第31話

 十二月に入って、ヒカリが怪我を負った。

 歌番組の収録中にステージから落ちて頭を打ったらしい。私がそれを聞いたのは、ヒカリが病院に運ばれた翌日のことだった。キラから連絡が来て、私はすぐに駆けつけた。

 しかし中には入れてもらえなかった。

 「わ、私はヒカリのゆうじ……関係者です!」

 「すみません。面会は全てお断りしていますので」

 ヒカリのマネージャーを務める男性が深々と頭を下げた。

 『大人』は必要とあらば子供にさえ頭を下げることを厭わない。新たなスター候補となったヒカリは、既に私の手の届く存在ではないことを痛感した。

 「通して」

 私の背後から声がかかった。キラだ。マネージャーの男性は目を見開いた。

 「真帆路さん!? いやしかし事務所からの指示で……」

 「聞こえなかった? ワタシが今から面会するからこの子も連れていく、だから通してと言ったの。頭が固いな。そんな体たらくで売れっ子のマネージャーが務まるのかな」

 時代を掌握しているスターの言葉は重かったようで、彼はあっけなく道を開けた。

 「き、キラ」

 「あら、やっと名前を呼んでくれたね。こんなタイミングだなんて皮肉だ」

 キラは嬉しそうにほほ笑んで私の手を引いた。静かな病院の廊下を進んでヒカリの病室に入った。そこは呼吸することも躊躇われるほどの更なる静寂に包まれていた。

 「……ヒカリ、っ」

 叫び出しそうになって、すんでのところで踏み止まった。

 ヒカリがベッドの上で健やかに眠っていた。静謐な空間に息をするのも憚られた。窓から陽光が差し込んでスポットライトのように彼女を照らしていた。舞う埃がキラキラして神聖さを醸し出していた。

 それらの清らかさを────頭に痛々しく巻かれた包帯が全て帳消しにしていた。

 「ここ一週間くらい様子がおかしいとは思っていた」

 キラは私の肩に手を置いた。

 「何回も打ち合わせしたことやダンスの振り付けを全く覚えられなくなっていたし、テレビの収録前に意識を失いかけたこともある」

 「な、なにそれ。滅茶苦茶ヤバイじゃん」

 「急な環境の変化に身体がついていかなかったんだろうね。注意力が無くなって不幸な事故が重なった。でも医者からの診断は、ただの過労と睡眠不足」

 はぁ? と私はキラを睨む。

 「ステージから落ちて頭を打ったんだよ? そんな単純な話なワケない」

 「ワタシに言われても困る。少なくとも身体に重大な異常は起きなかった」

 それはよかった。けれど何をどう言えばいいのか分からず、ただただ苛立った私は髪をもみくちゃにした。

 「過労って……どんだけ働かせてたんだよ……」

 「睡眠時間は三時間だって。起きてる間はずっと動いているから休む暇が無いみたい」

 「なんだよそれ……未成年は夜中まで働かせちゃダメだったはずじゃ……」

 「仕事場に居てはいけないだけで、次の日の台本を読んだり、フリを入れたり、打ち合わせをしたり色々あるよ。人気者になるには誰もが通る道」

 淡々と告げられる言葉に、私は居ても立っても居られなくなった。八つ当たりみたいにキラの肩を叩いて叫んだ。

 「誰もが通る道だからこんな風になるまで放置したって!? ヒカリは『大人』が稼ぐための道具じゃない!」

 「求められているから応えただけ。ピーちゃんは精いっぱい頑張っている。ミカゲちゃんはピーちゃんの努力を否定するの?」

 キラの言葉で、マグマのように噴火した怒りが一瞬で冷え固まっていった。そうだ、ヒカリは頑張っているんだ。求められたことに応えようとしているだけなんだ。

 「ミカゲちゃんは自分の中の理想のピーちゃんを現実のピーちゃんに押し付けているだけ」

 「……分かってんだよ、そんなこと……」

 私はベッドの傍で跪き、シーツから出ているヒカリの手を握りしめた。

 「痩せたな……」

 何が「わたしがいなくても、ちゃんと生きてくださいね」だ。ちゃんと食べられていないのはヒカリの方じゃないか。

 「よ、だか、さん?」

 ぼんやりとした声が聞こえる。ヒカリは両目を開けて、私を見つめている。

 「ヒカリ!」

 「ふわぁ、あ。いっぱいねたぁ。ここ、どこですか?」

 ヒカリは起き上がって伸びをした。目を擦りながら病室を見渡した。「あれ、キラちゃん。なんでここにいるの?」と瞼をパチパチさせた。

 「ピーちゃん。転んで倒れたことは覚えている? 原因は過労だって」

 「転んで、ん? え、うそ。全然覚えてない。あれ、収録は? どうなったの?」

 「無事終わったよ。代役を立てて」

 「だ、誰?」

 「ワタシ」

 代役がキラと知ったヒカリは大きく息を吐いた。

 「────そっか。ありがとね。キラちゃん」

 その言葉が安堵か落胆か、ヒカリの込めた意図は分からなかった。私はなんとか話に割り込んだ。

 「ヒカリ。身体は大丈夫? いや、大丈夫なわけないか。入院してんだった。私バカだな。えっと、その……」

 「ヨダカさん」

 ヒカリは、ぼうっと私を見つめた。何を考えているんだ、と見つめ返していると、急に私を引き寄せ、強く抱きしめてきた。「うぇ」とあまり可愛くない声が出てしまった。

 「会いたかった。二週間も会ってなかったから、ホントに寂しかったです」

 実際は三週間近くだ。私はヒカリの患者服を、気づかれないように握りしめた。唇を噛み締めた。

 「心配かけちゃいましたよね。ごめんなさい。わたしが

もっとしっかりしなきゃいけないのに」

 首元にかかる息が不安定に揺れていて、ヒカリの取り繕ったものが剥がれかけていることが分かった。私は彼女を抱きしめ返した。

 「そうだよ。心配かけないで。もっと自分を大切にするんだよ。来る仕事を全部なんてやってられないんだから」

 私がそう言うと、ヒカリは困ったように笑った。

 「やりたくてやってるんですけどね。みんな喜んでくれるから、アイドル続けてきてよかったって思えるんです」

 「ひ、ヒカリは存在するだけで尊いよ……」

 「それは違いますよ」

 ヒカリは緩く首を横に振った。私の言葉を彼女が否定されるのは初めてだったから、心臓が重く鳴り響いた。

 「今までちっぽけな売れないアイドルだったわたしが、今や引っ張りだこの、めちゃすごアイドルなんですよ。そんなの嬉しいじゃないですか。だから頑張る時期なんです」

 笑った顔にえくぼができていた。元々あったものではなくて、頬がこけて無理矢理できているものだ。三日月型になった目の下に濃いクマが刻まれていた。ロクに寝られていないからだ。私の胸は張り裂けそうだった。

 それは、頭がおかしくなりかけた時の私と同じだった。

 違う、違うよ。そんな高尚な理由なんてないんだよ。誰もヒカリがいる意味なんて考えてないんだよ。使えそうな駒があるから使ってるだけで、そんなの誰だっていいんだよ。

 そんな想いとは裏腹に、ヒカリは私を満足そうに見つめてくる。

 「でも、ヨダカさんがそう言ってくれるだけで嬉しいです。やっぱりヨダカさんの言葉は不思議だなぁ。誰のどんな言葉より元気が出ます」

 「……だって、本心だから……」

 泣きそうだった。しかし決してそれを悟らせまいと、私はヒカリを胸に仕舞い込んだ。私が泣いてどうなるというんだ。

 「そういうところが好きなんですよ、わたしは」

 ねぇ、こっち来て。ヒカリは囁くように言った。言われた通りにすると、頬にキスされた。私は弾かれたようにヒカリから身体を離した。

 「なっ、なにすんの!?」

 ヒカリは恥ずかしそうに瞳を潤ませた。

 「ヨダカさん、なんだか苦しそうだったから。ちゅーしたら喜んでくれるかなって。どうでしたか? 売れっ子アイドルのちゅー」

 「や、やめなよ。誰かに見られたら────」

 パシャッ。フラッシュが焚かれる音がして振り返ると、キラが彫刻のような微笑を浮かべて私たちを見つめていた。私とヒカリは抱き合いながら固まった。

 「初めてだよ。誰からも注目されないなんて。まだワタシに新しい経験をさせてくれるんだね。ミカゲちゃんとピーちゃんは本当にありがたいな」

 「えっとぉ……」

 「き、キラちゃん! このことは内緒にしてね! え、炎上しちゃうかなぁ!?」

 「ふふ、どうしようかな。流出させればライバルが一人消えることだし……」

 キラは愉快そうにスマホを指でとんとん叩いてる。

 「アハハ、そんな野暮なことはしないよ。女同士なら何も言われないから。せいぜい仲が良いな、と思われるだけ」

 「そ、そうだよね! 女の子同士だったら、ちゅーくらい普通にするもんね!」

 ヒカリが私の手に抱き着いて主張した。そうなんだ、知ら

なかった。

 「もう行こう、ミカゲちゃん。ピーちゃんにはしっかり休

んでもらわないと」

 「えー? もうちょっといてよぉ。寂しいじゃん」

 「寝たら時間は過ぎるよ」

 キラはヒカリに向き直った。

 「また明日もスケジュールが埋まっているんだから。今日くらいしか休めないよ」

 「あ、明日も!?」

 私は驚いて素っ頓狂な声を上げた。「そうだね」とヒカリは擦り切れたみたいな笑顔を浮かべた。人と喋っているから元気なフリをしているだけだ、とすぐに分かった。

 そんな顔、見たこと無い。ヒカリはもう限界だ。そう確信した。もし、もし次、取返しがつかなかったら────

 「キラちゃんの言う通りにする」

 「うん。じゃあ、また明日」

 「また明日。ヨダカさんも、また会えるよね?」

 私は何と答えていいか分からなかった。ヒカリがいなくなってしまうかもしれない。それが眼前に突きつけられて、私は心の底から震え上がった。

 「うん……きっと」

 だから曖昧に頷くしかなかった。私は後ろ髪を引かれながら、病室を後にした。

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