第8話 同類


 薄く目を開く。

 真っ暗だ。

 まだ朝が来ていないのだろうと、ニアナは夢うつつに考えている。

 

 意識が焦点を結んでいない。

 ぼんやりと、浮かんでくる連想たちにじゃれている。


 遅番のお姉様たち、今日はちゃんと髪を整えて休んだかな。

 ごはんはしっかり食べたかな。お酒とおつまみだけで済ましてないかな。

 明日の朝ごはんは、なにを用意してあげようかなあ。

 ……そうだ、今日は市場に行けなかったから、材料、なにも買えてない。卵くらいはあったかな。明日こそ、ちゃんと買い物、してこなきゃ。


 どうして市場、行けなかったんだろう。

 ……用事が、あったから。迎えが来るから。

 誰に。わたしに。

 どこから……。


 ローディルダム公爵家から。


 その言葉が脳裏に浮かぶと同時に、首の後ろに何かが触るのを感じた。身を捩る。そのことで、自分が横向きにどこかに寝かされていることにも気が付いた。肘で半身を起こして、背中のほうに顔を向ける。


 「よお。醒めたな」


 銀色の髪。黒灰色の瞳。

 ニアナの髪を触っていたのだろう。持ち上げた左手を自分の前髪にやり、欠伸混じりに後ろに掻き上げながら、男は気怠げに呟いた。

 ニアナの背に沿うように身体を横たえ、右肘をベッドに置き、拳で頭を支えているその男の鼻先は、ニアナの頬につくほどの距離にあった。


 ぼんやりと男の顔を眺める。そしてようやく意識を夢の淀みから引き揚げたニアナは、いくつかの重大な事実を発見した。

 自分がベッドで、男の胸に背をつけて眠っていたらしいこと。

 その男の上半身には衣服が乗っていないこと。

 そして自分の腹、臍より下に、いま男の左の手のひらが置かれたこと。


 ニアナは叫ぼうとしたが、なんとか堪えた。代わりに釣り上げられた魚のように身をくねらせ、男の腕から逃れると、ぴちぴちとベッドの端まで移動し、落ちた。

 落ちてすぐに、尻もちのままでずるずると後退する。男に手のひらを向け、いやいやするように首を振りながら。


 「……なにやってんだ、あんた」

 「あ、う、お、おとこ……え、なんで、どうして」

 「……俺の部屋で、俺のベッドだからな」

 「……あ」


 男は身を起こし、ベッドの上に片膝を立ててニアナに相対した。薄い鋼のような筋肉で覆われた肩口から紅薔薇が覗いている。腹から下はシーツで覆われているが、その内側に衣服があるかをニアナは判断できていない。

 訝しげに眉をひそめて、男は品定めをするようにニアナの頭頂から膝元までに目線を走らせた。

 

 「あんたよ……娼館で働いてたんだろ。その割に俺の裸を見たくれえで気ぃ失っちまうし、そんな有り様だしよ。なんなんだ、まるで男を知らねえ生娘きむすめみてえだ」


 言われて、ニアナは反射的に軽口で言い返そうとした。男の裸くらいどうということはない、疲れていたし、唐突に想像しなかったものを見せられたからだ、と。相手の口調が慣れた夜の街のものだったためだが、声が喉を通過する前にさらに重要なことを思い出した。

 目の前の男の、名。

 尻もちの状態から迅速に手を前につき、今夜すでに何度もそうしたように、地を割らんばかりの勢いで床に額を打ち付けた。


 「ろ、ローディルダム公、も、もも、申し訳、ございませんでした!」

 「ああ? なに謝ってんだ、いまさら。いいから顔あげろよ。ほら、こっち来い」


 そう言いながら、ローディルダム公ウィリオンは、ぽんぽんと自分の横を叩いてみせた。が、ニアナは動かない。小さく震えながら額を床にめり込ませるべく努力を重ねている。

 相手が夫となる人と分かった以上は、初夜となる今夜であるから、ニアナは立ち上がり、褥に上がるべきであり、すべて委ねるべきであった。が、日中に見た冷血の印象と、いま目の前で軽口を叩いている男の姿がどうしても混ざり合わない。といって、背の刺青は、その喋り方は、と訊くこともできない。

 ニアナが持参してきたもろもろの覚悟は、いま、機能しようとしないのだ。


 ウィリオンは眉を上げ、肩をすくめた。ベッドから降り、壁際の戸棚に歩み寄った。かちゃりと器を打ち付けるような音。それでもニアナには見えていない。顔を伏せているためでもあり、目をぎゅっと瞑っているためでもある。

 ウィリオンは彼女の近くに歩いてきて、どすんと床に腰を下ろした。胡坐をかき、彼女と自分の横にグラスを置く。


 「ほらよ。いいから、顔、あげろ」


 瓶の中の琥珀色の液体をグラスに注ぎながら声をかける。それでも動こうとしないニアナに、彼はそっと空いているほうの腕を伸ばした。指先で、すう、とニアナの背を上からなぞる。

 弾かれるように身を起こして、ニアナはひゃっと小さく叫んだ。


 「あっはは。ベッドが嫌ならここでいい。飲めよ。上等な酒だぜ」

 「……お、お酒は……飲めません」


 ニアナは肩を寄せ、身体を小さくして、相手の顔を見ないように下を向いている。今更ではあるが侍女長の言いつけを思い出したこともあるし、間近で男性の裸の上半身に向き合うことに抵抗があったためでもある。

 その頭頂部を眺めて大きなため息をついたのはウィリオンだ。


 「なあにい? マジかよ。男も知らねえ、酒も飲めねえ。なんなんだよあんた、成人はしてんだよな? ほんとに娼館に居たのか? さっきのあれは、なんかの芝居だったのか?」

 「……し、娼館にいたのは……ほんとう、です……そ、の……」


 ニアナは事情を説明しようとしかけたが、言葉を呑んだ。どうやら目の前の相手、ローディルダム公ウィリオンは経緯も、事情も知らないらしい。今回のことは彼の意思と無関係なところで進められたのだろう。そうであれば余計なことはしないほうが良いと判断し、彼女は畳んだ膝の上に手を突っ張って、俯いたまま沈黙した。

 そんなニアナにしばらく視線を落としていたウィリオンは、やがてばりばりと乱暴に頭を掻きまわし、まいったな、と声を出した。


 「しくじったぜ。てっきり同類だと思ったからつい、地を見せちまったじゃねえか。これならよそ行きのツラの方がやりやすかった」

 「……どう、るい……」

 「ああ。俺もよ、この家を継ぐのに結婚した体裁とらなきゃいけねえのは知ってたから、そのうちどっかの呑み込みのいい商売女に金つかませて形だけ整えりゃいいって思ってたんだが、娼館の出ならちょうどいいや、ってなったんだよ」

 「……」

 「どんな事情か知らねえが、娼館で世話になってただけの、ほんとのご令嬢、お嬢さんなんだろ、あんた。だったらやっぱり巻き込むわけにはいかねえじゃねえか。ちきしょう、自分から出て行ってくれるようにいろいろビビらせたのになあ、あんたのこと。無駄になっちまった」


 ウィリオンの言うことのほとんどが、ニアナには通じていない。巻き込む、とはなんだろう。自分から出ていくように仕向けた、というのは。夕刻の、あの私刑ともとれた一連の出来事は、もしや自分に見せつけるためのものだったのか。


 「だが、もしかしたら……いや、やっぱりこいつぁ、アムゼンのおっさんの仕込みだな。なるほど、それで花街の……ふん、あの助平おやじめ。余計なことをしやがって。俺は誰の手も借りねえって言ったじゃねえか」


 アムゼン、あの誠実そうな執事長。助平という言葉をもちろんニアナは知っており、それは彼の印象にまったく合致しない。

 言葉を返すこともできずに黙っているニアナの前で、ウィリオンはしばらく黙って天井のあたりを睨んでいた。が、やがて頭を振り、手元のグラスを持ち上げてぐっと呷る。水で割っていない強い酒が喉に流れ込む。

 グラスを置いて、ウィリオンは立ち上がった。ベッドの縁に置いてあった夜着をまとい、腹の紐を締めながら、ニアナの方を振り返らずに声をかけた。

 

 「悪かったな。こっちの事情で訳のわかんねえことに巻き込んじまって。今日はこの部屋で寝ろ。夜の間に自分の部屋に戻ったなんて侍女たちに聞こえたら、体裁悪いだろ。明日になったら適当な理由をつけて、あんたは帰してやるよ」

 「……え」

 「心配すんな。俺があんたのことを気に入らずに放り出した、ってことにすりゃいい。あんたにゃ迷惑、かけねえよ。ああ、支度金か? 返せなんて言わねえ。詫び料だ。その代わり、今夜ここで見たことは忘れてくれ。絶対に、他言無用だ」


 長椅子に移動し、どすんと座ったウィリオンの足元に、ニアナはぼうっと視線を置いている。


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