第5話 心音の意味


 「……あ」


 先導する侍女が右の窓の外に目をやり、小さく声をあげた。


 ニアナはいま、色味を落とした上品な赤毛氈が敷き詰められた廊下を、侍女に先導されながら歩いている。

 ローディルダム邸は三階建てになっており、その二階の奥の部屋がニアナのために準備されていると聞かされた。もとよりニアナはどんな部屋であろうが文句も支障もなく、むしろ自分のために部屋が用意された事実に小さく驚き、胸を撫で下ろしたところだった。


 声につられ、ニアナも右を見る。侍女と同じ姿勢で、同じ声を上げた。

 ローディルダム公ウィリオン、つい先ほど玄関広間で見たその顔を、再び見つけることとなったのだ。


 中庭。おそらく裏門に通じる、邸の最奥部と思われる空間に、倉庫だろうか、石積の小屋が見える。その奥は木立。この邸は森林に背後を接しているらしい。

 小屋の前に数人の衛士が並んでいる。みな、ローディルダム家の制服と思われる、肩と首に揃いの金色の刺繍を入れた黒の軍服を身につけている。

 その衛士たちの中心に、いま、ウィリオンが歩み入ろうとしていた。ニアナと玄関で出会ったのは、ここに移動する中途だったのだろう。衛士たちは緊張した面持ちを浮かべて背筋を伸ばし、一斉に踵を打ち付けた。


 その様子を見届けてから侍女は先を進んだが、ニアナがついてきていないことに気が付いて振り返った。新しい女主人は立ち止まって動こうとしない。開け放たれた窓の外に視線を奪われている。困惑したような表情を浮かべ、それでも侍女は無理に彼女を移動させようとはしなかった。


 と、衛士に引き立てられて倉庫の影から数人の男が現れた。全員が後ろ手に縄をかけられている。体裁こそ商売人風だが、いずれも素人ではない、とニアナは見て取った。どこが、ということもない。が、彼女にとっては日中の太陽を見るより明らかなことだった。匂い、纏う空気が違う。花街の夜に幾度も見た、最も危険で、絶対に関わりあってはならない種類の男たち。


 「……ちょ、ちょっと、旦那さん……勘弁してくだせえよ。俺ら、真っ当な商売、させてもらってるだけですぜ。いきなり踏み込んできて引っ立てられて、なんだってんですかい」


 なかでも年嵩の、大きな体格の男が声をあげ、媚びたような笑みを浮かべた。


 「なんの疑いか知りやせんが、俺たちぁ逃げも隠れもしませんぜ。裁判するならしてくだせえよ。証拠が出せるってんなら、俺たちだって大人しく従いまさぁ」


 へへ、と言い、左右の男と頷きあう。

 が、ウィリオンは言葉を返さない。

 銀の前髪の奥から凍てつくような視線を男たちに落としたまま、動かない。

 その圧力に耐えきれなくなったように、大男はげへっと再び笑った。


 「ね、今日は帰して下せえよ。また、裁判になったら顔、出しますから」

 「……裁判があると思うのか」


 低く抑えた、しかしよく通る冷たい声音はニアナのいる二階にもはっきりと届いた。ぞくり、と、声を向けられたわけでもない彼女すら背を氷でなぞられたように感じる声だった。

 大男は顔を引き攣らせながらも、へ、と首を傾げてみせた。


 「……いやいや、国のご大法、王命ですぜ。裁判をしなければ罪には問えないってね。俺たちぁ馬鹿だが、それくれえはわかる」

 「罪に問うつもりはない」


 ウィリオンは微動だにせず、抑揚のない声を送った。


 「潰すだけだ。貴様らが必要に応じてそうしてきたように」

 「な、なに言ってんですかい」

 「……連れていけ」


 短く言い置いて、ウィリオンは男たちに背を向け、歩き出した。衛士たちは彼らの腕を左右から捕らえ、引き立てようとした。が、男たちは身を捩り抵抗する。大男が叫ぶ。


 「なあ、旦那さんよお。そんなことしたら俺らの後ろが黙ってねえぞ。ええ、あんたがいくら公爵だっていってもなあ、敵にしちゃいけねえものもあるんだぜ。え、明日の朝日をよ、てめえの身内が拝めなくなってもいいのか、あ?」


 大男の口調が変わっていた。挑発するように目を見開き、口の端から泡を吹いて大声をあげている。

 衛士たちが大男を左右から押さえ込もうとする。

 が、その時。

 大男の、後ろに縛られていた手が外れた。自由になった指先に光るものが見える。袖口に刃物を仕込んでいたのだろう。縄を断った男は衛士たちを蹴り倒し、ウィリオンに向かって走った。

 

 「くたばりやがれっ!」


 大声で呼ばわり、ウィリオンの首筋に刃を突き出した。

 が、刹那のあとに地に倒れ伏していたのは、襲った方の大男だった。

 襲撃者の手の動きを確認することすらせずにわずかに身を躱したウィリオンは、踏み出した左足を軸にふっと身体を回転させ、大男の足を払った。転倒した大男をちらと一瞥し、広げられた相手の右腕、手首のあたりを、ウィリオンは躊躇わずに踏み抜いた。不快な音が響き、男の手首は折損した。


 「……言いたいことは、まだあるか」


 眉も動かさずに冷たく見下ろすウィリオンに、大男は涙を浮かべながらがくがくと首を振ってみせた。表情を変えないままで踵を返し、歩き出す。衛士たちが呪縛から解かれたように動き出し、男たちを引き立てていった。


 と、ウィリオンの脚が、止まる。

 数泊を置いて、ゆっくりと顔を左に振った。目を上げる。

 その視線は、邸の二階の窓、ニアナたちに向けられていた。

 

 ひ、と声を上げ、口に手を当ててへたり込む侍女。

 が、ニアナは視線を正面から受け止めた。先ほどは縛られた視線の重圧のなか、必死にもがいて、彼女はその夫となる男、冷血公爵の心を捉えようとした。そのひとの形を、なぞろうとした。

 ウィリオンは、しばらく彼女と目を合わせたのち、先ほどと同じようにふっと視線を外して歩き出す。

 ただ、ひとつ異なることがあった。

 ウィリオンは最後に、わずかに表情を動かしてみせたのである。

 それは微笑だったと、ニアナは信じた。


 しばらくの間ののち、しゃがみ込んだままの侍女に微かに震える手を差し伸べながら、ニアナは自分の胸が早鐘を打っていることに気がついた。

 とっ、とっ、と高鳴っている、心音。

 ようやく立ち上がった侍女に付いて歩きながら、ニアナはその意味をずっと考えているのである。


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