第9話

 「えへへ、またこの公園ですね」

 「もう、けほっ、二度と、はぁ、走りたくない……」

 先日の逃走ルートで、再びあの小さな公園に逃げ込むことになった。またもやヒカリに追い抜かされて、逆に引っ張られる形になった。そしてまたもや私はベンチに座り込んでぜーはー息を荒げていた。

 「はい、お水どうぞ。今度はお金、返さなくていいですからね?」

 「そ、そんな。申し訳ない」

 「多分わたしの方が稼いでるので!」

 「たしかに……そうかも……」

 自分で言ってて悲しくなった。落ちぶれたものだ。毎日路上とライブハウスでギターを弾いて、ネカフェやカプセルホテルで寝泊まりをして……。

 私は辛い生活を送っている。望んだわけではない。こんなはずじゃなかったのに。

 「ヒカリちゃん、すごかったな」

 「へ?」

 隣で水を飲んでいたヒカリが私を見つめた。

 「ヒカリちゃんがメインを歌った瞬間、人がバーって集まった。まさにアイドルって感じ。才能ある。辞めない方がいいよ」

 「辞めないですよ。一生」

 即答された。凄まじい覚悟だ。私からは何も言うことはなかった。

この、覚悟の差か。

 「本当に……すごいよ。選ばれた人って感じだ。私なんかと全然違う」

 「だから選ばれてないんですって。売れないアイドルですよ? わたし」

 「そういう意味じゃなくってさ……」

 私はヒカリを見ようとして、途中で歯車が狂ったみたいに首の動きが止まった。

 「白色矮星は私のための歌だったはずなのに、あの瞬間はヒカリちゃんの歌になってた。声に、言葉に説得力があった。どの口が何言うかが肝心なんだ。あれはもう……私が歌う曲じゃなくなってた」

 情けない敗北宣言をヒカリは黙って聞いていた。

 会社の方針がクソだと思って飛び出した一年前から今の私がこんな目に遭っているのは、全て腐った『大人』のせいだと恨んでいた。

 けれど────

 「『大人』だけじゃない、私もとっくに腐ってた。それが、さっきのライブでよく分かった……」

 『白色矮星』を歌うことをずっと避けていた。見て見ぬフリをしていた。それがなぜかは分からない。分からないから今日、確固たる意志も無いまま弾いてしまった。そのザマがこれだ。

 私は私を誇れなかった。落ちぶれたものだ。

 「だって、あの歌はわたしの歌ですから」

ヒカリの言葉に「へ?」と私は聞き返してしまった。

 「『白色矮星、私は見えない。破壊と再生、私は消えない。誰とも知れない歌うたい。けれど私はここにいる。私は叫び続けてる』。わたしもそう思ってますから。だから初めて聞いた時からずっと、わたしの歌だって思ってきました。挫けそうになる度に、もう無理だって諦めそうになる度に、元気をくれました。救われました」

 「……そっか────」

 「ヨダカさんがそう言うなら、この歌をわたしにください」

 私はペットボトルを落とした。ぼしゃっ、と鈍い音を立ててペットボトルが転がった。砂利が表面に纏わりついて、どくどくと中身が零れていった。

 「わたし、変わりたいんです。歌やダンスをいくら練習しても、それだけじゃ足りないんです。わたしにはあと一つ、何かが必要なんです。そのためのヒントをこの曲がくれる気がするんです。だからこの曲をわたしにください」

 ヒカリは私の顔に手を添えて、私をしかと見つめていた。睨むように、飲み込むように。ヒカリの透き通った瞳の奥、彼女を象るものが見えた気がした。

 まさかお前、生き別れたはずの────恐れ知らずな青臭

い私か?

 そんなところにいたのか。死んだと思ってたのに。なんでお前はここにいないんだ。

 ────お前が見捨てたんだ。見て見ぬフリをしたんだ。

 背後霊が囁いた。

 「……………いやだ…………」

 悩んだ末、いや、少しも考えることなく浪費した数秒の末、私の答えは拒絶だった。理屈なんてなかった。その言葉は地雷だ。だから魂が拒絶した。

 「あれは……私のだもん……!」

 ヒカリは黙ったままだ。私は理由の分からない涙を流した。どんどんそれは激しくなって、いつしか私はしゃくりあげていた。

 「それだけは嫌だ……っ!」

 私はヒカリを睨みつけた。子供が駄々を捏ねているようでみっともない叫びだった。

 「あれだけだもん……あれだけが、私が、私のために書いた、私の曲だから……っ!」

 「────そうですね」

 ヒカリが私に手を差し伸べた。そしてハグをされた。

 「ごめんなさい、イジワル言っちゃいましたね」

 「ヒ、カリちゃ……」

 「嬉しいです。ヨダカさんはまだ、わたしを救ってくれたヨダカさんなんですね」

 ヒカリの言葉が耳に入り、服越しに体温が伝わってきた。あの衝撃を受けてダイラタンシーのように固まった私の心はあっという間に溶けていった。

 私は思った。ヒカリは『そういう子』なんだな。他人の心に素手で触れることが出来、その手は決して無造作ではない。ヒカリと関わって日の浅い私ですら彼女の放つ光を眩く温かいものだと思ってしまった。

 「……ヒカリちゃんは、なんでアイドルになったの?」

 私はヒカリの背中に手を回して、彼女の首元に顔を埋めながら尋ねた。

 「それがわたしの夢だからです」

 誰にでも言えるような言葉だ。しかしヒカリが言っているから意味のある言葉だ。

 「夢は叶えなきゃいけないんです。やるって決めたことは最後までやり遂げるんです。じゃなきゃ他ならないわたしが夢を抱いた意味が無いんです」

 私は思わず目を逸らしてしまいそうになった。抱き着いているからバレずに助かった。なんでだろう、考えた。きっとそれは眩しかったからだ。私なんかよりずっと大人で、そしてずっと純粋だからだ。ヒカリから放たれている陽光のような何かが、私の無様な影をより色濃く、より克明にさせているからだ。

 そうして浮かび上がった自分を私は恥じた。

 「────ヒカリちゃん」

 自ら身体を引き離した私は、涙を拭って、ヒカリの腕を掴んだ。今度は私が掴んだ。

 「ヨダカ、さん?」

 頑張ってるんだな、と思った。あのライブは、一回しか見ていない私ですら確信させる説得力があるものだった。歌も、ダンスも、笑顔も、一年前までプロの端くれだった私を納得させるものだった。

 こんな子が、まだ報われていないのか。

 そんなことがあっていいのか。

 私の報われることの無かった過去が思い起こされた。

 「私……キミに、曲を……っ」

言え。言え! 言うんだ! ここで言えば何かが変わるかもしれない! もう一度、やり直して────

 ────やり直して、どうするんだ? 

 背後霊が囁いた。

 断崖絶壁の前で足が竦んだように、私は言葉を喉の奥に留めた。

 「いいんですよ、ヨダカさん。もう忘れてください」

 しかし、ヒカリは微笑んだ。それが少し寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。

 「ヨダカさんの事情も知らずに頼んだわたしがバカだっただけなので」

 「……なんでそんな顔するの」

 「え?」

 いや、気のせいのはずがない。ヒカリにそんな残りもののような笑顔は似合わない。

 「────曲、書くよ」

 葛藤を振り切って、私は自ら退路を断った。

 私はヒカリに向き合った。ある種の確信を抱きながら。

 この光は、かつての私が求めてやまなかったものだ。ついに私が届かなかった、得難い眩い光だ。しかし彼女のそれは柔くて、危うい明滅を繰り返していた。

 まだ、さらに、この先も、輝いているところをもっと見たい。心の底から思った。

 「ほ、本当ですか?」

 「うん。でもすぐには完成しないと思う。誰かに曲を書くのは初めてだし……私はきっと、まだ迷っちゃう。だから時間が欲しい。ちゃんとやるから」

 「も、もちろん! いくらでも待ちます!」

 目を輝かせて手を握ってくるヒカリに、私は口ごもる。私がヒカリにしてあげられることはなんだ。私は彼女に何を伝えられる?

 「だから……その、代わりにっていうか……もっと上手く歌う方法を教える……っていうのは、どう?」

 「歌、ですか?」

 私は頷いた。

 「ヒカリは上手い方だけど、まだ安定しない部分があるから。ダンスしてる時とか……」

「えっ!? どうして分かるんですか!? 大人数で歌ってるのに!」

 ヒカリは目をパチクリさせた。

 彼女の詰めの甘さは私でなければ分からないような綻びだ。けれど次のステージでは、そういう綻びすらないような連中と戦わなければならない。

 私なら、ヒカリをもっと強くさせてあげられる。

 「私、手伝う。ううん、手伝いたい。キミの未来を見てみたい」

 ヒカリは固まって数秒間、私を見つめて動かない。

 「う、嬉しいです。嬉しいけど、どうして?」

 「……キミを、応援したくなったから」

 紛れもない本心だ。しかしもう一つ理由がある。

 ヒカリのおかげで、自分のダサいところにようやく向き合える気がした。ヒカリの傍にいれば、私がどうすべきか分かるかもしれない。ヒカリの────誰かのためなら私はまだ飛ぶことができるかもしれない。だからこの手を離すわけにはいかなかった。

 「わ、私こう見えても歌は上手いんだから! Mステ出たし、四大ロックフェス呼ばれたし、CDだってガッポガポだったんだから! 曲とか顔だけじゃ、あそこまで評価されないんだから!」

 けれどなんだか恥ずかしくなって早口になってしまった。心を裸にすることに照れているみたいだ。ヒカリは苦笑した。

 「う、うん。歌が上手いのは知ってますよ?」

 「だからぁ! そんな私が教えるっつってんの!」

 私はヒカリの両肩を掴んだ。力を込めると折れてしまうほど華奢なのに、合金製と錯覚するほど芯が通っていて力強かった。

 「キミはもっと大きくなれる! 可愛いし、ダンス上手いし、愛嬌があるし、何より華がある! なのに選抜メンバーに入れないなんておかしい!」

 「は、はい? はい」

 「だから、ぜんぶ完璧に仕上げて今まで見向きもしてなかった奴らを見返してやろうよ!」

 ヒカリはまた数秒を黙って、私の目を覗き込むように見つめた。吸い込まれそうなくらい透き通っている瞳だった。おまえは本気か? そう問うているようだった。私は決意が揺らがないように奥歯を噛み締めた。

 やがてヒカリは目を伏せる。長いまつ毛が瞬いた。肩にある私の手へ、自らの手を重ね合わせた。

 「わたし、もっとできますか?」

 「できる!」

 「そんなわたしを、ヨダカさんは推してくれますか?」

 「推す!」

 そうですか、と吐息だけでヒカリは呟いた。そして、輝くような闘志が籠った瞳で私をしかと射抜いてきた。

 「じゃあ、わたしを鍛えてください。一番のアイドルにしてください」

 「任せて!」

 ヒカリは雲の切れ間から差し込む天使のはしごのような笑顔を浮かべた。そうだ、その笑顔こそヒカリに相応しいものなんだ。

 「よろしくおねがいします! ヨダカさん!」

 あまりに綺麗な笑顔だったから、私はまた目を逸らしそうになった。ぐっと踏ん張って、「よろしく」と返した。

 「じゃ、早速やりましょう! 今からカラオケ行っちゃいます!?」

 「え、ダメだよ」

 ノリノリで立ち上がろうとしていたヒカリは「へ!?」と私を振り返った。

 「この流れで!? よっしゃ頑張るぞー、じゃないんですか!?」

「今日のライブでさんざん喉を酷使したんだから大人しくしてなさい。本当はこんなに喋るのもよくないんだから」

 「えっ」

 「寝る時はマスクして。枕元に加湿器を置いて。炭酸とウーロン茶は飲んじゃダメ。常に飴を舐めて。あと夜更かしも禁止。毎朝走って体力つけて、腹筋と背筋も鍛えよう」

 「か、加湿器とか無いです」

 「じゃあ買って。一緒に選んであげる。それと身体を冷やさないこと。もう夏だけどクーラーは寝る時に付けないで。埃っぽい場所にも行かないで。朝晩お湯を飲んで、うがいをすること」

 「は、はぁ」

 「……今、めんどいなぁ、とか思っただろ」

 ヒカリはあからさまにまずい! みたいに目を泳がせる。

 「お、思ってませんけどね?」

 「じゃあ、いま言ったこと全部やって。言っとくけど一個でもサボったらすぐ分かるから。アイドルだからって笑顔じゃ誤魔化し切れないこともあるからな」

 「き、急に厳しぃですよぉ! 推しなんですよね!?」

 「上手くなりたいんでしょ? ファーストテイク出れるくらい完璧にしてあげる。私を信じて」

 胸を張って私は言った。ヒカリは「わかりました……」と少しだけ後悔している顔を覗かせながら頷いた。かと思ったら急に何かを思いついたのかニヤニヤし出した。

 「じゃあ、頑張るのでヨダカさん歌ってください」

 「よし。……は!?」

 「今日を頑張ったご褒美と、明日から頑張る元気をください! アイドルだって元気が欲しいんです!」

 ダメ? と目をうるうるさせながら、上目遣いで見つめてきた。完全にこの角度が可愛いと自覚しているようだ。勢いに押され、私は「う、うん」と頷いてしまった。

 「えー、なに歌ってくれるんだろ、楽しみ!」

 うきうきしながら私を待つヒカリの隣で、私はケースから出したギターを構えた。その時に気づいた。歌うことに対して、惨めさも未練も全く感じないことに。

 「しょうがないな……ちょっとだけだぞ」

 いつも私を詰る背後霊は、なぜか今だけは現れなかった。

 私はいつの間にか四年前に戻ったようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る