第2話 恩を返すとき


 「……え」


 ニアナは困惑したように微笑して小首を傾げている。聞いた言葉がすとんと胸に落ちていかないのだ。

 女たちもざわりと声にならない声を上げる。

 女主人おかみは腰に手を当て、ふんと鼻息を吐いてみせた。

 

「くそったれナビリア……あ、ごめんよ。あんたの実家さ。いきなり馬車で乗りつけてきたよ。どかどか踏み込んできてさ、ニアナ嬢はおられるか、って。なんだかいけすかない感じのおっさんだよ。どうする、いないって言って追い返してやろうか」


 皆の視線が女主人からニアナに移動する。

 ニアナはどんな表情を作って良いかわからずに、口を薄く開けたままわずかに俯き、女主人の腹のあたりに視線を彷徨わせている。


 ナビリア子爵家からの使いは、初めてではない。

 ニアナと母がこの娼館に暮らすようになってからしばらくして、二人を探しにやってきた。もっとも連れ帰るためではなく、生死の確認のためだった。子爵としては、自ら追い出したとはいえ、貴族の妻と娘が野辺で骸を晒しているという事態を避けたかったのだろう。使者は母娘が生きているのを確認し、安堵したようにわずかな金を置いて帰っていった。

 その後、使者は数ヶ月おきに小銭を持って娼館を訪れた。が、ちょうど母が亡くなる少し前にそれも途切れて、その後はずっと音信がなかったのである。


 それなのに、どうして、今ごろ……。

 ニアナの胸が早鐘を打っている。

 子爵家の記憶はほとんどない。子爵に直接に何かをされたわけでもない。

 が、自らの名の一部にもなっており、意識してそれを忘れるようにしているナビリアという音は、彼女の心の平衡を乱す充分な力を持っていた。


「……ニアナ」


 俯いてしまったニアナに女主人は指を伸ばした。背に沿わせ、優しく撫でる。


「無理することない。嫌なものは嫌でいいんだよ。よし、待ってな。あたしが一喝してきてやるから。任せとけ」

「あたしも行くよ。ねえ、みんなで追い返してやろうぜ」

「うん、行こう行こう。あんたはここで待ってな」


 女たちが立ち上がり、気勢を上げる。拳を振り上げる。

 と、ニアナは顔をあげた。

 穏やかに笑っている。


「ありがとう。大丈夫、わたし、会ってみます」

「……大丈夫かい」

「あはは、わたしけっこう、強いんですよ。なにか嫌なことされたら、こうです」


 そういって眉をきゅっと締めて、右の拳をぽんと突き出してみせた。


「……なんかあったら、すぐ呼びな」

「みんなあんたの味方だからね」

「うん。ありがとう」


 女たちに支度を続けるように促して、ニアナは女主人と階下に降りた。いちばん上等な応接室に通したらしい。女主人は扉を開けると、ニアナを目で呼んで入らせ、自分は退がった。

 ニアナは、失礼します、と小さく声を出して、できるだけ静かに扉を閉めた。


 長椅子で尊大に足を組んでいるのは、腹が突き出た小柄な男だった。盛んに貧乏ゆすりをしている。執事風のなりをしているがまったく身についていない。

 金回りの良くない貴族は最低限の使用人しか置かないものだが、おそらくナビリア子爵家においては、この男が執事役から汚れ仕事までこなしているのだろうと思われた。


「あなたがニアナ嬢かね」


 立とうともせずそう言葉を投げる男は、ニアナの頭の先から足首までに舐めるような視線を這わせてみせた。

 主筋の娘に対する態度ではないが、子爵の意を汲んだものだろう。あるいは、この男の生来の下品さがそうさせているのかもしれない。


「はい、ニアナ……ナビリア、です」

「わたしは子爵家に仕えて五年なのでね、あなたの顔を知らない。失礼だが、本物であるという証は」

「……ありません」


 ふん、と鼻を鳴らして、それでも男は頷いた。

 ニアナに席を勧めようともせず、さらに尊大に胸を反らせてみせる。


「まあ、いい。あまり似てはいないが、子爵様の面影が窺えないこともない。早速だが、手短に用件を伝える」

「はい」

「縁談だ。あなたを嫁に貰い受けたいという話が子爵家に来ている」


 飲んだ息を吐く方法を思い出せずに、ニアナはしばらく硬直した。


「……え」

「喜びたまえ。光栄な話だ。子爵様はお断りになることもできたのに、家を出てこんな暮らしをしているあなたをナビリア家の一人として送り出すとおっしゃってくださっているんだ。感謝することだ」



 ◇◇◇



「冗談じゃないよ!」


 興奮した女の一人が卓を手のひらでばんと叩き、あいたたたと顔をしかめた。

 使者が退出し、ニアナは控室に戻って女たちに顛末を報告しているのだ。

 が、説明の途中ですでに部屋の空気が沸点に達してしまった。

 隣の女が捲し立てる。

 

「断っちまいなよそんなもの! 何年も放っておいてさ、いきなり現れて、嫁に行け、ってさ。ニアナはあんたらの持ち物じゃないんだよ、って」

「あああ、やっぱりケツ蹴り出して追い返してやればよかった」

「今から追いかけていって連れ戻して、一晩中苛めてやろうか、そいつ」

「ニアナに売られた喧嘩はあたしたちの喧嘩だよ」


 女たちが好き勝手にわめき散らすのを、ニアナは苦笑しながらまあまあと宥めている。


「もう、使いの人に怒っても仕方ないじゃないですか」

「だってさあ」

「だけど、よくわかんないんだけど」


 別の女が口を挟む。


「なんで今さら、縁談なんて持ってくるんだい? 今まで放っておいたのに」

「そんなもん金に決まってるじゃないか。きっとお相手はそれなりに金持ちなんだろ。花嫁に渡す支度金をちょろまかそうって腹だよ、きっと」


 その推測はたぶん当たってる、と、ニアナは考えている。

 使者はそうと明言しなかったが、子爵様へのご恩を返すときだぞ、というようなことを言い置いて帰っていった。おそらく、父、子爵は相変わらず金に困っているのだろう。支度金を中抜きするのか、あるいは借金を棒引きしてもらうか。いずれにしても、金銭的な利点があるからこそ、ニアナに話を持ってきたのだろう。

 なぜならば、相手は……。


「それで、お相手って、誰なのさ。金持ちなのかい」


 ぐいとニアナに迫るような女に、少し身を引きながら、彼女は頷いた。


「……うん。それが……ね」

「うんうん」

「……ウィリオン・ローディルダム様、だって」


 沸騰していた部屋の空気が瞬時に冷えた。全員が刹那、押し黙った。

 が、再び沸騰するまでにそう長い時間はかからない。


「ローディルダム、って……公爵様じゃない!」

「え、ちょっと、うっそ、あの有名な、冷血公爵……?」

「先代の公爵様と実の兄を手にかけて、今の地位を手に入れた、って噂の?」

「絶対に誰にも心を開かないで、口もきかないで、夜な夜な外を彷徨き歩いては街の人を拐ってるとかって聞くよ……?」


 すう、と、全員が息を合わせた。


「断っちまいなよそんな縁談!」

「公爵様だからって、支度金を積むって言われたってさ、命あっての物だねだよ!」

「あんたみたいな子、いいようにされて最後は喰われちまうよ、ばりばりって!」

「ちょ、ちょっと、そんな……公爵様を、ケダモノみたいに……」

「ケダモノ以下だよそんな男!」


 困り果てて笑うしかなくなっているニアナに、年嵩の女がすうと歩み寄った。


「……ねえ、ニアナ。あんたの家はここだ。あんたのことはあたしたちが守る。望まないことをする必要はないんだよ」

「……うん」


 唇をきゅっと噛み、下を向く。

 目元がじんわりと熱くなる。

 

 恩を返すときだ、と、あの使者は言った。

 その言葉はニアナを打った。心が、揺れた。

 その通りだ、と思った。


 父にではない。

 彼女の命を繋いでくれた、ほんとうの家族に。


 鼻を啜り上げ、上を向く。

 もう大きな笑顔になっている。


「……さあ、ほら、皆さん! 夜のお仕事の準備、遅れちゃいますよ! ほらほら!」

「なんだよお、みんなあんたのこと、心配してさあ」

「ひとりで抱え込もうとしてるんでしょ、もう。頼ってよねえ」

「まあみんな、結婚してないからねえ、頼りねえわな、あはは」


 女たちは文句を言い、あるいは軽口を叩きながら、それでも自分の持ち場に戻っていった。賑やかに支度を再開する。

 その背にニアナは、寂しげな微笑を向けていた。


 

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