第二章

第10話

 「ヨダカさぁん! まだですかー?」

 早朝、木漏れ日の間をヒカリの声が通っていった。ザリッ、ザリッ、と私の靴がアスファルトで擦れ、鳥の声と一緒になって、まるで不協和音のようだった。

 「ちょっ、待って……現役アイドルに、ぃ、体力で勝てるわけないでしょうが……」

 「体力つけろって言ったの、ヨダカさんですよねー!」

 ひーひー言いながら私はやっとゴール────中央広場の時計塔へとたどり着く。その瞬間、足がガクガク震え、芝生に倒れ込んでしまう。

 「大丈夫ですか? 距離を増やすの早かったんじゃ」

 「手伝うって言ったの私、だし、ひぃ、ふぅ。大丈夫……」

 あうー、と情けない声を出しながら私は仰向けになった。夏が近づいてきても早朝は気温が上がり切らないから涼しい。ここは緑が豊かで空気が美味しい。風が汗でベタついた私の身体を撫でる冷たさも心地いい。

 「はい、ヨダカさん。お水」

 私より先に周回を終えたヒカリが水を買ってくれた。おでこに冷たいペットボトルが当てられて、無意識に笑みを浮かべてしまった。

 「あんがと……なんか、CM出れそうだな。水の」

 「ホントですか!? やったぁ!」

 嬉しそうにぴょんぴょん跳ねているヒカリはまだまだ元気そうだ。CM用の決め顔と決めポーズを取って、やけに上機嫌だ。

 ヒカリの特訓が始まってから、あっという間に三か月が過ぎた。曲を書いては納得いかず、を繰り返してずるずると時が経ってしまった。

 私たちは毎朝、住吉にある大きい公園で早朝ジョギングと筋トレをして、ヒカリのレッスンが無い日にはスタジオに入って練習する、という日々を過ごしていた。運動場所がここである理由は、お互いの家や寮から近いのと緑が多くて涼しいからだ。

 土日を問わず毎日のように会っているから、傍から見れば私とヒカリは親友のように見えていたとしても不思議ではない。

 友達以前に、私はただのファンでしかないのだけれど。

 「ほらほら見てください! わたし、ちょっと腹筋ついてきたんですよ!」

 ヒカリがジャージをまくり上げ、堂々と引き締まったお腹を見せてきた。薄い皮の上に汗が浮き出ていて、私は慌てて目を逸らした。

 「ばっ、ばか! 女の子が外で肌を晒さないの!」

 「えー? 人に見せれる身体が出来てきたんだからいいじゃないですかぁ。将来グラビアとかやるかもだし」

 「やりたいんだ、あんなの……色々キモいよ」

 私はうげぇ、と舌を出した。「そういえばヨダカさんも、ちょっと露出度高かった時期ありましたもんね」とヒカリは頷いた。流石私のファン、ちゃんと覚えているようだ。

 私の人気が落ちてきた頃、タンクトップと短パンにポロリ防止のニップレスだけ付けて歌っていた時期があった。あれは本当にまさしく黒歴史だ。

 「えっちで良かったんだけどなぁ。わたし、あの頃も好きですよ?」

 「おっさんくさぁ……やめてマジで。あんな邪道な売り方、認めたくない」

 未だにあの時のことを思い出すと背筋にゾゾゾッ、と悪寒が走る。結局人気は回復しなかったから本当に肌を晒した甲斐が無かった。私は嫌な思い出を一緒くたにしてため息を吐いて立ち上がった。

 「よし、休憩終わり。そろそろ学校に行かないと遅刻しちゃうよ」

 「はぁい。じゃあ、また放課後ですね」

 一旦、別れて帰路に着く。

 電車を降りて地上へ出ると、錦糸町駅のJRの方にたくさんのサラリーマンが集っていた。みんな険しそうな顔をしていて、大変だなぁ、と思った。気温がここだけ異様に暑かった。

 駅前の大通りを歩いていく。ファストフードとコンサートホールを通り過ぎて、フリーマーケットやイベントでよく使われる大きな公園に差し掛かる。子供連れが散歩していたり、老人夫婦が日向ぼっこをしていたり、国際紛争だの政治屋の汚職だの関係ない平和な世界が広がっている。

 そこから小道に入る。錦糸町界隈は駅周辺が盛り上がっていて、そこから離れると長閑になる。個人的には東京の中でも時間がゆったりと流れている感覚があって、駅の周りにスーパーやコンビニ等なんでもあるし、そこそこ住みやすい土地だと思う。

 そうして最寄り駅から徒歩二十分ほどで着くアパートの一室が私の住む部屋だ。三か月前、ヒカリを手伝うと決めたその日に私はネカフェ難民を辞めた。一年ぶりに帰る我が家には埃一つない状態になっていて、アスカさんが掃除してくれたんだと察した。私は痛む心を見ないフリをした。

 部屋に入るとすぐに服を脱ぎ捨ててシャワーに入る。てきとーに頭と身体を全部洗えるソープで全身を泡だらけにする。頭からシャワーをかぶってお風呂は終わりだ。

 ふと、鏡に映った自分の身体を見た。

 色気も何も無い痩せっぽちな身体だ。痩せているというか、太れなくなった。飛ぶ前の半年ほどは食べては吐く生活をしていたら、身体が食事を受け付けなくなってしまった。

 血色は悪いし、胸は小さいし、肋骨は醜く浮き出ている。病人か幽霊に見間違えられそうだな、と自嘲した。目の下にあるクマはすっかり刻み込まれてしまっていて、もう取れることは無いだろう。

 まるで私が背後霊みたいだ。

 少し伸びてウルフっぽくなった髪が青いのは、ずっと染めていたせいで色が取れなくなってしまったから。絡まった茨のツルとよく分からないラテン語のタトゥーがデコルテにあるのは、そういう売り方をしていた時に入れたものだから。

 サブカルとエロとゴシック、『ヨダカ』の残骸が未だに私の身体に刻まれている。過去はまだ私を離してくれない。あるいは、そのままでいたいのだろうか。

 「……やっぱり黒歴史だな」

 私はそんな雑念を吹き飛ばすように、鏡にシャワーの水を浴びせかけた。

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