第7話 薔薇と狼


 金の把手を回す。

 きしりとも音がしなかった。極めて上質な素材と細工ということなのだろう。

 ニアナはそれでも慎重に、ごくゆっくりと扉を引き開け、内側に踏み入った。


 失礼します、と声を出しかけ、口に手を当てる。

 夫に呼ばれるまで決して何も言ってはならぬ、という侍女長の厳命に思い至ったのだ。


 室内は薄暗い。

 広い空間と見えるが、照明といえば隅にある小さな燭台ひとつだけ。

 廊下も薄暗かったから目は慣れているはずだが、すぐに形が見て取れるのは大きなベッドの輪郭だけだった。


 扉を閉め、室内に振り返る。

 教えられたとおりに腰を落とし、礼をとる。手を腹の前に組んで顔を伏せ、その窮屈な姿勢のまま、部屋のどこかにいるであろう夫が呼ぶのを待った。


 が、声がかからない。

 しばらく我慢したが、様子もおかしい。何の物音もしない。人の気配が感じられないのだ。

 そっと顔を上げて目をこらす。豪奢な調度類なり装飾も見えるようになってきたが、やはり誰の姿も見えない。


「……あれ?」


 出してはならぬという声だったが、誰もいないのならよいだろう。

 数歩踏み出し、見回す。ベッドの上にも長椅子にも、壁の際の小机にもいないようだ。


「……え、もしかして……部屋、間違えた、かな……」


 そんなことはないはずだった。

 廊下は一本道、その突き当たりをたしかに侍女は示していた。

 

 さらにしばらく時間を置いたが、夫も誰も、現れない。

 部屋の中を少し歩いてみる。ベッドの掛け布も平坦であり、中に潜っているわけでもなさそうだった。戸棚も見つけたが、開けるまでもないだろう。

 ニアナは困惑し、頬に手を当てて部屋の中央に立ちすくんだ。


「いったん、戻った方がいいのかな……」


 はあ、と息を吐いた。

 その時である。


 肩に、なにかが触れた。

 

 人の手だ、と、ニアナは瞬時に判断している。

 暗闇でそのように触れられることに彼女は慣れていた。娼館から夜に使いにでることもある。店の裏で酔っ払いに見つかることもある。そうしたときの感触が、彼女の身体に危難の発生を告げるものとして染み込んでいたのである。


 染み込んでいたものは、もうひとつある。

 花街の夜で危難に出会えば、悲鳴をあげて助けを求めるよりも先にすべきことがあり、ニアナはその対処に非常に優れていた。一種の才能であった。

 考える前に身体が動く。


 わずかに膝を曲げ、相手の手を浮かせる。

 感触があった側の足を軸として身体を素早く回転させる。勢いを利用して振り上げた肘を内側から相手の腕に当て、外に弾く。

 そのまま回転を止めず、相手の足首があるはずの場所を足刀で薙いだ。当たれば確実に転倒させることができる。

 全力で振り払った足は、だが、空を切った。


 相手の身体が、ふわりと飛んだ。

 薄闇のなかで、それでもその身のこなしが信じられないほど軽やかであることを捉え、ニアナは息を呑んだ。相手は数歩離れた位置に降り立った。こちらも体勢を戻し、ふううと細く息を送り出す。両手を身体の前に構えて相手の出方を伺う。

 伺っているうちに、彼女は重大なことに気がついた。


 ここは、邸の当主、ローディルダム公の寝室である。

 時刻は深更。

 そういう場所に、そういう時刻に立ち入るのはどんな人物か。


 ニアナの顔が歪んだ。絶叫と泣き笑いを攪拌したような表情である。


「……こ、こ……公爵……さまっ」


 ばん、と床に手をつく。

 もはや身を投げ出す勢いである。


 やってしまった。

 やってしまった。


「も、申し訳ございません、ご不在でしたので、その、とても不安になって、そこで急に触られたものですから、暗いですし、驚いて咄嗟に……あ」


 早口でまくしたて、そうして、第二の失態に思い至った。

 呼ばれるまで、決して顔をあげてはいけません。声を出してはなりません。これは当公爵家の、たいへん重要なしきたりです。

 侍女長の重々しい声を思い出す。


 声を消したまま大きく息を吐き出し、ニアナは床に額を打ちつけた。

 終わった、という言葉が脳裏をぐるぐると巡っている。


 夕刻の、中庭でのことを思い出す。

 思いついたように領民を捕らえ、裁きも受けさせずに闇に葬る冷血公爵。

 婚姻初夜に肘を打ちつけて足払いをかけた花嫁の扱いなど、想像するまでもなかった。

 離縁だろうか。いや、婚儀も済んでいない。追い出されるだけか。

 たぶん、違う。むしろこの罪をもって拘束されるのだろう。肉体的に、あるいは精神的に。縛り付けられ、責め苛まれ、打たれ、傷つけられるだろう。


 全身から冷や汗を流しながら妄想を展開させるニアナは、その時、ふっという音を聞いた。顔を上げる。それもまた禁忌を犯す行為だったが、もはや瑣末ごとだった。


 闇に慣れた視野が銀髪の長身の男を捉えた。

 男は、わずかに切長の目の縁を歪ませ、口角を持ち上げていた。


 わら、った……?


 ローディルダム公ウィリオンは、その表情を保ったままで踵を返した。ベッドのほうへ移動し、どすんと腰掛ける。足をぽんと無造作に組み合わせ、両肘をその上に置いて、顎の下で組み合わせている。

 手の甲に乗せた顔は、もう笑っていない。

 ニアナのほうをじっと見つめている。


 ど、どうしよう……こういう、とき、は……。


 中庭での出来事。侍女から聞かされた言葉。恐れてはいないつもりだったが、やはり身体の芯が痺れているのだろう。あるいは立て続けの失態も、最前からの緊張も、そして空腹気味の腹も、すべてが彼女の理性と判断能力を奪う方向へ働いた。


 ニアナは、ぱっと立ち上がった。ウィリオンの足元に走り寄る。

 一礼して跪き、上に組まれた相手の足首に手を添え、持ち上げた。

 ん、というように眉を上げた彼の表情は見ていない。

 そのまま自分の腿の上に相手の足首を置き、着ている夜着の裾を持ち上げ、包んだ。さらさら、と拭うような仕草をする。


 ニアナは娼館で暮らしたが、彼女自身は、そうした仕事をしたことがない。

 が、女たちが一連の段取りを教わっている様子をいくども見ている。

 特に大事な客を丁重に迎える際の礼節として、相手の足を自らの装束で包んで拭うという慣習が花街にはあることをよく知っている。

 この危急の場を救う手段として、その記憶を彼女は無意識に引き出した。


「……ひとつ、尋ねる」


 びくっ、とニアナは手を止めた。

 初めて間近に聞く夫の声。

 離れて聞いたときは低いながらもよく通る、有無を言わせぬ冷たい声という印象だったが、いまこうして間近で受け取ってみると、圧力を帯びながらも意外にも穏やかで、静かに浸み込んでくるような声質と感じた。

 

「思い違いであれば許せ。その仕草……歓楽街、花街というのか、その娼館で客を迎えるためのものではないか」


 ニアナの手がびくっと揺れ、止まった。

 咄嗟に見上げ、間近に相手の視線をまともに受ける。睨まれているとは思わなかったが、その黒灰色の瞳は不用意な弁明を許そうとしていないと感じた。

 俯き、視線を彷徨わせ、しばらく言葉を探したが、やがてかくりと首を落とした。

 部屋の照明が十分であれば、彼女の顔がみるみる蒼白になっていく様子がよく観察できただろう。


 もう、だめだ。

 完全に、完膚なきまでに。

 

 厳罰となるだろう。事情を隠して公爵様に近づいたとの理由で。実際には呼ばれた側だが、公爵様は事情を知らないようだ。

 打たれるだけならよい。生きてこの邸を出ることが叶うだろうか。いや、難しいだろう。やむを得ない。覚悟してきたのだ。だから、それは、いい。ただ……娼館のみんな、家族たちに累が及ばないだろうか。公爵家をたばかったとの罪に連座することはないだろうか。なんとかしなければ。なんとかしなければ。


 肺の中の空気をすべて吐き切って、震える手を膝に置き、俯いている。そのうちに目の縁に涙が滲んできた。うまくやれなかった自分を悔やみ、もう会えぬかもしれない娼館の皆を思っている。


 しばらくの静寂。

 はっ、はっ、というごく浅く早いニアナの息遣い以外は聞こえない。


 と。

 く、く、といったような音。

 ニアナも気づいているが、もはや心がここにない。反応できない。

 それでも、その音がぶはっという破裂音となったから、さすがにニアナは驚いて仰ぎ見た。


 ウィリオンは、笑っていた。

 口を大きく開き、片手で額を抑え、堪えきれぬように肩を揺らしている。


 やがて落ち着いたのか、手を外して改めてニアナを見下ろした。

 鋭い眼光は変わらない。が、先ほどまでの氷のような冷たさを失っている。

 馳走を目の前にした野生の肉食獣。

 ニアナは相手の表情をそのように印象した。


「……なんだよ」


 まだくつくつと喉を鳴らしながら、ウィリオンは声を出した。その声色も先ほどまでとは大きく違う。低く抑えた穏やかな声は失せ、腹の底から響かせるような野性的なものに変わっている。


「ふん、そうか。あんたも同じ穴のムジナだったって訳かい」

「……え」


 口調も言葉遣いも、まったく違う。

 笑いながら、ウィリオンはニアナの頬に手を伸ばした。包むように添えて自分の顔を近づける。

 ニアナは動けない。近づいてくる黒灰色の瞳に縛られている。昼間はその冷たさに射抜かれた瞳は、いま熱をもって彼女を灼いている。

 ウィリオンは彼女の耳元に口を寄せ、囁くような甘い声を出した。

 

「そうならそうと早く言えよ。だったら硬え挨拶なんざ、要らねえな」


 ふっと口の端を持ち上げてみせてから、ウィリオンは立ち上がった。

 数歩離れて、白い夜着の留め具に指をかける。ゆっくりと外してゆき、そこで向こうを向いた。燭台の灯りがその背をゆらゆらと照らし出す。

 夜着の肩がするりと落ちた。


「……あ」


 ニアナは息を呑み、わずかに腰を浮かせて、それから再びへたり込んだ。

 真紅の薔薇と、黒い狼。 

 ローディルダム公ウィリオンの、彫刻のような硬質の筋肉で形つくられた広い背中。それを覆っていたものは、凄惨と表現すべきほどに美しく、巨大な刺青だった。

 狂ったように咲き誇る深紅の薔薇。その蔦、無数の鋭い棘のはざまから覗く漆黒の狼の黄金の瞳がニアナを捉え、貫いている。


「あんた、けっこう強えな。悪くなかったぜ、さっきの蹴り」


 肩越しにニアナを振り返り、ウィリオンは目元を歪めてみせた。

 笑っているようにも、獲物の喉元に狙いを定める獣の視線にも思えた。


「よろしくな、娼館から来たご令嬢さん。楽しくやろうぜ」


 


 

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