第10話 野良猫、二匹


 扉の前で侍女たちが待っている。

 四人だ。

 いずれも手を前で合わせて首を垂れている。

 

 扉は、この邸の当主、ローディルダム公ウィリオンの寝室のものである。

 地平から小さく顔を出して街を赤く染めた太陽も、もう仰ぐほどの高さになっている。廊下の窓から差し込む春の陽光は緋毛氈の床敷に侍女たちの影を穏やかに落としている。

 とうに起床の時刻は過ぎているのだ。


 侍女たちは辛抱強く待っているが、時おり互いに小さく顔を見合わせた。併せて首を捻り、眉を曇らせる。言葉こそ出さないが、みな互いに考えていることがよくわかっている。


 彼女らの主、ウィリオンは時刻には正確な性質だった。これまで寝坊したのを見たものはない。夜ごとに姿が見えなくなる時があり、きっと内密に外出しているのだろうと噂にはなっていたが、翌朝にはいつも決められた時刻に起床し、この扉を開けて顔を出した。

 それが今朝は、出てこない。

 侍女たちに原因の心当たりがないわけではない。むしろ、確信している。確信しつつ、案じているのだ。

 新しくやってきた女主人の身を。


 初夜であった。

 が、あたりまえの夜が営まれたとは誰も思っていない。

 出てこないのは、出てこられないからではないのか。

 先ほどから物音ひとつしない室内が、侍女たちの不安をいっそう煽り、妄想を強化した。緞帳を閉め切って朝になってもなお真っ暗な室内に展開する陰惨な光景をみな想像している。

 せめて生きていれば、とまで思っている侍女もいる。

  

 穏やかな陽光に似つかわしくない重い空気に、それからもうしばらく侍女たちが耐えた後、ごとり、という音が聞こえた。室内からだった。

 みな居住まいを正し、改めて礼をとる。


 扉を開けたのは、女主人、ニアナであった。

 沈痛な表情。ゆっくり、わずかに扉を開け、その扉に身体を預けるように足を出す。もつれかけさせたが、驚いた侍女たちが手を出す前に立ち直った。

 眉根を寄せ、首のあたりに手をやっている。

 侍女たちを見つけて、あ、という表情をし、微笑を浮かべようとして、失敗した。


 「……痛っ……」


 肩口を押え、苦悶する。

 侍女たちは顔を見合わせ、唇を噛み、頷きあった。

 最悪の事態は避けられたようだが、想像は間違っていなかった。どこを打擲されたのだろうか。何度、手をあげられたのだろうか。傷があるだろうか。痣が残っていなければよいが。


 「奥様、お手を」


 ニアナの左右についた侍女が手をとり、肩を支えようとする。が、ニアナは断った。首を振り、大丈夫です、と小さく呟いて、こめかみを押え、よろめきながらも歩く。倒れかかれば支えられるようにしながら、侍女たちは彼女をその自室の方向へ誘導した。


 残る侍女ふたりは、意を決した。振り返り、室内を確認しようと扉に手をかける。が、その扉は中から押し開けられた。侍女のひとりはあやうく転倒しかけ、なんとか堪えた。

 暗い室内からのっそりと現れたウィリオンは、夜着の上に薄いものを羽織っている。浅黒い頬にわずかに無精髭が乗っている。乱れた銀髪をそのままに、怯えた表情を浮かべる侍女ふたりを睥睨し、声をかけることもなく歩き出した。侍女らは慌ててついてゆく。洗顔に向かうのだ。

 が、侍女らは気づいた。彼らの主のこぶしに布が巻き付けられ、そこに血が滲んでいることを。

 目を見合わせ、わずかに涙ぐみ、主の背中を刺すような視線で睨む。

 そんなこととは知らないウィリオンは、気取られぬように小さな欠伸をひとつして、後ろ髪に指を入れてわしゃわしゃと掻き、怠そうに足を運んでいる。



 ◇◇◇



 女湯に浸かっているのはニアナである。

 自室で侍女たちの手厚い介助のもとに着替えさせられ、湯に案内されたのだ。ゆっくり浸かれば腫れと痛みが治まるかと存じます、と侍女のひとりは泣きそうな表情で言ったものだった。

 言われたとおり肩まで湯にひたして天井の明かり取りから青空を見上げているが、たしかにニアナの表情は、沈鬱だ。

 時おりこめかみに手をやり、眉根を寄せ、ふうとため息をつく。


 「……やらかした……」


 独り言を口にするのだが、何かしゃべろうとするたびに頭痛に襲われた。ずきりずきりと、胸と頭の内側が脈打つのが感じられた。

 典型的な二日酔いである。


 昨夜、帰れ、帰らぬで押し問答を繰り広げた末に、ニアナは夫を投げ飛ばした。かつて彼女に護身術を教えた娼館の常連の武人は、逆らうな、相手の力を利用しろと何度も力説し、熱心に指導したが、その成果が花開いた。

 ニアナはひとを実際に投げるのは初めてであり、ウィリオンも投げられるのは初めてであった。初夜、という言葉の意義どおりの夜になったといえよう。


 寝転がりながらしばらく大笑いしたあとで、ウィリオンは身を起こし、しゃがみこんで泣きべそをかいているニアナの背をぽんぽんと叩いた。その間にも笑いがこみ上げるようで、くくと喉を鳴らしながらこう言ったのだ。


 あんた、やっぱおもしれえな。いいぜ、気が済むまでここにいろ。まあ遠からず嫌になっちまうだろうけどな。


 三たびの失態と昂った感情で顔をぐしゃぐしゃにしていたニアナは、へ、という形で夫を振り返った。もはや初めての夜を迎える花嫁としての体裁など消し飛んでいる。それでもウィリオンはまっすぐに彼女の顔を見ながら言葉を続けた。


 そうだな、条件をふたつ、出そうじゃねえか。ひとつ、明日は一日、付き合ってもらう。ちとめんどくせえ用事があってな。一緒に行ってもらおうってな。

 

 ニアナに断る理由はない。それでもやや躊躇った末にこくんと頷くと、ウィリオンは満足そうに口角を持ち上げ、ついで足元に転がっていた酒瓶を取り上げ、グラスをひとつニアナの方に押し出した。


 ふたつめは、こいつだ。

 

 ニアナは首を振ったが、ウィリオンは別の瓶からなにか紫色の液体をなみなみグラスに注ぎ、そこに酒の瓶から数滴、しずくを垂らした。ほれ、と押し出され、それでもニアナが迷っていると、耳元に口を近づけ、囁いた。


 ふ、無理すんな。お、嬢、さ、ま。


 かあっ、とニアナの顔に紅が差す。眉を逆立て、グラスを掴んで口をつけ、一息に飲み干した。おお、とウィリオンは声を出す。紫色の液体はなにかの果汁のようだった。のど越しがよく、空腹で喉も乾いていたニアナには非常に美味に感じられた。

 と、腹の底が熱くなってくる。酒が回ってきたのだ。

 最前からの出来事で強い精神的な圧迫を受けていた彼女は、その解放を無意識に求めていた。希求していた。渇望していた。あわせて、空腹を満たしたいとも願っていた。

 そうであるから、二杯目、三杯目はウィリオンが作ったグラスを、四杯目からは瓶を奪い取って自分で作ったとしても誰も責めるわけにはいかないのである。

 七杯目でニアナは左右に頭を揺らしながら、なにやら歌を口ずさみだした。娼館の酒場で、たけなわとなった際にみなで合唱した歌である。その時の記憶が顔を出したのだろう。

 それを見て、冷血公爵は腹を抱えて大笑いした。床を叩こうとして誤って手近のグラスを割ってしまい、笑いながらその破片を回収して、手のひらに裂傷を負ってしまった。翌朝の包帯と血の滲みはこの時のものである。


 夜明けも近い時刻に、ウィリオンは長椅子でいびきをかきはじめた。

 ニアナは床で丸くなっている。

 二匹の野良猫の就寝、といった様子である。


 そうして今朝、ふたりともに頭痛と、不自由な場所で眠ったことによる全身の痛みを抱えて侍女たちの前に姿を現したのである。


 


 

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