第25話

 「十年前の地震の時、わたしは小学校にいて、お父さんとお母さんは職場にいたので、すぐ避難できて無事だったんですけど」

 地震やそれに伴い起こった火災や人身事故で多くの犠牲者が出たが、それ以上に問題になったのは、地震によって地下の汚染物質が地上に漏れ出したことだ。

 「私のお父さんは消防士として救助活動にあたってたんです。その最中、事故で亡くなりました。でも三十人の命を救ったんですよ! わたしのお父さんは偉大なんです」

 ヒカリは晴れ晴れとした表情で言った。

 「お母さんは看護師さんでした。働いてた病院に汚染物質が入り込んで、疲れもあったのか身体を壊しちゃって。でも人数が不足してたので働き続けてました」

 「そんな……」

 「お母さんは仕事を誇りに思ってたから。わたしも、そんなお母さん素敵だなって思ってます」

 でもわたしは、とヒカリは目を伏せてお茶を啜った。

 「お父さんがいなくなって、お母さんも傍にいなくて、ちょっと寂しかったです」

 冗談めかして笑うけれど、その寂しさは想像に難くなかった。私は寒気がした。

 「お母さんと一緒に過ごせるようになったのは少し落ち着いてからでした。初めは仮設住宅に住んで、ちょっと体調が酷くなってからは病院で」

 まるで大切な宝物を慎重に取り出すような口調だった。

 「わたしのお母さんはいっつも元気で、お茶目で、可愛くて、綺麗な人でした。寡黙なお父さんを『ユーモアで脳を、料理で胃袋を掴んだのよ』って。そんなお母さんを元気付けてたのがアイドルだったんです。しょっちゅう私とアイドルの出てるテレビを見てて。頑張る姿を見て頑張れるんだって言ってたんです。だからわたし、アイドルになりたいって思ったんですよ」

 ヒカリは懐かしそうに言った。そこに悲しみの色はまったく無かった。

 「お母さんが亡くなったのは、わたしが十二歳の時です。お母さんは最後まで素敵な人でした」

 ぽろり、とヒカリの瞳から涙が零れ落ちた。そんなことを思い出させてごめん、と謝りたくなった。しかしそれは相応しくない。私が求めたこととは言え、ヒカリが望んで行動していることだから。彼女の意思を尊重するべきだ。

 「お母さんは『私の仕事や患者さんを恨まないでね。恨むなら私を恨みなさい』って。おかしいですよね。恨めるわけがないもん。お母さんとの思い出は全部、宝物だから」

 私は「うん」と無難な相槌を打った。

 「『ピーちゃんの成長を見れないのが残念だなぁ。ごめんね』って。わたしは『謝らないで』って言いました。そしたら、なんて言ったと思います?」

 「ううん、なんだろ……分かんないなぁ。なんて?」

 「『ピーちゃん。私をお母さんにしてくれて、ありがとう』だって。そんなの泣きません? いきなりですよ? 死んじゃう直前にありがとう、なんて。ホント素敵な人だって思います。子バカですかね」

 「素敵なお母さんだ」

 ヨダカさん優しい、とヒカリはくすくす笑った。

 「お母さん、笑ってたんです。『すごいことだよね。あんな子供だった私が、お母さんなんてね。ピーちゃんにはまだ分からないかもしれないけど、これってすごいことなんだよ』って。そこで、お母さんホントに死んじゃうんだって、なんとなく分かってきました」

 「……うん」

 「わたしは『すごいこと?』って聞きました。ただ会話を続けたかっただけなんです。ここで黙ったら後悔するって。そしたら『ただのちっちゃい女の子だった私が、お父さんと出会って、結婚して、ピーちゃんみたいな素敵な女の子を産めて、お母さんになれた。こんなに大きくなるまで、育てられたんだよ』って、『未来はとても面白いね』って」

 ヒカリは微笑んだ。胸に手を当てて、それをぎゅっと握っていた。

 「『忘れないで、ピーちゃん。未来はとても面白いんだよ』『お父さんとお母さんはピーちゃんの傍にいられないけど、ずっと見てるからね』『ピーちゃんが幸せになってる未来で待ってるからね』。言い終わった途端に目を閉じて、そのままでした」

 沈黙が訪れた。私は何と言えばいいのか分からなかった。言葉を探して口を開けて閉じる動作を繰り返した。

 「ヨダカさん。蝶っているじゃないですか」

 「へっ」

 急に話を変えられ、私は面食らった。

 「……ちょう?」

 「蝶。ちょうちょです」

 いきなり何の話だ? 意味が分からず、私は曖昧に頷く。

 「蝶って最初イモムシじゃないですか。ちょっとぶよぶよしてキモくないですか?」

 「ま、まぁ……」

 「でも、そんなイモムシが蛹になって、あんな綺麗な蝶になるんです。めっちゃ素敵だと思いませんか?」

 「え? そ、そうなのかな」

 虫に対してそんな感想を抱いたことが無い。

 「わたしだって、お母さんのお腹の中にいて、最初は目に見えないくらいの卵で、だんだん大きくなって、産んでもらえて、今こうしてアイドルをやって、みんなに笑顔を届けてる。これもめっちゃ素敵なことだと思うんです」

 そこまで言って、ヒカリは「笑顔届けてる、なんて自分で言っちゃった」と照れた。そして、咳払いをした。

 「だから、きっと未来で何かが変わると思うんです。変わったのが何かは分からないけど、きっと。面白い素敵なものになるんです。イモムシが蝶に変わるみたいに。わたしがアイドルになったみたいに」

 「ヒカリ……」

 「だから、未来はいつも面白いんです」

 それがヒカリの根幹か。だから諦めないのか。だから夢を持つのか。面白い未来に手を伸ばすために。

 すー……はー……。ヒカリは震えた息で深く呼吸した。

 「お母さんの遺骨は、ただのモノでした。調べたんです。リン酸カルシウムとタンパク質があるだけ。ただのモノなんです。それになんだか、安心しちゃったんですよ」

 「どうして?」

 「ちゃんと心を持ってってくれたんだなって。お母さんは約束通り、わたしが幸せになってる未来で待ってくれてるんだって確信できたから」

 「……そっか」

 何をどう言えばいいか分からなかった。簡単に口を挟めるような話ではないから、私は言葉と言葉の間を彷徨った。

 「わたし、思うんです。リン酸カルシウムもタンパク質も、それだけがあったって生物じゃない。生物と非生物を分ける境界線は『未来』だって」

 なんかエセ哲学みたいな話ですけど、とヒカリは笑い交じりに言う。

 「『未来』が無い非生物は朽ちて自然に還ってしまう。でも、わたしたち生物だけが『未来』があるから、こうして続いていく。生きて、続いていく」

 ヒカリは確信を湛えた瞳を輝かせる。

 「未来はいつも面白いんです。絶望しちゃうようなことがあっても、辛くても、苦しくても、未来はいつも面白いから、続いていくんじゃないかって。ちゃんとした根拠があるわけじゃないんですけど、そう信じてるんです」

 その返答に耐えうる私の語彙力が無い。すごく良い話だと思った。感動できる、とかそんなチャチな話ではない。ヒカリの十七年分の人生が籠った言葉だから、鉛のように重くて、鋼のような硬さがあった。

 ヒカリは気付いているのだろうか。母親の言葉は「未来は『とても』面白い」だったことに。ヒカリは「未来は『いつも』面白い」と言っていることに。

 きっと分かっている。けれど、あえてヒカリは『いつも』を使っている。彼女の中で生きているうちに変化があったのかもしれない。未来を示す言葉の中で、『とても』が現在軸を表す『いつも』へ変化した。いつかの未来ではなく、今ここにある未来へ。

 イモムシが蛹を経て蝶になるように。子供が大人になって新たな子を産むように。

 ヒカリがアイドルになったように。

 「ヒカリも素敵だよ」

 私はどちらかというと、『いつも』の方が良いと思った。

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