第2話 私は何者でもない


 私は渋谷が好きだ。

 高いビルが聳え立って、鳥籠の中にいるみたい。黒いアスファルトから顔を上げたら、夜闇に額縁が囲っているようで小さい。

 大盛堂書店のDMMに、シブハチヒットビジョンの旧ジャニーズ新作MV。ハチ公を振り返ればネットフリックス。そんな広告に目もくれず、みんな必死で息苦しい。

 ヘッドホンで音楽をかけながら、スクランブル交差点を歩く。宮益坂から道玄坂、渋谷駅西口から渋谷公園通り、渋谷センター街────東京の中心、繁華街への中継地へ千人が移動する「世界で最も混雑する交差点」だ。

 ここは人が多すぎる。人間が飽和している。きっとすれ違った人それぞれにそれぞれが主人公の人生があるんだろう。けれどここではただの風景で、誰が誰だか分からない。

 私はモブだ。

 だからここが好きだ。

 私は特別ではない。

 私は何者でもない。

 ふと、中古のCDショップが目に付いた。こういうところにレアなレコードがあったりする。ワクワクしながら店へ入る。旧作コーナーで、自分の出した音源が売っていた。

 ヨダカのファーストシングル・『ランデブー』。

 四年前のシングルだ。一回だけネットでバズって、そこから右肩下がりになった私の歌手人生を想った。私の活動休止を知ったファンがショックで手放したのか。引っ越しとかで嵩張るから売り払ったのか。色々なことを想像して、無駄だと思って止めた。

 終わったことで立ち止まったってしょうがない。もうどうしようもない。私はもう辞めたんだ。あの世界から足を洗った。自由になった。

 私を縛るものは、もう何も無い。これですっきり、綺麗さっぱり……。


 「……はぁーあ」


 私が息苦しいのは、きっと空が狭いからだ。

 宮益坂を上がって下がって、息をするのも憚られるようなラブホ通りを進んで、半地下に今日のライブ会場がある。

 ライブハウスはかび臭い。でも私はこの臭いが嫌いではない。どこか秘密基地のような気がするから。外界から隠れるように、ひっそりと、薄暗闇の中で、私と他人の境界が曖昧になるような気がするから。

 ここには希望も絶望も無い。停滞した空気だけがある。変化を拒み、退路を断ち、進歩を諦めている。この空気に身を浸していれば、私もいつか諦められるだろうか。

 燻ぶった夢の灰をゴミ箱に捨てられるだろうか。

 私がステージに上がると、粗末な照明が強く私を照らした。陰影が濃く映し出され、私はモノクロになった。


 「ミカゲです。よろしくおねがいします」


 マイクを通して挨拶して、それでMCは終了だ。あまり語ることなんてない。二十人ほどの客を前に何を言うべきことがあろうか。

 アンプに繋いだギターをかき鳴らすと、それはひどく歪んでいた。

 歌うのは今までの恨み辛み、苦しみ、その全てをぐちゃぐちゃに詰めてどろどろになるまで煮込んで灰汁も取らずに盛り付けたような歌だ。私は痰を吐き捨てるように歌った。

 ────まだ捨てきれないのか。

 ────みっともなく縋りついて、やることはただの八つ当たりか。

 ────そんなもの誰も見向きもしない。

 私の背後霊が耳元で囁いた。

 うるさい! 私は振り切るようにストロークを激しくさせた。バツン! と大げさな音を立てて弦が弾け飛んだ。


 「あっ……」


 残響だけが空気に溶けていった。観客は微動だにせず、居づらそうに息をしていた。すっかり場が白けてしまった。そもそも沸いていなかったことに遅れて気づいた。


 「……ありがとうございました」


 私は光から逃げるようにステージから降り、袖の闇の中に紛れた。

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