第1話 わたしの家


「あああもう、まとまんないったら!」


 鏡台の前で暴れた黒髪を絞りながら、ひとりの女が声をあげた。


「今日わたし早番なのに間に合わないよお」

「あんたが悪いんじゃん、昨日もお客とそのまんま寝ちゃったんでしょ。自業自得」


 隣で白粉を叩きながら別の女が応答した。

 黒髪の女は情けなさそうに眉尻を下げて振り返り、ひいいん、と泣き顔を作ってみせた。

 あはは、といくつかの笑い声。


 広い窓から春先ののどやかな陽光が差し込んでいる。

 長かった冬はようやく去って、この娼館、『銀の魔女亭』にも花の季節は訪れているのだ。

 さほど上等とはいえない調度品で占められたこの二階の支度部屋にも、慌ただしく夜の勤めの準備をする女たちの頬にも、金色を帯びた午後の光が柔らかく降っている。


 と、黒髪の女の後ろに誰かが立った。

 手櫛でさらさらと様子を見てから香油を手に取り、ブラシで馴染ませてゆく。流れるような手際だ。みるみるうちに乱れて散っていた女の髪が落ち着いてゆく。

 鏡の中で、女は背後の人影に手を合わせた。


「うう、ニアナちゃん、ありがとう」

「もう、このあいだ言ったじゃないですか。髪質が強いから、寝癖つきやすいんですよって。せっかく綺麗な髪なのに」

「だってさ、だってお客がさ、朝まで君と一緒に寝てたいってさ、腕枕してくれてさ」

「あ、それは嬉しいですね。ふふ、じゃあしょうがないか」


 苦笑しながら揉み込むニアナの手の中で、女の髪は艶としなやかさを充分に取り戻していく。

 と、支度部屋の向こうの隅あたりから声がかかる。

 

「あ、ねえニアナあ。今度はこっちお願いできない? ドレスの裾、ほつれちゃって」

「はあい。いま行きますから」


 振り返って、ニアナは笑顔で答えた。

 セレンの髪の仕上げをして、はい、できあがり、と肩を叩いてから走ってゆく。栗色の肩下までの髪がぽんぽんと揺れる。 


「ほんとあの子いてくれて、助かるよ」


 また別の女が、目元を作りながら誰に聞かせるでもなく呟く。

 答えるのはその隣の女。

   

「ね。よく気がつくし器用だし。だけど昼はあたしたちの支度の手伝いをして、夜は下の酒場でしょ。よく働くわ、ほんとに」

「けっこう度胸もあるしね。このあいだの迷惑客、外に放り出したの、見た?」

「あはは、見た見た。スカッとしたよ。もうニアナはこの店の看板娘だね」


 と、年嵩の女が柔らかく目を細めて、懐かしげに声を出した。


「母親によく似てきたよ。亡くなったのはあの子が七つの時だったから、もう十二年か。早いねえ」


 そうした声は、ニアナにも小さく聞こえている。

 聞こえて、笑顔で作業を続ける彼女の脳裏に懐かしい顔を描き出している。


 母は、よく笑う人だった。

 少なくとも幼いニアナの前では、いつも微笑みを湛えていた。

 旅の楽団で歌い手をしていた母がこの国にやってきて、貴族たちの邸で公演をしてまわり、ナビリア子爵家を訪問したのはニアナが生まれる二年と少し前だった。

 母の歌を気に入り、楽団をしばらくの間滞留させた子爵のもとに、母は残る決断をした。子爵は妻と離縁した直後だったという。大事にするからという言葉を信じて、母は子供の頃から家族とも思った楽団と別れた。

 しばらく後に懐妊し、女児を産んだ。ニアナだ。

 子爵もいっとき、喜んだ。が、すぐに飽きた。

 次々と女を呼び、都度、ニアナの母に世話をさせた。母がニアナに食事を与えている横で、子爵は女たちと酒を飲み、下品な話題で盛り上がり、寝室へ消えた。

 母が曇った表情を見せたときには、子爵は折檻をした。打ち据えて、扉の外に出した。しばらくすれば戻れるのだが、その日は違った。

 ある冬の夜、四歳になったニアナとともに追い出された母は、朝までその場で待った。懐にニアナを抱えて、薄い外衣を頭から被って、待った。が、朝になって現れた子爵は、なんだまだいたのか、と、汚れ物を見るような顔をして吐き捨て、扉を閉めた。泣き止まぬニアナを抱えた母は、あてどなく彷徨った末に場末に辿り着いた。

 深夜、花街の娼館の前で母は倒れていたという。横で泣いているニアナとともに、娼館の女たちは二人を招き入れた。暖炉の前に座らせ、粥を与え、事情は一切訊こうとしなかった。翌日も、その次も、女たちは母娘がそこにいるのが当然という態度を取り続けた。

 そのまま穏やかに時間が過ぎ、七歳の時に母が死んだ。はやり病だった。小さな葬式が出されたが、女たちは泣かなかった。代わりにニアナを抱きしめた。代わるがわるに、抱きしめた。

 そうして、いまのニアナがある。


「だから言ってんじゃん、それじゃ森に出る幽霊だって」

「ばかいってんじゃねえ、これが流行なんだよ、ほらこの目の下の白い縁取り」

「あははは、おばけえ」

「うっせえ」


 女たちの声が姦しく響く。

 化粧品の匂い、暮らしの匂い。

 早い春のおだやかな日差し。

 黄金の光に包まれて、ニアナは笑って俯き、胸に手を置いた。


 なにがあっても、護る。

 いのちに変えても恩返しをする。

 みんなに。

 大事な、わたしの家族たちに。


 娼館に訪れた季節の祝福を全身に浴びながら、ニアナは微笑んでいる。


 と、その時。

 建て付けの悪い扉が軋みながら開けられ、娼館の女主人おかみが顔を出した。


「ニアナ、いるかい」

「あ、はい」


 ニアナはいつものように元気よく答えて振り向いたが、女主人の表情に言葉を飲んだ。眉尻を下げ、口を曲げ、なにやら苦いものでも飲み込んでしまったかのような顔を作っている。


「あのな、下に、来てるんだよ」

「え、なにが……ですか」


 女主人は眉を顰め、見えない階下を指さしてみせた。

 

「子爵家の使い。ナビリア家のさ」

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2024年12月4日 07:00
2024年12月6日 07:00
2024年12月9日 07:00

冷血公爵の夜の顔〜娼館育ちの令嬢は薔薇の狼に溺愛される〜 壱単位 @ichitan

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