたホロル湖畔にある王族専用の別荘地近くの森で、一人の赤子を拾い、それが今のフィール王子ではないか、と、まことしやかに噂されている。
少数のお供と共に別荘地に赴いた時に、ホロルの森の中で道を行き違えたのか、古代神殿の遺跡のような場所に出てしまい、その遺跡の祭壇らしいところに、一人静かに眠っていた赤子を王妃が……などと、伝えられているが、その真偽は未だにはっきりしない。
事実としては、幾度と無くその森に調査に赴いた学者達からは、そのような遺跡を発見したと言う報告は無い。
また、当時のお供の侍女や護衛の騎士は「陛下に全てお話しました」と言うだけで、その件に関しては堅く口を閉ざしている。
このような噂が広まったのは、国王が、亡くなった前王妃に忠実に仕えていた侍女兼乳母に養育を任せたきりで、長子にろくに会おうともせず、それどころか、跡継ぎに相応しい教育係をつける事すらしなかったからである。
一説には亡くなった王妃を深く愛していた国王が、結果として王妃の命を奪う形で生まれてきた王子に複雑な感情を持っているせいではないかとも言われている。
この場合は、王子は国王の実子と言う事になるのだが、どちらにせよ、王室は沈黙を続け下々の者達が想像を逞しくするにまかせていた。
前王妃の喪が明けるとともに、新しい王妃が迎えられた。
前王妃は、これも故人となっている元神官長の娘であったが、新しい王妃は、国内の有力な貴族の娘だった。
従って、新しい王妃と共に、いわゆる外戚が誕生したわけで、こうなると前王妃の『遺児』とも言うべき子供の処遇が問題となった。
これが愚鈍であれば、躊躇い無く廃嫡するところであったが、困ったことに、その子供は聡明であった。
いや、聡明過ぎたというべきだろう。
フィールと名づけられた子供は、教えられたわけでも無いのにいつのまにか自分で読み書きを覚え、それどころか、歩き回るようになると王立図書館に出入りして禁書以外の蔵書を次々に読破し、礼儀作法から法律や歴史に至る、王族に必要とされる知識を独学で習得してしまったようだった。
ある日、宮廷内の事情に疎い文官の一人が、たまたまフィールが乳兄弟を始めとする侍女や使用人の子供に礼儀作法を教える光景を目撃した。
それは彼のような文官職でも理解するのが難しく、一通りを教養程度に知っていれば上出来と言う典礼に関わる内容だったが、その文官は非常に感銘を受けた様子で仲間内に次のように触れ回った。
「解釈の難しい内容ですが、あのように噛み砕いて分かりやすく教えられると言う事は、相当に深く理解していなければできるものではありません。あれだけ典礼に詳しければ、かのソルタニア聖皇家との交渉の席でも礼を失する事は無いでしょう。さすがは、国王陛下のお血筋です」
また、これも辺境から赴任したばかりの騎士の一人が、ボルッカと呼ばれる戦場を模した遊戯の相手を務める栄誉に預かった(と、本人は解釈しているが)その顛末を、騎士団の宴の席で次のように語った。
「いやはや、コテンパンにやられました。あの意表をついてくる駒運びはただ事ではありません。あのような方に率いられれば、ウルネシア軍は連戦連勝の負け知らずとなりましょう。将来が楽しみです」
乳母が知人に語るところでは、フィール王子は乳飲み子の頃から、乳母の語る事を理解しているような風情で、非常に手のかからない赤子だったようである。
「なんだか、身体は赤ん坊なんだけど、中身はもう少し大人みたいな感じだったねぇ」
乳母は王子の乳兄弟に当たる息子が成長した時に、そう語ったものである。
そんな赤子は、普通は気持ち悪く感じるようなものだが、何しろ、前王妃が死ぬ間際に後を託した『遺児』である。
そうした逸話が広まると共に、祭殿の遺跡で拾われたとの噂と相俟って、フィール王子の素性について、じつは太陽神ナギが下された伝説の御子なのではないか、と言う新たな噂が広がり始めた。
こうなると、フィール王子が王位に着く資質について、国王の実子か否かは問題では無いと言う見解が出てきた。
頭を抱えたのは、現王妃の外戚たる貴族の一派と宰相を始めとする国家の上層部だ。
貴族としては現王妃が産むであろう子供を王位につける事で、その権威を増したいところである。
一方で、宰相を始めとする行政府の高官にしてみれば、有能な国王は良いが、有能すぎては困るのだ。
いわゆる天才と言うのは組織の長としては最悪と言える。
自身の能力を基準にして、絶対的な権威の元に命令を出されてしまえば、大半は凡人の集団に過ぎない組織と言うものは混乱するだけである。老練な宰相は、その事実を良く理解していた。
だからと言って、彼らはフィールを暗殺して解決すると言う選択を、考慮しないでもなかったが、実行するまでには至らない。
ナウザー大陸の極東に位置するウルネシア王国は、別名を常春の国とも称され、温暖な気候と豊かな資源に恵まれた大国であるが、その気候のせいか、住民は暗い気質が先天的に欠けているとも言える人々でもあった。
また、この時代の考え方として、謎の多い出生のフィールが、本当に太陽神ナギの御子であると言う可能性も否定できず、乱暴な手段を取って、もし神々の怒りに触れる事になっては――と言う意見もあった。
こうした経緯と共に、フィール王子は、翌年には成人の儀式を迎えると言う年齢まで、何事も無く成長した。
その頃に、懐妊した現王妃が第二王子を出産した。
と、同時に、宰相や貴族を悩ませていた問題が一気に解決した。
すなわち、フィール王子が魔道士としての道を進む旨を宣言したのである。
◇
「魔道士になりたいと申すか」
ウルネシア王宮本殿の、国王が謁見を行う大広間で、血の繋がりが疑問視される親子が、初めてまともに向かい合ったわけだが、その会話は極めて淡々としていた。
「御意にございます。陛下」
未だ成人の儀も迎えず、王太子として擁立もされない第一王子は、片ひざをついて顔を伏せた姿勢のままで返答した。
「魔力は足りておるのか?」
「おそれながら陛下」
玉座に座ったままで、なおも問いを発する国王の前に、宰相が進み出て代わりに答えた。
「フィール殿下におかれましては、王室の宝物庫にありました魔道具にて、既に資格有りとの結果を得られている由にてございます」
「魔力計測のアレか。誰が宝物庫の鍵を開けた。余は初めて聞く話だが」
「おそれながら、殿下の申し出を承り、臣が陛下より下された権限を持って、かの扉を開きました。ご報告が事後となりました事をお許し下さい」
宰相が白髪に覆われた頭を下げる。
実際には、フィール王子からの申し出を聞いた瞬間、歓喜した勢いのままに、その魔道具を持ってこさせたのだが、そんな気配は微塵も感じさせなかった。
「ふむ。まぁ、良いだろう。だが、魔道士としての修行はいかがする。この王宮に宮廷魔道士が居たのは、確か三代前の話ではなかったか? 魔道は独学で何とかなるようなものではないぞ」
「おそれながら。これも臣がマズィルに繋ぎをつけまして……」
「マズィル? ああ、伯母の嫁ぎ先であったな。あちらから教育係の魔道士を送ってくるのか?」
「いえ、会話の魔道具を送ってくるとの事で」
その時、顔を伏せたフィールの唇が動き
「ふむ、『通信教育』……いや、この場合は『オンライン授業』かな?」
と、意味不明の言葉が紡がれたのだが、その小さな呟きを聞いた者は一人もいなかった。
国王は、宰相の言葉の意味を考えるようにしばし沈黙したが、やがて、視線をフィールに戻した。
「立って顔をよく見せよ」
「御意のままに」
フィールは立ち上がり、伏せていた顔を上げた。
広間に居並ぶ人々から感嘆するかのような声が漏れた。
国王の御前で無作法な話ではあったが、それを咎める者は居なかった。
それほどまでに第一王子フィールは美しい少年だった。
輝くような金髪に翡翠のような瞳。
均整の取れた少年の体に乗っているのは、これが男かと疑うような、信じられないほどに綺麗な顔だった。
しかし、その顔立ちには、国王にも、亡くなった前王妃にも似ているところは少しも無い。
そんな『王子』を見る国王の峻厳な顔には、何の表情も浮かぶことはなかった。
「魔道士になる。その意味はわかっておるな」
「はい」
魔道に関わる者は、政治的な権限を一切失う。
それは、魔法と言う超常的な『力』を得ることの代償だった。
つまり、第一王子たるフィールが王位継承権を失うと言う事を意味していた。
しかし、国王の念を押すような言葉に、この美しい王子は即座に応えた。
国王は、またしてもしばらく沈黙したが、ややあって別のことを口にした。
「お前の乳兄弟は元気でやっているか。たしか、ゾーガ神殿に巡礼に行っていると聞いたが」
「はい、シンからは無事な道中との便りが届いております」
ウルネシアでは騎士を目指す若者が、生涯に一度、軍神にして雷神といわれるゾーガ神を祀った神殿に巡礼に行く慣わしがあり、フィールの乳兄弟は、現在、その巡礼団の一員となっている。
往復に数ヶ月を要する、大掛かりと言えるものだが、一日に一度、魔道具による文のやり取りがあり、残された家族は旅をする若者達の息災を知ることができるのだ。
そして、シンからフィールに当てた文は、確かに道中の無事を知らせるものだったが、それ以上に文面を割いて書かれている内容について、この美しい少年が口にする事はなかった。
「シンか。たしか、そう言う名だったな。武勇も聞いているぞ。中々の腕前だそうだな」
国王の言葉の後半は居並ぶ家臣の中にいる二人の将軍に向けられたものだった。
「御意にございます。昨年の武闘大会で優勝した若者でございますれば」
「さよう。あの剣技に敵う者は、今の軍にもおりますまい」
ウルネシアの軍部を統括するザラトフ将軍とオラル将軍の二人が、口々に国王の言葉を首肯する。
「よかろう。そのシンがウルネシアに戻り次第に近衛騎士として登用せよ。フィール王子の側近として付ける」
それは、王位継承権を返上する第一王子に対する、国王からの見返りとして解釈された。
すなわち、この瞬間に、第一王子フィールが魔道士となる事、及び、その政治的地位を喪失する事が認められたのだった。
一方で近衛騎士の中から将軍職が選ばれるのがウルネシアの慣例であることから、シンと言う若者の近衛騎士への登用は、少なくとも軍事関係に限っては、フィール王子が側近を通して、いささかなりとも関与することを認めると言うサインでもあった。
落としどころとしてはこんなところか、と、宰相は安堵し、そして次代の王の外戚となる貴族を見やった。
宰相としては、外戚による王権への影響を排除すべき立場であり、その意味では、視線の先にいる貴族は今後敵対する相手ではあったが、それでも第一王子の王位継承を防いだ点は評価すべきと考えていた。
(しかし、フィール王子をどうやって説得したか、そのネタを知りたいものだな。あの聡明な少年に王位を捨てさせるなど、わしには逆立ちしてもできん芸当だ)
老練さを謳われる宰相はそう考えていた。
この時、相手も同じ事を考えていたとは、さすがにこの老人でも気づく事は不可能だった。
そう、第一王子フィールは自発的に王位継承権を返上したのである。
より正確には、王位を継ぐよりも、魔道士たることがフィールの『目的』を達成するには最適だったわけだが、宰相も貴族も、その『目的』を知らされても、まず、信じはしなかったであろう。
いや、そもそも、まともな神経の持ち主であれば、王位と『そんなもの』を比較する事自体ありえない話だ。
おそらく、乳兄弟であるシンが不在でなければ、この王位継承権返上の一幕はありえなかった筈である。
ウルネシアで、ただ一人、フィール王子の『本性』を知る若者は、フィールを魔道士にするくらいなら、国王にした方がマシと考えたであろうから。
それでも、シンと言う若者が近衛騎士と言う役職に居ることができれば、彼は軍部に働きかけて、フィール王子を掣肘する事が可能だったかもしれない。
だが、誰もが予想しなかった事に、この若者はゾーガ神殿で神託を受ける事となった。
雷神にしてナウザーと言う世界の秩序を維持する軍神でもあるゾーガの信託は、その武力発動の担い手たる戦闘神官を指し示すものである。
この神託によって選ばれた者は、雷戦士の称号と〈
その一方で、ゾーガの戦闘神官は、特定の国家における軍事的な権利を失う事となる。
ちょうど、魔道に関わる者が政治的権限を失うように。
ゾーガ神の役割は世界の秩序維持ではあるが、国家同士の戦闘には不介入とされている為、これはやむを得ない措置とされている。
結果として、シンと言う若者を戦闘神官に選んだゾーガ神の神託は妥当と言える一面もあった。
しかし、彼が戦闘神官でなければ、回避できた混乱もあったかもしれない。
何よりもこの若者個人に限って言えば、この神託さえ無ければ、あるいは幸福な生涯を過ごせたであろう。
◇
第一離宮は、元々が罪を犯した王族を幽閉する為に建てられたもので、王宮の広大な敷地の片隅に位置する、離宮と言うにはあまりに簡素な館である。
静かに魔道の修行をしたいとの要望で、この館がフィール王子の住居になった。
現在、王子は、この寂しい場所に一人で住んでいる。
一階に食堂や浴室、応接用の部屋などがあるが、これは王族を幽閉した時に看守として詰めていた近衛騎士の生活空間であったものと言われている。
週に一度、侍女や使用人が通いで清掃などを行うので、わりと綺麗に片付いているが、しかし、彼らは地下牢として使われていた王子の私室とも言うべきスペースには入ってこない。
そこに出入りを許されているのは、側近であるシン一人である。
正確には、そうした制約を課しているわけでは無いが、シン以外に出入りする度胸のある人物が居ないと言う事になろうか。
地下階に降り、王子が居る部屋の扉の前で、シンは大きく息をついた。
無意識のうちに、母親の絵姿を納めた首飾りをいじっているのに気がついた。
シンの母親、つまり、フィール王子の乳母に当たる人物が病で亡くなったのは、シンがゾーガ神殿への巡礼に赴く一年前である。
シン自身は言うまでもない話だが、フィール王子も悲嘆にくれた。
ただ、王子が母親の亡骸に謝り続けていたのが印象的だった。
謝罪の言葉は、要約すると、乳母が病に犯された事に気づかなかった事と、治してあげられなかった事の二点であったが、ウルネシアの風土病とも言える静かに進行する病であり、気づいた時には大抵が手遅れになっていると言うものであったから、シンは悲しみながらも、ある意味では諦念の思いがあったが、彼の主君は違った。
フィール王子は、この病に罹った人々の詳細な記録を調べ、その共通項を洗い出し、その原因である病の元を媒介する、大陸東部に特有の植物を好む虫を特定した。
更には、その虫から病の元を抽出し、そして治療薬を作成した。
この結果、この病で死ぬ者は激減したのだが、王子の打った手はそれに留まらなかった。
王子はその治療薬の作成方法をナギ神殿に売却し、その利益を財源として、この病に限らず、
むろん、成年の儀も未だであり、王太子としての擁立もされていない王子には、そのような政治的権限は無いので、前王妃の伝手を使って、一連の施策を神殿主導と言う形式で強引に進めさせたのである。
検査を行う施設の広がりはゆっくりしたものであるが、それにつれて、病に罹る者の数は目に見えて減っていった。
これらの医療的な知見と政治的な手腕に限って言えば、宰相はフィール王子を大いに評価した。
フィールが王族、それも王位継承者でさえ無ければ、と、切歯扼腕の思いであったと伝えられている。
現在では王位継承権を返上しているのだが、魔道士となった為に政治に関わる事ができない状態なので、宰相としては、やはり惜しむ気持ちがあるようではある。
光の聖王子。
フィール王子が、ウルネシアの民から、そのように呼ばれるようになったのはその頃である。
「光の聖王子……か。知らない事は幸せだ」
首飾りを見ながら、シンはそう呟いた。
その呼称を得た時点で(畏れ多い話ではあるが)フィール王子が亡くなって居れば、シンとしても「光の聖王子」なる呼称に異論は無かった事だろう。
最期まで王子の『本性』を知らなかったであろう彼の母親は、あるいは幸せだったのかもしれない。
だが、彼の母親……王子の乳母の死は、一つの軛を解き放ったようだった。
幼い頃からいっしょに育ち、王子の『本性』をいやでも知ることになった若者は、ゾーガ神殿への巡礼に出発するにあたって、非常に危惧の念にかられた。
彼が不在の間、おとなしくしている事を王子に約束させ、彼の母親の名において誓いを立てさせ、それでも足りずに、旅先で毎日のように文を書き、約束の遵守を訴えた。
それらの中で、育ての親とも言うべき乳母の名においての誓いがあれば充分であったと言うことは承知しているが、シンとしては不安で仕方がなかったのである。
巡礼自体を取りやめるわけにもいかなかった。
このゾーガ神殿への巡礼は、騎士を目指すウルネシアの若者にとっての義務でもあると解釈されており、この長旅に耐えられる者でなければ、ウルネシア騎士への道は閉ざされたも同然であった。
武芸以外に能が無いと考えるシンにとって、王子を守る為……いや、王子から守るためには、騎士と言う身分が必要だった、と、当時は考えていた。
シンは取りとめのなくなった思惟を中断し、もうひとつ大きな息をつくと、特に合図をする事も無く扉を開けた。
王族への扉は常に開かれている、と言うのがウルネシアの格言である。
「親衛騎士シン、殿下のお召しに応じ、参上つかまつりました」
その場に片ひざをつき、顔を伏せた状態で口上を述べる。
毎回不要と言われるのだが、必要な形式と言うものは存在するのである。
今回も主君の言葉は同じだった。
「相変わらずだな。いちいち宮廷の礼儀は不要だと……」
「そうはいきません。けじめは必要です」
王子を掣肘するには、まず自分の脇を固める必要がある。
王族と側近の騎士と言う建前を貫く事で、彼の主君にその立場を認識させ、王子の恣意的な行動……ひらたく言うと我儘を押さえ込むのだ。
「ふむ」
王子もそれを理解しているのか、ため息をつくと、簡易な作法に則った臣下への言葉を口にする。
「ご苦労である。面をあげ、楽にせよ」
その言葉を聴いて、シンはようやく立ち上がり、彼の主君を見た。
そして、思わず息を呑む。
頭で分かってはいても、実際に目にする度に、主君の美しさには感嘆せずには居られない。
地下とはいえ、灯りの魔道具をふんだんに使用しているこの部屋は、天候が崩れかけた屋外よりも遥かに明るかったが、肘掛け椅子に座っている少年の、長く伸ばした豪奢な金髪の輝きこそが、一番に眩しく感じられる。
こちらを見る神秘的な翡翠の瞳は、見つめていると吸い込まれそうな錯覚を覚えるほどだった。
その顔立ちは『光の聖王子』の呼称に相応しい、信じられない程の美を顕現していた。
「いつまで人の顔を見て呆けているつもりだ」
金髪の主君の、つまらなそうな言葉に、シンは我に返った。
「申し訳ありません」
シンは頭を下げて、ようやく、その奇跡的に美しい顔から視線をそらす。
「まぁ、いい。お前を呼んだのは……いや、まずは報告から聞こうか」
「はい。持ち出されたと思われる苗は、やはり、オーランド公の息のかかった農場に持ち込まれたようです。三日前に耕地でしかなかったところが、今や、一面に綿の花に覆われているとの事でしたから、王子の仕掛けた成長促進の魔法が影響している事は明白でしょう。これが証拠となるのではないでしょうか」
「……無理だな。大陸中央から輸入されている魔石に似たような効果のものがある。それに三日もあれば代を重ねている筈だ。ぼくの魔力固有の波動は消え失せているだろう。シラを切られればそれまでだ」
王子は嘆息し、天を仰いだ。
「まさか、ぼくのところから盗みを働くような根性のある人間がいるとは思わなかったよ」
「やはり、オーランド公の紹介で来た、あの小間使いですか」
「田舎の母親だか、祖母だかが急病で倒れたとかで、昨日、暇請いの連絡があった。白々しい限りだが証拠が無い」
フィールとシンが話しているのは、金髪の王子は品種改良していた綿花の苗が、一株消え失せた件である。
ウルネシアの特産品であるその綿花は、ある種の病気に弱いと言う性質があった。
フィールはその病気に強い綿花を作ろうと、交配を重ねていたのだが、その中でも有望なものが、その小間使いの手によって持ち出されたようであった。
ちなみに『品種改良』とか『交配』なる手段、及び、その言葉について、シンは聞き覚えが無かったので、知り合いの文官や農家の人間に聞いてまわったが、それを聞かれた人々も首を傾げていた。
通常は作物を病気や害虫から守る為には、魔石……そうした目的の魔力を封じた結晶を使うのが一般的ではあるが、フィール王子は、その魔石無しに栽培できる方法を研究していたようだ。
「病気に強いだけでは無いよ。量も多く、品質も高い綿が収穫できるだろうね」
と、フィールは言った。
「聞き及んだ話では、オーランド公としては、ある程度増えたところで、無償で公開すると言う話です。手柄を取られるのは面白くありませんが、王子のやろうとした事を代わりにやってくれるのですから問題は無いのでは?」
そうした手柄とか評価に、この金髪の主君が全く興味が無い事を承知しているので、シンは敢えてそう言ってみた。
「確かに問題はそこじゃない。もう少し代を重ねて様子を見る必要がある筈なんだ。王立図書の文献で見る限り、このナウザーで交配をやった事例なんか無いんだから、どんな影響が出てくるかわかったもんじゃない。まったく公も早まったことを」
現王妃の父親であるオーランド公はフィールにとっては義理の祖父にも当たるだろうか。
その外戚となった貴族を、フィールは心の中で罵った。
フィールの懸念は、後世において現実のものとなる。
この新種の、魔石を不要とする新種の綿花は、その優れた費用対効果から、あっと言う間にナウザー大陸全土に広がり、既存種を駆逐してしまった。
それを広めたオーランド公は、大陸全土から寄せられる賞賛の嵐に、さすがに良心の呵責を覚えたのか、その晩年にひとつの遺言を残した。
数十年後。
関係者が全て没して更に年代を経た後に、オーランド公の遺言が開封され、新種の綿花に関する功労者としてのフィール王子の名が明らかにされた。
だが、間の悪いことに、それと前後してフィールが懸念した通りに、この新種の綿花は一斉に突然変異を起こしてしまった。
変異した綿花から作られる布は、非常に肌触りの悪い、ごわごわしたものであって、柔らかく肌触りの良い布を前提とした幾つかの衣類に大きな影響を与えた。
とりわけ、女性の下着などは壊滅的な品質のものしか生産できなくなり、時代を降ると、下着と言う衣類は人々の生活から消え失せることになる。
かくしてひとつの文化が破壊された、その原因を遡ったところにフィールの名が記される事となったわけで、後世において彼の名が憎悪と共に語られる、その一因ともなった。
むろん、神ならぬ身のフィール王子は、後世のそうした事態など知る由もなかったが、この時の懸念を捨て置くこと無く、現行品種の綿花の種を、彼の子孫への『遺産』として残した。
約二百年後に、その『遺産』は受け継がれる事となるのだが……それは別の話となる。
「ま、それはいいや」
この時のフィール王子は、あっさりとその話題を打ち切った。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
美しい王子のその表情は、まさに天真爛漫と形容すべきもので、つられてこちらも微笑んでしまうような、赤子の笑みと同質のものだった。
しかし、付き合いの長いシンにとって、それは、妖魔の邪悪な笑みと同等に見えた。
金髪の美しい王子は、その側近を呼び出した本来の要件――彼にとっての永年の『目的』を口にした。
「シン、いよいよ、ナギ神殿の巫女たちの……くくく、その沐浴を覗く時が来たぞ。いやぁ、たまらんなぁ」
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