第9話 死なせない


 帰ってよい。

 ウィリオンの言葉をニアナはずっと咀嚼している。

 

 帰る。帰れる。

 みんなのところ、家族のところに。

 不安と緊張と、失敗してしまったことの悔恨で氷結していた気持ちに、わずか半日前に別れたばかりの娼館の情景が、湿度を伴った懐かしさとともに沁みこんできた。その温もりの中に身を浸したいと渇望した。

 だが、どれだけ飲み込もうとしても、その言葉は素直に彼女の胃の腑に落ちていかなかったのである。


 やめろ、言うな、と、ニアナは自分の喉に手をやった。が、娼館を出るときに皆が浮かべてくれた涙が、いつも自分のことより娘の身だけを案じてくれた母の面影が、そして花街で自分の生き方を見つけられたと感じていた自身の矜持が、その手を振りほどいた。


 「……あ、の……」


 ニアナが俯いたままで出した遠慮がちな声に、ウィリオンは、ん、という表情を作ってみせた。


 「……あの、先ほどの……誰の手も借りない、って、お言葉……」

 「ああ。それがどうかしたか」

 「……お聞かせ、いただけませんか。なにをなさろうとしているのか」

 「……なんだと?」

 「たぶん、それが……わたくしを呼んでいただいた、どなたかに選んでいただいた理由なのではないか、と思うのです。こんなわたくしにも、できることがある、公爵様をお助けすることができる、と……ですから」


 ウィリオンはしばらく呆けたようにニアナの顔を眺めて、それから、ぶはっと吹き出した。長椅子の座面をばんばんと叩いて子どものように笑う。


 「あっはは。ほんとにおもしれえな、あんた。帰れるって言ってんだぜ。余計なことに首つっこまねえで、ほら、今夜はもう寝ろよ。ベッドは譲ってやっからよ」

 

 その時、ニアナは顔を上げた。怯えをわずかに浮かべながら、両手を膝に突っ張りながら、それでも彼女は、まっすぐにウィリオンを見つめた。

 その視線が少しも揺れていないことを見つけて、ウィリオンはにやけた表情を引っ込めた。すっと目を細め、眉を上げ、静かに見返す。ニアナが知っている冷血公爵の、秀麗だが凍てついたおもてがそこにある。

 心臓を掴まれるような圧力を受けてニアナはひるんだ。もういい、やめろ、と彼女の中のなにかが言ったが、それでも口が動いた。言葉が勝手に湧いてくる。


 「……わたくしは、覚悟をもってここに来ました。突然のお召しに、迷って、悩んで……それでも、わたくしを生かしてくださった方への恩返しのため、そして、わたくしを必要としてくださったどなたかのために、決めたのです。いまが、自分の命に意味が生まれるときなんだろう、って」


 公爵は黙って聞いている。呼吸が徐々に早まるのをニアナは自覚した。胸元に汗がにじむ。それでも、なおニアナは続けた。


 「公爵様のことはなにも存じ上げません。なのに、いろいろな噂を耳にしています。そして実際にお目にかかった公爵様は、その……いろいろなお姿、をお持ちで……でも、決して冷たく、恐ろしいだけのお方ではないとお見受けしました。だからこそ、伺いたいのです。なにをなさろうとしているのか。なぜ、おひとりで進められようとしているのか……どれが、本当の公爵様の、お姿か」


 そこまで言ったときに、ばん、という音が遮った。公爵が手を打ち合わせたのだ。すうと手を開き、その向こうから凍てつくような瞳をニアナに向ける。


 「知ったようなことを」


 声は、中庭で男たちに対峙した際に発したものと同じ響きを持っていた。ニアナは喉元に氷の刃を押し当てられたように感じている。息苦しさにあえぐ。


 「君になにがわかる。なにができる。冷血と囁かれた公爵の閨に入ってみれば、軽口を叩く刺青の男だった。なにやら秘密を負っているらしい。そのことに興奮したか。秘密を共有したような気になったか。帰ってよいといわれ、安堵のあまり調子に乗ったか」

 「……そん、な」

 「繰り返す。余計なことに首を突っ込むな。君にできるようなことはなにもない」


 突き放すように言葉を投げ、公爵は立ち上がった。戸棚から厚手のものを取り出し、夜着の上から羽織った。扉に向かって足を出す。


 「この部屋で休め。俺は別の部屋に行く。あるものは自由に使ってよい」

 「……あ……」

 「この後のことは執事に指示しておく。先ほども言ったが、金は返す必要はない。戻る場所はいくらでもあるのだろう。娼館であろうが、両親の元であろうが。君の世界に戻れ。平穏で安寧な、波風の立たない人生にな」


 そういい、ちらとニアナの方を振り向いて、表情をわずかに動かした。それはちょうど、夕刻に男たちの処置をした後でニアナたちを見上げて浮かべたのと同じ性質のものだった。


 お前たちとは生きている世界が違うんだ。

 入ってくるな。俺の世界に。

 

 自らを嘲り、貶めながら、他人を拒絶する。

 微笑の意味を、ニアナはそのとき、はっきりと理解したのだ。

 そのことがニアナを突き動かした。


 「……わたし、は……!」


 膝を浮かせ、立ち上がりながら、ニアナは強い声を出した。

 公爵は足を止めた。ただ、振り返らない。

 その背にさらに声をぶつける。


 「捨てられました! 父に! 幼い頃、母と共に……!」

 「……」

 「冬の、夜です。凍えて、震えて、食べるものもなくて。おぼろげにしか覚えていません、それでも、それでも、もういなくなるんだ、わたしは、お母様は消えるんだ、って思ったこと、わたしとお母様が居ていい場所はもうないんだって思ったこと、ずっと忘れていません、心の中から消えたこと、ないんです!」


 いつか涙が滲んでいる。


 「でも、娼館の人たちは、迎えてくれました、お母様とわたしを暖炉の前に連れて行ってくれて、あったかいお粥をくれて、みんながわたしの顔を覗き込んで、わたしは怒られるって、叱られるって思ってたのに、みんなみんな、笑ってて……!」


 公爵はやや俯きながら、ニアナの方へわずかに顔を振り向けている。銀の前髪が落ちている。表情がわからない。


 「まいにち、まいにち、そうやってわたしたちに笑ってくれて、居場所がないわたしたちに、世界が無くなったわたしたちに、ここが帰る場所だよって、なにがあってもここに戻っておいでって、だから、だから、わたし、恩返ししたいんです。娼館のみんなに、わたしと繋がった、わたしの世界に繋がった、みんなに」


 ぐいっと目を拭って、息を吸い込み、ひときわ大きな声を出そうとして、止めた。代わりにはあっと息を吐き、再びうなだれた。


 「……公爵様も、繋がったんです。わたし、と」


 その時、公爵がくるりと踵を返した。

 大股でニアナに向かってくる。

 眉を逆立て、肩をいからせ、床をだんだんと踏みしめて。

 気づいて後ずさるニアナの肩に両手がかかる。ぐっと引き寄せ、顔を近づけ、目を見開く。黒灰色の瞳を満たしているのは苛立ちであり、焦燥であり、哀しみだとニアナは見て取った。その目を、ニアナは唇を嚙みながら、まっすぐに見返した。


 「……だったら、よお」


 公爵、ウィリオンの口調が戻っている。


 「あんた、俺と一緒に死ねるってのか。え。あんたが言ってんのはそういうことだぞ。俺とおんなじ地獄、見てくれるってのかよ。足をよ、血だらけにしてよ、棘だらけの道を歩けるってのかよ。ああ?」

 「いいえ!」


 ニアナも赤い目を精一杯見開いている。声を張る。


 「いいえ、死にません! 公爵様も、わたしも……わたしが、死なせません!」

 「はっ、馬鹿野郎、あんたになにができんだよ、自惚れんじゃねえ!」


 そういって肩を掴む指に力を入れる。ニアナは苦悶に顔を歪める。その顔にウィリオンはさらに強い声をぶつけた。


 「帰れ! 俺に関わるな! なんにも知らねえお嬢さんが居ていい場所じゃねえんだよ、俺の世界は!」

 「あなたの世界はわからない、でも、あなたもわたしの世界、わたしの地獄は知らない! なんにもできないのは、なんにも知らないから! だから、教えて、あなたの世界、あなたの……地獄を!」

 「うるせえ、帰れって言ってんだろ!」

 「帰りません!」

 「帰れ!」

 「帰りません!」

 「あああっ!」


 ウィリオンはどんとニアナを突き放し、踵を返した。扉に向かってどすどすと歩いてゆく。ニアナは追って、その背に手をかけようとした。が、振り返った相手に掴まれる。腕を捻り上げられる、と感じた。

 ニアナの身体が自然に動いた。腕の動きにあらがわず、その動きを利用して身体を回し、相手の腹に背中をどんとつけた。ウィリオンは咄嗟にそれを避けようと身体を開いたが、それがいけなかった。

 ニアナの背に乗ったウィリオン。無意識に腕を強く引き落とす、ニアナ。

 綺麗に投げ飛ばされて床に転がったウィリオンも、両足を踏ん張った姿勢のままで目を見開いて固まっているニアナも、どちらも動けない。


 ゆっくり十を数えるほどの時間が経った。

 沈黙を破ったのは、ウィリオンだった。


 「……ふっ」


 表情を歪めて、声を漏らした。笑っているのだろう。ただ、泣きだしそうにも見えた。まだ動けないニアナの、こちらは実際にべそをかきつつある顔を見て、寝転がったまま肩を揺らし、それから腹を抱えた。


 「ふふ、あはは、あははは、あはははははははははっ」


 笑い続けるウィリオンと、死神を招来してしまったようなたたずまいで沈黙しているニアナ。共通しているのは、どちらの目尻からも涙が零れたことである。

 両者の意味は、ただ、ずいぶんとかけ離れてはいるのだが。

 


 


 


 

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