第57話

『幸いもう友達はいますし、そこにお金や時間を使うくらいなら……結城さんと一緒に、バイトしてる方がいいかなって』


 思えば、木島きじまさんの意思表示はここにもあった。

 でも、俺はそれに気付かないふりをしていたのかもしれない。無意識に茶化して逃げようとしたのだと思う。


『こんな人と一緒に過ごせたら、きっと楽しいんだろうなって、考える様になってました』


 しかし、次のこれ。

 俺が彼女の放ったジャブを避けたのか、本当に気付いていないかの判断がつかなかったのか、彼女はもう一歩踏み込んできた。

 こう言われてしまえば、さすがにもう逃げる事はできない。

 俺は立ち止まって、視線を彼女から逸らした。

 木島さんも立ち止まって、視線を地面へと落としていた。俺の答えを待っているのだろう。

 胃がきりきりと痛んでいくのを感じた。

 木島さんの事を内心で使えない女子大生バイトとして思っていた時期もある。しかし、例の一件があって以降、彼女は問題を改善し、しっかりと働ける様に努力をしていた。その過程で失敗もしたけれど、落ち込みながらも更に改善しようと試みていた。

 実際、あの公園での会話以降、彼女の仕事っぷりは良くなっていた。無理をせず、しっかりと人を頼る様になって、俺自身そんな彼女と仕事をするのは、嫌いではなかった。彼女と話しながらバイトをするのを、楽しいとさえ感じる様になっていた。

 しかし、それはあくまでもバイトとしての関係だ。いや、バイトとしての関係がなくても、彼女は良い子だ。もし彼女と交際に至る関係になっても、楽しい日々が作れただろう。そう思わせてくれるほど、木島さんは魅力的な女性だった。

 でも、それは……俺に、特定の人がいなければ、の話だ。俺には特定の人がいて、そして今この瞬間も、俺の帰りを今か今かと部屋で待っていてくれる人がいる。


 ──だから……ちゃんと言わないといけない。


 木島さんは、俺に恋人がいるのを知っているはずだ。そしてその人が、あのお皿を割った日の客として来ていた事も知っている。雄太からそれを聞いていたというのだから、間違いないだろう。

 それを知った上で、彼女はこうして言葉を切り出しているのだ。その意味がわからない程、俺は愚かではない。

 俺は大きく息を吸ってから、ゆっくりと吐いた。


「……ありがとう。でも、ごめん」


 胃液が逆流しそうなくらいひりひりとした気持ちと、胸が痛くなる思いで言葉を絞り出した。


「…………ッ!」


 木島さんの顔が歪んだ。とても辛そうな表情をしていた。

 俺は彼女に向き直って、頭を下げた。


「気を持たせるような事して、ごめん。あの時の公園での言葉……今になってわかった。ほんと、ごめん」


 重ねて謝罪の言葉を述べる。

 以前、彼女は俺に注意したい事があると言い、こう忠告した。


『あんまりそうやって女の子に優しくするの、良くないですよ?』


 あの時は、この注意の意味がわからなかった。

 でも、今ならわかる。

 俺が不用意に気に掛けて、慰めて……それは彼女の為になると思ってやっていた。傷付いて元気をなくしている彼女を元気にしてあげたいと思って掛けた言葉だった。

 でも──その言葉が、こうして彼女をより深く、傷付ける事へとなってしまった。

 そしておそらく、もうあの公園でのやり取りを終えた後では、きっともう手遅れだったのだ。


「謝らないで下さい……。悪いのは、私なので」

「そんな事は……」

「いいえ、悪いのは私です。結城さんに彼女さんがいるのを知ってて、こんな気持ちを抱いてしまっていたんですから」


 彼女は顔を伏せて、言葉を何とか出している様子だった。


間島まじまくんから、結城さんと彼女さんは学校でも仲が良いっていう話を休憩中に聞いていて……それで、このままずっとずるずるいくのはよくないって思っていて。きっと、もっと時間が経てばもっと好きになってしまう事もわかっていました」

「ごめん、その……」

「ダメです!」


 顔を上げようとした俺を、木島さんの鋭い声が押さえつける。


「今、こっちを見ないで……私、酷い顔してるから。こうなるってわかってたのに……私ッ」

「本当にごめん」


 俺は頭を下げたまま謝った。

 どうして俺が謝っているだろうとは思う。でも、他にどう表現すれば良いのだろうか。

 彼女に好意を持たせる様な事をして、傷付けてしまった。俺にその意図はなかったとしても、それは事実だ。

 そして、どれだけ頼まれても……彼女の想いに応えられないのもまた、事実だった。


「ちゃんと言ってくれて、ありがとうございます。次のシフトまでには、ちゃんと踏ん切りつけてきますから。その為に、言った様なものですから……」


 そこで彼女は言葉を詰まらせた。そこから先を繋げられなかったのだろう。

 きっと彼女は……諦める為に、今回切り出したのだ。

 それならば、俺も黙っているしかなかった。今更何を言っても、彼女を傷付ける事にしかならないからだ。

 数分間だけ、俺達の間を沈黙が支配していた。相模湾の波の音と、国道一三四号線を走る車の音だけがそこに残っていた。

 俺達の間の沈黙を破ったのは、木島さんだった。


「ありがとう……さよなら」


 そう言って彼女は、自分の家の方角へと走り出した。

 たった九文字の、簡単過ぎる言葉。その九文字にどれほどの気持ちが込められていたのか、俺には想像する事すらできない。

 俺の心の中には、木島さんを傷付け、泣かせてしまったという自己嫌悪だけが残った。


「何で美羽が泊りに来てくれてる日に限って、こんな想いしなきゃなんねぇんだよ……」


 ぽろりと漏れた本音は、波の音に紛れて海へと消えていった。

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