第11話 港町の別れ

ケンジは旅を続け、次に訪れたのは、穏やかな波音が響く港町だった。港には漁船が停泊し、潮風が心地よく吹き抜ける。漁師たちが慌ただしく働き、町の人々が日々の暮らしを営んでいた。小さな町だが、どこか懐かしさを感じさせる場所だった。


ケンジは港近くの小さな居酒屋に立ち寄ることにした。夜になると、漁を終えた漁師たちが酒を酌み交わしに集まる場所らしい。夕暮れの光が海面を照らし、空がオレンジ色に染まっていく。ケンジはギターを片手に、漁師たちが集まる居酒屋の入り口に立った。


店の中に入ると、店主がケンジに目を向け、「お、旅の者か? ギターを弾くのか?」と声をかけてきた。


「はい、流しの仕事をしています。ここで少し演奏してもいいですか?」


店主は少し驚いた表情を見せたが、にやりと笑って「いいぞ、好きにやれ」と言った。居酒屋には漁師たちが何人か座って酒を飲んでいたが、流しの音楽家を目にするのは珍しいようで、みんな興味津々の様子だった。


ケンジは席の片隅に腰を下ろし、ギターを手に取る。指が弦に触れると、静かに音が流れ出し、港町の静かな夜の空気に溶け込んでいった。ケンジが奏でたのは、どこか郷愁を誘うメロディーだった。漁師たちがじっと耳を傾け、誰も言葉を発さずに音楽に集中している。


曲が終わると、店内には静かな拍手が起こった。漁師たちは寡黙ながらも、その拍手はケンジの演奏に対する敬意が込められているように感じられた。


その時、ひとりの漁師がケンジの方に歩み寄ってきた。年配の男で、深く刻まれたしわが彼の長い人生を物語っていた。彼はケンジに目を合わせると、静かに口を開いた。


「お前のギター、いい音だな。俺は長いこと漁師をやってきたが、こんな心に響く音楽を聴いたのは久しぶりだ」


「ありがとうございます」ケンジはその言葉に頭を下げた。


「実はな、俺には娘がいたんだ。もうずいぶん前にこの町を出ていったんだが、あの娘はお前のように音楽が好きだった。よくギターを弾いて、俺に聴かせてくれたんだ」


男の声には、懐かしさと同時に寂しさが滲んでいた。ケンジは、男が何かを伝えたがっていることを感じ取った。


「娘さんは今も元気で音楽を続けているんですか?」ケンジが尋ねると、男は静かに首を振った。


「いや、もう会えないんだ。事故で…な。でも、俺はあの娘がギターを弾いてくれた日のことを、毎晩のように思い出すんだ。だから、お前のギターを聴いた時、あの頃のことが頭に浮かんでな…不思議なもんだ」


ケンジはその言葉に胸を締め付けられるような感情を覚えた。音楽が、過去の記憶や大切な人との思い出を呼び覚ます力を持っていることを、改めて実感した。


「あなたの娘さんが好きだった曲、もしよければ僕に教えてくれませんか? その曲を、僕がここで弾きます」


男は驚いた顔をしてケンジを見つめたが、やがて微笑んで頷いた。そして、娘がよく弾いていた曲のタイトルをそっと教えてくれた。それは、古い日本の民謡だった。ケンジはすぐにその曲を思い出し、ギターの弦を指でなぞった。


静かに奏でられるメロディーが、居酒屋の中に広がり、男はその音に耳を傾けていた。彼の目が少し潤んでいるのがわかる。娘と過ごした日々が、彼の心に鮮明に蘇っているのだろう。ケンジは心を込めて弾き続けた。


曲が終わると、男は深く息をつき、ケンジに向かって深々と頭を下げた。「ありがとうな。こんなこと、二度とできないと思ってたよ」


「僕の演奏で、少しでも思い出に寄り添えたなら嬉しいです」


男はケンジの肩を軽く叩き、再び自分の席に戻っていった。その背中には、音楽が彼の心に与えた癒しと、別れへの感謝が込められているようだった。


その夜、ケンジは港町を後にする準備をした。だが、漁師の男との出会いが、彼の心に深く刻まれていた。音楽は、単なる音以上のものであり、時には人の心に残る傷を癒すものだと、ケンジは再び感じた。


「さよなら、港町」


ケンジは静かに呟き、夜の海を眺めた。波の音が遠くから聞こえ、夜空に輝く星が海面に映り込んでいる。その光景が、男との別れの余韻を残していた。


ギターを背負い、ケンジは再び歩き出した。次の町でも、きっと誰かの心に触れる瞬間が待っている。それを信じて、彼は新たな旅路へと進んでいった。


この第11話では、港町で出会った漁師の男との交流を通じて、ケンジが音楽の持つ力を再確認します。音楽が過去の思い出や愛する人とのつながりを蘇らせ、心に寄り添う力を持つことを描きました。漁師との別れが、ケンジにとって新たな旅への決意を深めるエピソードです。

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