第6話 新しい人生


 華美ではないが、上品で落ち着いた調度と設えの部屋にニアナは案内された。

 その頃には侍女も落ち着いており、部屋に入るなりニアナに頭を下げ、詫びた。

 

 「……あれは、よくあることなんですか」


 尋ねて良いものか迷いながら、ニアナは侍女に顔を寄せ、囁くように抑えた声を出した。あれ、とはもちろん、邸の当主、ローディルダム公の私刑とも見える行いだ。

 侍女はびくっとその顔を見上げて、小さくかぶりを振った。


 「……実際にああしたお姿をお見かけするのは、わたくしは初めてで……」

 「実際に?」


 侍女は、しまった、という顔で口を押さえた。ニアナは黙って言葉を待つ。侍女はしばらく躊躇った末に、肩をすぼめ、俯いて小さな声を出した。


 「……あの……あくまで、噂でございます……旦那様は時折り、唐突に思いついたように領内の者をお縄にかけるようお命じになることがある、と。捕らえられた者はお裁きを受けることも叶わず、恐ろしい目に遭わされる……そのように聞きました」

 「……家中かちゅうの皆さんが、そう言っているのですか」

 「あ、あの、本当のことかはわかりません。ただ、夜になると旦那様のお姿が見えないことがあって、そういう時はみな、その噂を思い出すのです……きっと夜の闇に紛れてそういうことをなさるのだ、と。なのに今日は、こんな明るい時に、まるで通りかかる奥様に見せつけられようとするかのように……」


 そういって侍女は数泊黙して、それから意を決したように目を上げた。


 「あの、わ、わたくしども、奥様をお案じ申し上げております。旦那様、あの方は、お、お身内までも、その、手に、おかけに……も、申し訳ございません。でも、もし、その、なにか助けが必要であれば、どうかわたくしどもに……」


 そういう侍女の手をとって、ニアナは頷き、微笑んでみせた。


 「ありがとうございます。大丈夫、公爵様のお噂は耳にしてますが、ぜんぶ本当のこととも思いません。ちゃんと向き合って、お話をします。そのためにわたしが呼ばれたのだと思います」


 侍女は眉を寄せながら、それでもこくりと頷いて、部屋を辞した。

 出る時に、しばらく後、日の沈む頃に食事と夜の支度のことで係がきます、と言い置いて行った。


 部屋に一人になり、ニアナはしばらく部屋の中央で立ちすくんだ。

 疲れているのだ。今日はいろいろなものを見すぎて、聞きすぎた。

 が、本当の仕事は、今夜いまからなのである。

 大きく息を吸い込んで、頭を振り、窓に近寄って開け放った。

 公爵領は小高い丘陵に立地しており、眺望が広い。すでに落ちかけた陽が広い庭園を照らしている。木立の向こうに公爵領の街並み、色とりどりの屋根が見えている。


 新しい家、新しい街。

 そして侍女にまで案じられるほどの苦難が想像される、結婚生活。

 不安も怯えも自覚している。が、それでもニアナは、ほんのわずかに新しい世界に対する期待と高揚を胸に抱いているのだ。

 花街で、娼館で生きる人々は、常に前向きで逞しかった。希望を見失わない。俯けばすぐに地獄が口を開いている世界で生きるための心映えは、ニアナのなかにも確かに息づいているのである。


 情景に心を洗濯されるような気持ちでぼうっとしていたが、ちょうど遠くの山陵に太陽が隠れたときに扉を叩く音があった。

 答えると、先ほどとは別の侍女が入ってきた。沐浴の準備があるという。

 案内されてゆくと、別棟に大きな浴室があり、大量の湯がたてられていた。三十人は同時に浸かれると思われるその湯量は、公爵家の財力を直截に示すものだった。

 流し、浸かり、ほっくりと身体の芯が暖まってから風呂番の女ふたりに肌を擦られた。いく種類もの香油を贅沢に使い、時間をかけ、丁寧に磨き立てられた。

 畑から抜いた野菜を調理前に磨いているのだなとニアナはぼうと考えた。

 

 拭うのも二人がかりだった。用意された上質な室内着に着替えると部屋に戻る。少し息をついて休んでいると、今度は髪に白いものが混じる年嵩の侍女が顔を見せた。侍女長だという。

 侍女長はニアナを長椅子に座らせ、近くに膝を置いて、正面からじっと視線を向けてきた。心の底を探ろうとするかのようなその目にニアナが気を呑まれていると、侍女長はふっと表情を緩め、穏やかな口調で話し出した。大事なことです、と前置きがあった。


 初夜の説明だった。

 段取りから、もろもろの技術的なところにまで解説は及んだ。

 ニアナは娼館暮らしであったから、そうした方向の話は聞き慣れてはいるのだが、改めて自分のこととして正面から語られると赤面を抑えることが難しかった。

 侍女長はそのなかで、もっとも重要であることがらに何度も触れ、強調した。


 花嫁は寝室において、夫より先に声をだしてはならない。

 夫が呼ぶまで、その顔を見てはならない。

 部屋に待つ夫を訪ね、扉を開けたなら、その場で礼をとって動いてはならない。顔を伏せ、声がかかるまで顔をあげてはならない。

 これはこの家の重要なしきたりです、旦那様は特に気難しいお方ですから、絶対に破らぬように、と、幾重にも念を押された。


 やがて侍女長は退がり、今度は夕食が運ばれてきた。ごく軽いもので、パンと果実、少量の肉料理が小さく盛り付けられた皿と、茶だけである。今夜の仕事において粗相がないように、との配慮に違いなかった。

 ただ、ニアナは昼をとっていなかったから空腹であり、その量には不満であった。翌日以降もこれであれば、自費でよいからなにか追加したいと、娼館に泊まりにきた客のような発想をしていた。


 食器が下げられると、再び侍女が二人ついた。洗面と歯磨きの後、衣装棚にあらかじめ用意されていた夜の装いに着替えさせられ、鏡台の前に据えられて髪と顔をつくられた。

 ニアナは娼館で女たちの化粧も担当していたが、自分に施すことはほとんどなかった。いま行われているのは夜の支度だから、ごく薄くあっさりしたものなのだが、侍女たちの技術が高いことは見て取れた。


 侍女が退がった後、ニアナは長椅子に所在なく腰掛け、いろいろ思いを巡らせていたが、昼間の疲れで瞼が下がってきた。

 再びの叩扉の音まで目は覚めなかった。慌てて窓の外を見る。月が中天に高い。時刻はすでに深夜だった。


 身支度を整えたニアナに、侍女はついてくるよう目で促した。大人しく従うほかない。ひとつ階を上がり、いくつかの角を曲がったところで侍女は立ち止まった。

 突き当たりのお部屋です、とだけ言い、侍女は頭を下げて立ち去った。あとは自分でなんとかせよ、という意味と思われた。


 ニアナは深く息を吸い、吐き出した。

 緋毛氈の床敷の向こうに見える重厚な扉。

 その扉の先には、どんな色を帯びていようと、ともかく彼女の新しい人生が待っているはずなのだった。

 


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