第24話
「──ん。──カさん」
「…………」
「ヨダカさん!」
「うわっ」
私は驚いてひっくり返り、抱えていたギターが床に転がった。至近距離に大声で呼ばれたから耳がキンキンした。「もう!」とエプロン姿のヒカリが両の腰に手を当てていた。
「お掃除してもいいですかって五回くらい聞きましたよ? なんで無視するんですか」
「え? えーっと……ヒカリ、なんでいんだっけ?」
「お仕事が早く終わったので遊びに行ってもいいですか? ってライン送ったけど無視されたので合鍵で入りました。何回も無視するなんて、ひっどい人ですねっ」
あまりにも私の家に入り浸るから合鍵を渡したことを思い出した。ヒカリは部屋を見渡し、心底呆れた顔をした。
「ここ何日か連絡が取れないから心配で来てみれば。なんなんですか、この汚さは」
曲を作ると決めてから数日が経ち、私は人間を辞めていた。最後にお風呂に入った日は思い出せない。碌に食べ物も摂っていないほど、ずっとギターとパソコンに向かい合っていた。当然のことながら掃除もしていない。部屋は埃と生存のために飲んでいた水ペットボトルのゴミだらけだ。
「とにかく! お掃除するので、その間ヨダカさんはお風呂に入ってください! ぶっちゃけ臭いです!」
「えー、今ちょっと忙しいっていうか……」
「何か言いましたか?」
「いいえ、何も!」
私は迅速に立ち上がり、服を脱いでとっととシャワーに入った。美人が怒ると怖いなんて都市伝説かと思っていたけれど、あれは本当だった。
身体中を丁寧に隅々まで洗って、ちゃんと湯舟に肩まで浸かって百まで数えた。お風呂から上がると、部屋が信じられないほどピカピカになっていた。さらに美味しそうな匂いまでしてきた。
「おかえりなさい。ご飯できてますよ。どうせ変なのしか食べてないだろうなって思ってたら、まさか何も食べてないなんて思いませんでした」
ヒカリが手料理を手際よくちゃぶ台の上に並べていく。いただきますをして二人で食卓を囲んだ。数日ぶりのまともな食事はとても美味しかった。
正座をしたヒカリは眉を顰めながら私へ顔を寄せてくる。
「なんで連絡くれなかったんですか。ホントに心配したんですよ?」
「いやぁ、ちょっとね、いろいろあって……」
「何してたんですか? 作曲? 今までもやってたのに、どうしてそんな急に根を詰めるんですか」
「いやぁ、ちょっとね、いろいろあって……」
私は言葉を濁す。アイドルとしてもっと頑張る、と言っているヒカリのやる気を削がせたくないし、そもそもコンペで私の曲が選ばれるかも分からない。
「最近ヒカリが頑張ってるからさ、私も触発されたというか……もっと頑張らなくちゃって思っただけだよ」
ウソは言っていない。全てを言っていないだけだ。ヒカリは寂しそうな顔をして、肩をきゅっと狭めた。
「じゃあ、まだ忙しそうですか?」
「そう……なるかも」
「レッスンはしばらくお休みになりますか?」
「ごめんね。後で自主練用のメニューを考えておくから。でもヒカリもアイドルで忙しいでしょ。だからちょうどいいじゃん」
私がそう言うと、ヒカリは唇を尖らせる。
「わたしのことはいいですけど、ヨダカさんが無理しないか心配です。すぐ熱中して他が見えなくなるんだから。だいたい、いつも言ってますよね? ちゃんと寝てほしいって。なのにヨダカさんはいっつもいっつも────」
「わ、わー! 食べよっか! ね! せっかくのヒカリの手料理が冷めちゃう!」
私が箸を取ると、「はぁい」とヒカリもご飯を食べ進めた。
「んーっ、美味しい! わたしって天才かも!」
満足そうなヒカリの所作を私はじっと観察した。
綺麗な箸の使い方だなぁ、と思った。思い返してみれば、日常の些細なことでヒカリは育ちの良さがにじみ出ている気がする。
私はこの曲をヒカリのためのものにしたいと思っている
けれど、結局行き詰っている。その理由が今分かった。私はヒカリのことを、まだ何も知らないのだ。
綺麗な箸の使い方一つ取っても、私はその理由を知らない。
「ヒカリってさぁ、お嬢さまかなんか?」
「えっ? いや別に、普通の家庭でしたよ。お父さんは消防士で、お母さんは看護師さんでした」
なるほど、と思うと同時に、違和感を抱いた。
……『でした』? なんで過去形なんだ?
もしかしたら、突っ込んではいけない所に来てしまったのかもしれない。
「なんでそう思うんですか?」
「へ? い、いや。箸の使い方とかめっちゃ綺麗だし、手料理も美味しいし。どっかいいとこのお嬢さんで花嫁修業とかしてたのかなって」
「ヨダカさん、思考がちょっと古いですよ。今さら花嫁修業なんて。あはは」
笑われてしまった。そんなにおかしいことを言っているのだろうか。もしかしたら、私の故郷が回覧板をまだ使っているようなクソ田舎だったから思考が古臭くなったのかもしれない。ちょっと嫌な気持ちになった。
「料理とかはお母さんに教えてもらっていたので。手伝うと褒めてくれたんです。でも上手くなったのは東京の寮で暮らし始めてからですかねぇ。どうしてもお母さんの味が忘れられなくて。再現しちゃいました」
ヒカリは照れくさそうに髪を指に巻き付けている。
「ホームシック? 休みとかで実家に帰らなかったんだ? そういえば今年も帰ってなかったな」
そういえば、いくらアイドル業があるとはいえ夏休みに実家へ帰省しないのは不思議だった。運営に言えば一週間くらい休みが貰えそうなのに。
「はい。もう、お家が無いので」
私は思わず箸を落とした。箸がテーブルに当たった音が遠かった。
「十年くらい前に関東で地震があったでしょ? それでおうちが壊れちゃったので」
まずい。間違いなく地雷だ。私は一気に体温が冷えてきたのを感じた。
十年前の地震は幼かった私でも記憶にあるほどの大ニュースになったから、そこで起きた凄惨さは知っていた。
「え……っと」
「あっ、ごめんなさい! 急にそんな話されても困りますよね! 気にしないでください! ご飯、食べましょ?」
ヒカリも焦ったような顔をして、視線を落とす。
「いや、ヒカリが謝ることじゃない。私も急に変なこと聞いちゃったし……」
「えっと、あの。ヨダカさん」
真剣な表情でヒカリは私を見つめる。
「そうやって気まずそうにされた方がしんどいです。気にしないでくださいって言ったら気にしないでください」
「そっか……そうだよね。分かった」
無遠慮に踏み込んだ挙句、まるで自分も被害者かのような顔をされたら不快だろう。中途半端な他人からの同情は時に罵倒より頭にくる。
「……私がね、ヒカリにそれを聞いたのは、ヒカリに曲を作る約束をしたのに、肝心のヒカリのこと、私は何も知らないなって思ったからなんだよ」
「知らないなんて、そんな────」
私は首を横に振った。
「だって、私が作るのはヒカリに捧げる曲だから」
「わたしに、捧げる曲?」
「うん。だからヒカリのことをもっと知りたいんだ。嫌だったらいいから。無理はしないで」
ヒカリは緩く首を横に振る。
「そんな寂しいこと言わないでください。わたし、嬉しいです。ヨダカさんがそう思ってくれて」
長くなりそうなので、まずはご飯を片付けちゃいましょうか、とヒカリに提案される。全部食べ終わって、ヒカリはお茶を淹れてくれた。ヒカリの祖母が送ってくれた地元の名産品のようだ。温かくて、少し渋みがあって、ずっと飽きないくらい美味しい味だった。
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