第12話

 「めっちゃ自信ありますよ? ヨダカさんにつきっきりで教えてもらったし、解釈も固まりました」

 「うん」

 「よっしゃできた! これならオーディションで自信もって歌える! って本気で思ってます。でもさぁ、ヨダカさん。わたし、重大なことを忘れてたんですよ」

 「なにを?」

 「テストですよ! テスト!」

 うわあああ、とヒカリは頭を抱えて蹲った。

 「すっかり忘れてたぁ! ダメだ、単位ゼッタイ落としちゃう! うわあああ!」

 「テストなんて授業範囲がそのまま出るんじゃないの? 赤点とかそうそう取らないって。大丈夫だよ」

 キッ! とヒカリが私を睨んだ。

 「アイドルだから学校休まなきゃいけない時もあるんですぅ! でも留年したら、アイドルだからねぇ、仕方ないよねぇ、って言われますよね! そういうの嫌なんです!」

 「こないだは、学生メンバーのために配慮されたスケジュールになんですよー、とかなんとか言ってたくせに」

 「もー! ヨダカさん分かってない! ヒカリならやれるよ、大丈夫だよ、勉強に付き合ってあげようか、って言ってくださいよ! こういう時は!」

 「はいはい。これから大切なオーディションなんだから。喉を大事にしなさい」

 もー! もー! と牛になっているヒカリを宥めつつ、私は眼前に聳えるビルを見据えた。熱を帯びた真っ白な輝きで目が眩んだ。背後で車が通り過ぎた。夏の熱気を帯びた空気が押し出され髪を乱した。

 あと十数分でヒカリのオーディションが始まる。これまでの彼女の努力が報われるかどうか、たった三十分で決まってしまう。

 残酷だな、と思った。私たちはいつも『大人』に試される側だ。何百人、何千人の候補生の中から選ばれたヒカリですら、今は芽が出ず燻ぶっている。

 スタートラインにも立てなかった人はいったい何を想うのだろうか。

 夢なんて見なければ辛くないのだろうか。

 願わなければ傷つかない。望まなければ失望もしない。

 私はそう言い訳して逃げてしまった。


 「ピーちゃん?」


 私たちの前に一人の女性が通りがかった。私は思わず息を飲んだ。

一度見たら二度と目を離せないような、彼女を前にした向かい風が道を譲ってしまうような、そんな美しい人だった。

 周りの色を吸い込むほど濃く、サラサラの黒髪をボブカットにしている。細い顎と長い首が大人っぽい。特徴的なパーツはキリッ、と上がったツリ目だ。高級な猫のような上品さと気高さが感じられる。どこかで見覚えがあった。サブリミ

ナル効果みたいに、日常的に顔を見ているはずだ。

 「き、キラちゃん。おはようございます」

 ヒカリが緊張したように言葉を区切りながら頭を下げる。

 「おはよう。アハハ。かしこまらないで、同期じゃない」

 「でも、年上だし」

 「気にしないで。ところでアナタは?」

 私に視線が向けられた。気後れしてしまうくらい強い眼力だった。目を逸らしたら殺されそうだ。咄嗟に言葉が出てこなかった。

 「わ、わたしの、先生? わたしの推し? えっと」

 黒髪の美女────キラはきょとん、と首を傾げた。

 「先生? 推し? ふぅん」

 『注文の多い料理店』を思い出した。まるで品定めされているような視線だ。夏に入ったはずなのに鳥肌が立った。

 太陽が雲に入って陰った。薄暗くなったはずなのに、キラの瞳はさらに妖しく輝き始めた。私の喉がひゅっ、と鳴って、なぜか呼吸がしづらくなった。

 「こ、こんにちは。ヒカリの、えっと、関係者です」

 「アナタをどこかで見たことがある。どこでだろう」

 私はぎくりとした。ちょこちょこ音楽番組に出ていたから、見覚えがある人もいるかもしれない。

 「き、気のせいですよ。気のせい」

 「……歌が上手そうな顔をしているね」

 「そ、そんな人ごまんといるんじゃないかなぁ?」

 そう言って笑顔を浮かべようとした。まったく上手くいかなかった。「まぁね」とキラは髪を払った。そして一歩進んで、ヒカリに向かって手を差し出した。

 「ピーちゃん、今日はお互い頑張ろう。最高のパフォーマンスをぶつけ合おう。ピーちゃんが相手なんて緊張してしまうな」

 「は、はい。よろしくお願いします」

 「敬語、まだ入っているよ。アハハ。じゃあね」

 キラは優雅にビルの中へ入っていった。モデル歩きが身体に染み付いているようだ。ジーパンに包まれている、きゅっ、と上がった柔らかそうなお尻が魅力的だった。

 「……はぁっ」

 一気に息が漏れ出た。重力から解放されたような心地すらあった。キラがいたあの瞬間は間違いなく空間が支配されていた。無音で静かで息苦しかった。

 太陽が再び顔を出す。汗が出る。しかし汗が冷えてむしろ寒い。道路を車が通っていく。振動がアスファルトを伝う。傍のガードレールに掴まって、胸に手を当て息を吐く。

 「今の子」

 ヒカリが重々しく口を開いた。

 「私の同期の中で唯一の選抜入りメンバーなんです。めちゃくちゃ人気で、まさにスターって感じの子で」

 「……ああ、なるほど」

 そういえば街の広告やテレビCMでよく見かける顔だ。六期生で唯一の大スターで脂が乗りに乗っているアイドル、というわけか。

 「顔が良くて、スタイルが良くて、肌が綺麗で、声が良くて、歌が上手くて、性格もバラエティ向きで、面白いことも的確なコメントも言える、すごい子なんです」

 ヒカリは表情を曇らせ俯いた。そんな顔、初めて見た。

 「ヨダカ、さん」

 声が震えていた。ヒカリは縋るように私の手を握ってきた。もうすっかり夏なのに、なんて冷たいんだろう。不健康な手汗がじんわりと私の手まで移ってきた。

 私は不思議と安心した。この子もただの人間なんだ。不安なものはちゃんと不安で、怖いものはちゃんと怖いんだ。普通の女の子なんだ。

 「あのキラって子が最有力候補ってわけか。大変だぁ」

 彼女の手をそっと握り返して、私はおどけながら言う。

 「き、急に現実に引き戻さないでくださいよぉ。わたしこれでも、めっちゃ緊張してるんですよ?」

 「そうだな。顔は引き攣ってるし、青白くなってるし、いつもより全っ然可愛くないよ」

 「な、なんでそんなこと言うのぉ! もー! 嫌いになっちゃいますからね!」

 ヒカリは青ざめながら捲し立ててきた。私はヒカリの頭を撫でた。すると一転して彼女は固まった。

 「えっ、な、なんですか急に」

 「いいじゃん、別に。受からなくたって」

 え? とヒカリは私を見つめる。

 「ここで合格しなくても死ぬわけじゃないし」

 「それは、き、極論ですよ」

 「そうかも。でも私はヒカリの頑張ってる姿をずっと見てきたから。結果だけを求めて苦しんでほしくない」

 ヒカリの後頭部を手のひらで支えて、ぐっと顔と顔の距離を詰めた。

 「あんなに頑張ったんだから、とか、これくらい頑張れば、とか無いって。結果は不意にやってくる。だから全力を出して後は天命を待つだけ。そんなに緊張することないよ」

 私は少し背伸びして、ヒカリの背中────心臓の辺りをぽんぽん叩く。

 「一生懸命やってきな。大丈夫。ヒカリならやれる。頑張って偉い。挑戦して偉いよ」

 「よ、ヨダカ、さん」

 「私は分かってるから。だってヒカリは私の推しだもん」

 身体を離して、もう一発、今度は強く、背中を叩く。

 「痛ったぁ!?」

 ヒカリは叫んで仰け反った。

 「はい胸張って! せっかく乳デカいんだから見せびらせ! 終わったら美味しいご飯でも食べに行こ!」

 いたた……と背中を摩っているヒカリは、やがて大声を上げ笑い出した。

 「めっちゃクサいこと言うじゃん! 名言すぎ!」

 それは自分でも自覚していたから恥ずかしくなった。

 「なっ、励ましたのに! 素直に受け取れよ!」

 「かっこよかったですよ?」

 「うるさいうるさい! さっさと行って玉砕してこい、このやろっ!」

 しっ、しっ、と熱くなった顔を隠しながら手のひらを振った。「はぁい」と間延びした返事の後、ヒカリは軽い足取りでビルの中へ入っていった。

 「……ヒカリ……」

 私はガードレールに腰を預けて、ヒカリの後を追うように、ビルを少しずつ見上げていく。そして両手を組んで祈る。あんなことを言っておいて私が一番緊張している。

 オーディションが終わるまで、私は一歩も動くつもりは無かった。戦いを終えたヒカリへ一番最初に「お疲れさま」と言ってあげたかった。

 さっきヒカリに投げかけたのは、かつて私が言われたかった言葉だ。あの時は誰も言ってくれなかったから、今度は代わりに私が言ってあげた。

 私はヒカリに、あの頃の私を重ね合わせていた。無意識だった。今、それを自覚した。

 「未練……たらたらじゃん、だせぇな……」

 私はアスファルトに座り込んで、俯いた。太陽光をいっぱいに浴びた真っ黒な地面は、火傷してしまうくらい熱かった。

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