第六章

第34話

 「さっ、入って入って」

 チャイムを押すと、光沢が輝くワインレッドのバスローブを身に纏ったキラが姿を現した。六本木にあるセキュリティ万全のタワーマンション、その最上階のワンフロアが丸ごとキラの家だ。芸能人ドリームにも程がある。

 キラは上機嫌に私を抱きしめた後、手を引いて中に引き入れた。

 「他人を家に招くなんて初めて。ミカゲが来てくれて嬉しいな」

 「そ、そう? 私なんかで良かったのか、むぐ」

 続く言葉は、キラの綺麗な人差し指によって唇に押しとどめられた。

 「自分を卑下しない。ワタシは恩を忘れないタイプ。ワタシをここまでの女にしてくれたミカゲへの、ね」

 なぜ私はキラの家に呼ばれたんだろう。祝勝会のつもりなのだろうか。

 キラのソロデビューシングルは大反響だった。表題曲はビルボードホット100で一位を記録、オリコンチャートも勿論一位、ユーチューブやティックトックでも千万回単位の再生回数を記録した。

 作詞作曲を手掛けたのは私だが、名前を出すことはしなかった。そんなこと名誉でもなんでもなかった。私はキラの影になったのだから。

 「うわぁ、高そうな家……」

 やけに長い廊下の先には、プールほど広いリビングに出た。家具照明や調度品の一つ一つの材質がいかにも高級です! と主張していた。私は四千円くらいのスカートにスウェット、一万円くらいのダウンという庶民の服を着ているから、なんだかひどく場違いな気がした。

 「自由に座って。何か飲む? ビール、ウィスキー、ワイン……そうだ、シャンパンを開けようか」

 「いや未成年なんだけど私……」

 「お互いに黙っていれば大丈夫」

 「ええ……」

 ダメな大人が本当にシャンパンを持ってくる。慣れた手つきでボトルを開け、二つのグラスに注いでいく。

 「綺麗……」

 輝きと透明さが同居したしゅわしゅわの液体を見つめた。私が週刊誌に売るとか考えないんだろうか。しないって見透かされているんだろうな。

 「これ、美味しいの?」

 「さぁ? 高いから買っただけ。ワタシもよく分からない」

 「成金すぎない……?」

 「お金は天下の証だよ、ミカゲ」

 グラスを手に持ったキラは「来て」と手招きをした。私はシャンパンが零れないように気を付けながらキラに付いていった。

 「見て、この景色」

 キラは窓の傍まで近寄った。外には美しい東京の夜景が広がっていた。

 ビルの明かりは停止していて暖かい色。

 車の明かりは尾を引いていて冷たい色。

 色が交じり合って、真っ黒の中で光り輝いていた。これも残業の光なんだよな、と思うと美しさが半減された。美しいかどうかは、私がどこを見て何を感じたかだ。

 ふと下を見ると、あまりに高くて足が竦んだ。キラが私の

腰に手を回して支えてくれた。

 「どう思う?」

 「どうって……高いなぁって。まさかこれが天下なんて言わないよね?」

 キラは「アハハ」と無邪気に笑った。細められた目から覗く真っ黒の瞳に夜景の光が映り込んで、まるで星座のようだった。

 「それはあり得ない。ただ、ここに住めてワタシは毎日いい気分。こうやって街を見下ろしていると、ちっぽけだって思えるから」

 「ちっぽけ?」

 「外からじゃ煌びやかに見える芸能界も、こんなちっぽけな東京の、ほんの一部分でしかない。早くこんな小さな世界から飛び出して、もっと広い世界へ、天下を獲ってやる……そうやって、夢と覚悟を忘れさせてくれない景色」

 ぐっ、と腰を引き寄せてきた。お前はワタシのものだぞ、とでも言っているようだ。私は抵抗するつもりなどなかった。キラの胸の辺りに頭を預けた。

 「ワタシとミカゲで成し遂げるんだよ。分かっている?」

 「分かってる。私はキラのものだから」

 キラは「うん」と嬉しそうに頷いた。アイドル『真帆路キラ』ではないキラは少し幼くて、可愛いな、と思った。

 「今日は素敵な日だ。夜空は晴れ渡り、ワタシはさらに天下へ近づき、ミカゲは傍にいる。明日はもっといい日になる。根拠は無い。でも、そう確信している。ミカゲもそう思ってくれる?」

 「うん」

 乾杯、とグラスを合わせた。小気味いい音が鳴って、私はグラスに口を付けた。未成年飲酒の犯罪者だ。くくっ、と喉が熱くなった。

 「あっ、美味しいかも」

 「ね! やっぱり値段が物を言う」

 キラはくすくす笑った。また手を引かれ、ふかふかのソファに座らされた。

 「もう少しでご飯がデリバリーされるから、それまでゆっくりしよう。テレビ見る?」

 「ゆっくりって、なかなか落ち着けないよ。こんなお屋敷みたいな部屋……うん?」

 私は壁に掛けられていたあるものに視線が吸い寄せられた。大切そうに、大きな額縁に飾ってあるものだ。

 着物のような民族衣装……? で、上半身は着物に似ている。下半身はドレスのようになっていて、鮮やかな青色の生地の上に宝石のように輝くレースが被せられ、全体にあしらわれた金色の刺繍が美しい。

 「あれ、すごい綺麗。なに?」

 「オンマのチマチョゴリ」

 「な、なに?」

 何かの暗号? キラはおかしそうに笑った。

 「ワタシのママのドレス。形見を故郷から持ってきた」

 「か、形見? 故郷?」

 「ワタシ、出身が韓国なの。日本に来たのは最近」

 「ええっ!?」

 びっくりしてシャンパンを零しそうになった。そんなの聞いたことがない。どこにも公表していないはずだ。でも、たしかに日本語が少し不自然なのはそういうわけか。

 「ハーフなんだよ。韓国人のオンマと、日本人のあの男。そこにワタシが生まれた」

 「そうなんだ……」

 「미카게는 금방 표정을 짓는다. 귀엽다」

 「な、なんて? ミカゲ、ぬん? だけ聞き取れた」

 「ふふ。ナイショ」

 キラはシャンパンを飲み干し、すぐさま二杯目を注いだ。

 「本名はシン・キラっていうの。日本でアイドルを始めるまで故郷にいたからコリアンが母国語だよ。イングリッシュも話せるの。トリリンガル。今すぐ海外に行ってもやっていけるんだ」

 心なしか自慢げに言うキラは、やはりいつもより幼い。お酒が回ってテンションが上がっているのだろうか。私は素直に感嘆していた。

 「マジ? すご……真帆路キラは芸名?」

 「うん。ワタシが韓国人だって知られてしまうと面倒だから。ワタシ、隠し子です」

 キラは私の肩に頭を置いて、しなだれかかってきた。バスローブからおっぱいが見えそうになったから、私は慌てて目を逸らした。

 「知ってる人は知ってるんだよ。ワタシが脅したから」

 「脅した……?」

 「あの男の醜聞を知られたくなかったら、ワタシをアイドルにしろって。今の総合プロデューサーに」

 おそらくサクマという男だろう。『先生』の後を継いで今の九段フォーセブンを仕切っている人物だ。その醜聞が、キラの持つコネの正体……。

 「オンマは売れないアイドルだった。向こうはアイドル戦国時代。表舞台に上がれば栄光が待っている。しかし、その逆は地獄。デビューに失敗したオンマはなんとかして売れようと思って……たまたまワタシの故郷に遠征していた、あの男に近づいた」

 キラはぐびぐび音を立ててシャンパンを飲み下す。ペースがやけに早い。彼女の頬が色っぽく赤くなり始めている。

 「愚かだ。オンマは恋に落ちてしまった。三十も年上のおじさんに。手を出すあの男もあり得ないけど……それでも、なんということを」

 くはは、と押し殺すような笑い声を上げた。心が笑っていないのは明らかだった。私は何を言えばいいのか分からなかった。

 「ワタシを表に出さない条件でオンマはワタシを産んでくれた。あの男から莫大なお金も貰っていたみたい。でもオンマとワタシはずっと韓国に閉じ込められていた。父親が誰なのか、それを知ったのは、あの男が死んだ時……」

 キラは涙を流した。シャンパンを飲み干して、口と目を一

緒にバスローブで拭いた。

 「ワタシたちを捨てたあの男の死に、オンマは悲しんで後を追うように死んだ。信じられない。どこを愛してたんだろう。ワタシは父親を愛せない。愛したいのに。ワタシのたった一人の父親なのに……」

 ぐす、と鼻を啜り、キラは私を抱きしめた。

 「ごめん。つまらない話を聞かせてしまって。実はお酒に弱いの。ワタシ普段はこうじゃない……もっと強くて、美しい女なの……」

 「分かってるよ。それに、つまらなくなんてない。キラはいつだって強くて美しいよ」

 私はキラを慰めるように抱きしめ返すと、彼女はふへ、と少女のように目を細めた。

 「ミカゲ、全然のんでない」

 キラは私のグラスに目を向ける。シャンパンがまだ半分以上残っている。

 「いや、だってめっちゃキツいんだよ、これ」

 「うるさいっ。ミカゲはワタシのものでしょ。ワタシが飲めって言ったら飲むの。所有物の自覚が足りない」

 おしおきしてやる、とキラは私の分を口に含み、そのままキスしてきた。

 「んむっ!? むむー!」

 「くひ、あけへ」

 舌で口をこじ開けられ、中にシャンパンを流し込まれた。無理矢理飲まされたから変なところに入って、派手に咽てしまった。

 「げほっ、ごほっ! 何すんの!」

 「ミカゲは初めて?」

 「はぁっ?」

 「初めてだったら嬉しい。ワタシはそういうの、すごく興奮するタイプ」

 舌なめずりをしたキラは私を押し倒して問いかけた。私は顔が引き攣ったのを感じた。

 「怖いの?」

 「こ……怖いよ」

 吐き出されたのはどうしようもない本心だった。おべっかを使うべきだったか、と後悔した。けれど、キラはむしろ目を輝かせながら先を促した。

 「どうして? 初めてだから?」

 「……違うよ。キラは……私には無い強さがあるから。真正面から見られると……自分がちっぽけだって思っちゃう、から……」

 誰しもが潔白でいたがるものだと思う。みんな自分は善い人間だと思いたい。悪いことなんてしていないと自分を正当化していたい。私はヒカリのために悪いことをしている。でもヒカリのためだから善いことなんだ、と正当化している。

 キラはそうではない。常に善悪の境界線の上に立ち、その両方へ足を突っ込んでいる。善も悪も全てを呑み込んで、そんな二元論なんか及ばないような高みへ登ろうとしている。

 きっとその高みこそがキラの言う、天下なんだ。私の気持ちを正直に伝えると、キラは満足そうに頷いた。

 「ワタシの目的は復讐。ワタシを見捨てたこの世界への復讐。ワタシは生まれてきていいんだと、捨てられたのは間違いだったと世界に言わせてやる」

 ありがとう、とキラは愛おしそうに私の頬を撫でた。

 「ワタシのことを怖いと言ってくれて。ワタシには決意が残っているということなんだね。ワタシはまだ進むことができるんだ」

 私は素直に、かっこいいな、と思った。自分の道を正しいと信じて突き進むことは単にナルシストだとか自己中心的だとか、そんなスケールには収まらない狂気が必要だ。

 私を見つめる真っ黒な瞳の奥に────燃え盛る狂奔の炎が宿っていた。

 「欲しいの?」

 「え?」

 ギラギラと輝くキラの瞳に見惚れていると、またキスをされる。角度を変えて、何度も何度も。口内に入った舌が私の舌を絡めとって中で暴れまわる。私は息が出来なくなる。

 「んー! んー!」

 離してください、と言う代わりに背中を叩いた。やっと離れてくれた時には、お互いの舌を涎が繋げていて、うわっ、と思うと同時に、ちょっとエロいな、と思った。

 「な、なんで」

 「んー? 可愛い。ミカゲ」

 キラがタイツ越しに私の太ももを撫でてくる。ひぅっ、と変な声が出てしまう。

 「ちょっ、ちょっと! え、まさかそういうこと!?」

 私がぐいぐい身体を押しのけると、キラはあからさまに不満そうな顔をした。

 「……ここまで来て今さら拒否? 冷めるんだけど」

 「いやいや、私そういう意味で来たわけじゃないし! 今さらも何もないし! キラってば酔ってるだろ!」

 「ミカゲ可愛いし、気分いいし、いいかなって」

 「いいかな、くらいでしねーよ普通! もっと自分を大切にしろぉ! 私はする!」

 「ミカゲは嫌?」

 「嫌っていうか、そもそも女同士だろ!」

 「だから? ワタシはどっちもいけるタイプ。どっちかというと可愛い子を抱く方が気分いいかな」

 「知るかぁ! ちょっ、やだやだっ! 今日、下着ちゃんとしたヤツじゃないから────」

 逃げ出そうとすると、後ろから抱きしめられた。

 「お口がまた悪くなったな。おしおき」

 「は?」

 シャンパンのボトルを引っ掴んだキラは私にラッパ飲みさせてくる。逃げ場が無くて、ごくん、ごくん、ごくん、と三つの大きな塊を飲み下す。ぶはっ、と吐き出して、座り込んで咳き込んでしまう。

 「ぇほっ、がはっ、ぉほっ、おえっ! さ、さいでいっ。へんたいっ、はんざいしゃ……」

 「ミカゲ」

 キラが耳元で囁いてきた。心臓が縮こまった。

 「ミカゲは誰のもの?」

 それを聞かれてしまうと、もう、こう答えるしかなかった。身体がぶるぶる震えて、なんだか調教されてしまっているみたいだ。

 あたまがまわらない。

 「キラの、ものです……」

 「だよね?」

 耳にキスされた。口づけされたところから身体が解れていくようだ。

 「ワタシはミカゲの全部を肯定してあげられる。分かるよ。ミカゲは苦しんでいる」

 背後から包み込まれるように抱きしめられた。首に回ったキラの腕に、私は思わず、自分の手を添えてしまった。キラは甘い言葉を毒のように耳へ流し込んできた。

 「ピーちゃんに仕事をあげたくて頑張って、今度はピーちゃんから仕事を奪うために頑張ってる。今は誰のために頑張ってるの? って、辛いよね。全部自分のせいなのに」

 気付いたら涙が流れていたことに気づく。そうだ、私は苦しんでいる。何が正解か分からなくて、自分のしていることが正しいかも分からなくて、暗闇の中で藻掻いている。

 「うん……くるしい……」

 「大丈夫」

 キラに全身を包まれた。彼女の放つ強く昏い光に私の絶望の闇が掻き消えた。

 「ミカゲは大丈夫だよ。ミカゲは頑張っている。ミカゲは偉いよ」

 「わたし……がんばってる……?」

 そんなこと初めて言われたから胸と頭がぽわぽわと温かくなった。キラは私の頬を愛おしそうに撫でた。

 「大丈夫。ワタシがミカゲの醜いところを全部引き受けてあげる」

 私は全身の力が抜けて、キラにしなだれかかった。

 「ミカゲはワタシの傍にいて、ワタシに尽くしていればいいんだよ。それが正しいことなんだから」

 ベッドに行こうか、と私は無抵抗のままお姫様抱っこをされて、ベッドに連れ込まれ、組み敷かれた。

 ピーンポーン……。遠くでチャイムの音がする。

 「ね、ねぇ……ごはんきたよ……?」

 クリスマスプレゼントを解く子供みたいな顔をしたキラが私を見つめた。プレゼントは私だ。据え膳だ。中身が露わになってしまった。

 「この世界には今、ミカゲとワタシしかいないよ」

 深いキスをされた。

 きもちいい。

 酸欠で死にそうだ。溺れてしまいそうだ。

 死ぬギリギリはきもちいいんだと、知ってしまった。

 「そうだね……」

 私はキラに全てを委ねて曝け出した。私の悪い所を、全部、全部、キラが引き受けてくれそうだから、私は夜の街灯に群がる虫になった。

 その日から、私はキラと同棲するようになった。

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