第32話
「家まで送るよ。タクシーを呼んでいるから」
「……明日も仕事があるってどういうこと? ヒカリは倒れたばっかりなんだよ」
キラは何も返さない。エントランスの自動扉を抜けて、病院前に停車したタクシーを指で示す。
「乗って」
命令口調だ。私は返答を得るために従った。タクシーが発進すると、キラは足を組んで窓の縁に頬杖を突いた。
「ちゃんと事務所が休ませるから大丈夫だよ。最低限の体調管理も仕事のうちだから」
「身体と心は違うだろ! いくら体力が回復したって、精神が追いつかなきゃ意味がないでしょうが!」
「ワタシに言われても。それはピーちゃん次第でしょう? 今はそういう時期で、みんなが通る道」
「だからぁ! それはヒカリを酷使していい理由になってないって言ってんだよ!」
キラは魂が凍るくらい冷たい視線を送ってきた。
「そんなことを言うくらいなら、あの子にきっかけを与えなければよかったのに」
途端に呼吸ができなくなった。
────お前は何がしたいんだ。
ヒカリと関わって以降、いなくなっていたはずの背後霊が再び耳元で囁いた。首筋に手を這わせていた。
気付いた。私はこいつから目を逸らしていただけで、こいつはずっと傍に居続けていたんだ。
「そ、れは……まさか、こんなことになるなんて思わなかったから……」
「ピーちゃんの背中を押したのはミカゲちゃんだよ。その事実は消えない」
私は視線を彷徨わせる。車窓から景色が流れていく。私を置いて、人が、車が、建物が、どんどん流れていく。私の想像を超えてスピードを上げていく。
ヒカリは私なんかが何かしなくても、きっとアイドルとして売れていたと思う。いや、そう信じたかっただけだ。才能がある人間なんてごまんといる。その中でも生き残っているのは、ほんの一握りだ。
全ては持って生まれた才能と、努力と────タイミングで決まる。
ヒカリが売れているのは私が背中を押したから? 私がヒカリを追い詰めている? ぜんぶ私のせい?
「ピーちゃんは良い子。すごく良い子。色々なことをスポンジのように吸収している。アナタと違って、何も諦めていない。ピーちゃんはアナタとは違う。違うんだよ。それをまず理解しなければいけない」
キラの気の遠くなるくらい整った顔が至近距離にまで迫っていた。
まるで、獲物を前に舌なめずりをする蛇のようだった。
「だからね。今、この世界で、ピーちゃんの躍進を求めていないのはアナタだけだよ、ミカゲちゃん」
「う、売れることだけが、全部じゃない……」
「それは売れた人にしか分からない。途中で逃げたミカゲちゃんには分からない」
ワタシはね、とキラが私の顎を撫でる。
「売れて、とっても幸せ」
耳元で囁く。耳がキラの毒に犯される。
「ピーちゃんはどっちかな?」
「────やめてっ!」
渾身の力で突き飛ばした。タクシーが揺れた。運転手が心配そうな顔でバックミラー越しにこちらを見てきた。「大丈夫」とキラは微笑で返した。
「人の幸せが何かなんて、誰かに決められることじゃない。決めるのは全て自分なんだよ」
「だから、何が言いたいんだよ……」
「中途半端な覚悟で他人に介入するな」
厳しい言葉だけれど正しいと思った。他人の人生を狂わせるには、それ相応の覚悟と何かを捨て去る決意が必要なんだ。
キラにはある。私にはまだ足りなかった。しかし、裏を返せば────
ヒカリは私を許してくれるだろうか。私はヒカリが、本当に幸いになるならどんなことでもする。けれど、一体どんなことが、ヒカリの一番の幸いなんだろう。
いつしか私の取るべき道は────一つしか残っていなかったのかもしれない。
「……私はただ、ヒカリに笑顔でいてほしいだけなんだよ」
私はスカートの裾を握った。えづきそうなくらい歯を食いしばっていた。
「あんな頑張ってる良い子が報われないなんておかしいって、そんな世界は間違ってるって、でも」
歯を食いしばった。吐き気が込み上げてきた。
「ただの、エゴだった……っ!」
「そう。だから?」
まるで仕組まれているようだ。私は確実に仕留められようとしていた。
キラがとぐろを巻いてこちらを見ていた。
私は自ら、牙の前に身体を曝け出した。
「……キラぁ」
「なに?」
「ヒカリをこれ以上、追い詰めたくないんだよ……」
キラが口端を釣り上げたのが見えた。
「ヒカリはきっと、もう限界だ。分かるんだよ、私がそうだったから。それでもまだ頑張ろうとしてる。文句も言わず、みんなに求められてるから……」
「そうだね」
私はキラへ縋りついた。
「ヒカリを止めてよ! ねぇ! キラならできるんでしょ!? コネ使って、ヒカリを────あぇう!?」
そう言いかけた突然、キラの手が私の口に突っ込まれた。舌を指で掴まれて、歯を指でなぞられる。
「お口が悪いね」
「ぇ、れぇ、あ、が」
「それが人にモノを頼む態度なのかな」
そう言って私を見下ろすキラの瞳はとても冷たくて、同時にとても熱くて、星は色が冷えれば冷えるほど高温であることを思い出した。
私は口に突っ込まれたキラの手を引っこ抜いて、両手で握って、胸に抱いた。
「お願いします。なんでもしますから……」
「…………」
「ヒカリを使うなとも言いません。あともうちょっと、少しだけでも、仕事を減らしてあげてほしいんです。休みをあげてほしいんです。もう一度倒れる前に。頭がおかしくなる前に……」
「ふぅん? ピーちゃんはそれを望まないかもしれない。それでも良いのかな?」
「私が嫌なの。もう、エゴでもなんでもいい。あんなヒカリをもう二度と見たくないんです。もし……もっと酷いことが起きた時、何かできることがあったのにって、後悔なんてしたくないんです。だから、お願いします」
キラはまるで舌なめずりしているような笑みを浮かべた。それだけで、自分の選択は正しかったんだ、と心から安心した。
抱き寄せられたから、私は彼女に身を委ねた。小さい私は背が高い彼女にすっぽりと収まった。
気が狂うほど良い匂いがした。
「じゃあ、ワタシのものになるんだね? ミカゲ」
「……うん」
私は頑張って、媚びるような声を出して、キラの背中に手を回した。
「キラのものになります。だからヒカリを、お願いします」
私は分からない。けれども、誰だって、本当に良いことをしたら、一番幸いなんだ。
だから、ヒカリは、私を許してくれると思う。
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