第58話
陰鬱な気持ちで家路をとぼとぼと歩く。
家ではきっと、美羽が首を長くして待っているだろう。もう既に夕飯を作り終えている頃合いで、自分もお腹が空いているにも関わらず、俺の帰りを待ってくれているのだ。
今日はゴールデンウイークの初日で、美羽が泊まりに来てくれる日。テスト前から、ずっと楽しみにしていた日だ。
今日はたくさんイチャイチャして、夜遅くまで話して、明日の朝には美羽が選んでくれたトースターでパンを焼いて……そんな日になるんだろうなと勝手に胸を高鳴らせていた。今日のバイトが終わればそんな時間が待っている、と待ちに待っていた。
それが、これである。
とてもではないが、真っすぐ家に帰る気分にはなれない。
ちょうど立ちすくんでしまっていたところで、スマートフォンにメッセージが届いた。
タップしてみると、案の定美羽からだった。
『遅くなりそうですか?』
アザラシのキャラが首を傾げているスタンプも添えてあった。
彼女に伝えてあった予定帰宅時刻より少し遅れてしまっているので、心配になったのだろう。
『ごめん、ちょっと出るの遅くなった。もうすぐ着くよ』
そう返信すると、『ご飯あたためておきますね』とすぐにメッセージが返ってきた。
──これで、帰らなくちゃいけない事確定だよなぁ。
そう思って、大きな溜め息を吐く。
どのみち家に帰らないわけにはいかないのだけれど、心の準備をする時間もなくなってしまった。美羽も今日泊まりに来るのを楽しみにしてくれていたのだから、彼女の前で暗い気持ちを出すわけには行かない。
俺は大きくもう二~三回深呼吸をしてから、頬をパチッと叩いた。
よし、これで大丈夫。気持ちは切り替えた。美羽にだってバレないはず。きっと美羽のご飯を食べれば、こんな陰鬱な気分もすぐになくなるはずだ。
そう自分に言い聞かせて、いつもの帰り道を、いつもよりゆっくりめに歩いて帰ったのだった。
*
「……どうしたんですか?」
家の扉を開けて、「おかえり!」と嬉しそうに俺を迎えてからコンマ何秒後かだった。
美羽は少し首を傾げ、心配そうにそう訊いてきたのである。
いや、バレるの早すぎだろうに。俺の顔ってそんなにわかりやすいのか。
「え? 何で?」
「何となくいつもと違ったもので……何かありましたか?」
さすがは通い妻というべきか、鋭い。
毎日顔を見られていると、俺のちょっとした表情の変化さえも見抜いてしまうのだろう。浮気なんてするつもりはないけれど、したらしたですぐにバレてしまうんだろうな、と思った瞬間でもあった。
「あー……ちょっと今日、仕事でミスっちゃったからさ。それで、顔に出てたのかも」
「そうでしたか。珍しいですね」
「そうでもないよ。たまにやらかすから」
俺は苦笑いを浮かべて、誤魔化してみせる。
さすがに木島さんとの云々を美羽に話すのはどうかと思うし、せっかくの彼女との時間をそんな事に使いたくなかった。美羽とは楽しい時間だけを過ごしたい。
「ご飯、すぐに食べれますか? 一応あたためてあるのですが」
美羽はちらりとテーブルの方を見て訊いた。
テーブルの上には、彼女が気合を入れて作ったであろう夕飯が並べられている。ラップを掛けて、熱が逃げないようにしっかりと対策してくれていた。
それを見て、ぐう、とお腹が空腹を訴えてくる。
人様を傷付けておいて何だ、と思わないでもない。だが、今日はこの夕飯を楽しみに朝から何も食べずに過ごしていたのだ。美味しそうな夕飯の匂いを前に、空腹を感じない方が無理だった。
「……すぐ食べる、でいいですよね?」
「察しの通り、お腹ぺこぺこなもので」
「それでは、すぐに仕度しますね。着替えて待っていてください」
「うん」
美羽は返事した俺の顔をじっと見つめてから、何も言わずにすぐに御味噌汁を火に掛けた。
リビングにあるクローゼットまで移動しつつ、食卓をちらりと見ると、その品目の多さに驚く。俺ひとりなら三食分はありそうだ。ワンルームアパートの小さなキッチンでこれだけの分量を作るのはさぞ大変だっただろう。
俺がバイトで長時間労働しているのを見越して、たくさん作ってくれたのだ。美羽も今日という一日を楽しみにしてくれていたのだろう。
──ますます、ボロは出せないな。
苦い笑みを微かに頰に含んで、クローゼットを開いた。
「おお……」
クローゼットの中を見て、思わず感嘆の声が漏れ出た。普段雑多に積まれている衣服が綺麗に整頓されていたのだ。
どうやら美羽はクローゼットの中まで整理整頓してくれていたらしい。本当に頭が上がらない。
「あ、クローゼットの中も整理してしまいましたが……大丈夫でしたか?」
俺の漏らした声に気付いて、美羽が不安そうに台所から顔を覗かせ訊いてきた。
「ピンチハンガーに干しっぱだったシャツとか畳んでクローゼットに仕舞おうって思ったら、崩れ落ちてきてしまって。それで、ついでに」
「も、申し訳ねえ……」
クローゼットの中まで整理するつもりはなかったが、それをせざるを得ない状況になってしまったらしい。
俺は洗濯物を畳むのが苦手で、ついついクローゼットに詰め込んだり、ピンチハンガーに干しっぱなしで放置したりしてしまいがちなのだ。
そういえば月初に泊まった時もピンチハンガーに干されたままだったシャツを畳んでくれていたし、今回も見兼ねて畳もうとしてくれたのだろう。きっと毎日部屋に来る度気に掛かっていたに違いない。
申し訳ない事をした。これからはちゃんと畳もう。面倒だけど。
──ここまでしてくれてるんだ。ほんと、美羽に嫌な思いはさせられないよな。
彼女が畳んでくれたシャツを一枚取って着替えると、俺は改めてそう誓うのだった。
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