第5話 一杯の酒とギター

夕方が過ぎ、夜の帳が降り始めた。ケンジはマスターに教えられた小さな旅館に荷物を預け、夜の街を歩いていた。町は昼間とは違い、少しずつ活気を帯び、路地裏からはどこか賑やかな音が漏れ聞こえてくる。酒場の灯りが暖かく輝き、客たちの笑い声やグラスの音が混ざり合い、独特の雰囲気を醸し出していた。


ケンジはその中でもひときわ賑わっている一軒の居酒屋に足を止めた。のれんが風に揺れ、店内からは酒とタバコの混ざった匂いが漂ってきた。ギターを背負ったケンジは、覚悟を決めるようにのれんをくぐった。


「いらっしゃい!」店に入ると、元気な声がケンジを迎えた。店内はすでにほぼ満席で、地元の常連客らしき人々がテーブルを囲んで酒を酌み交わしていた。ケンジはカウンターの端に空いていた席に座り、ギターケースをそっと足元に置いた。


「何にする?」カウンター越しに声をかけたのは、恰幅のいい店主だった。ケンジはまだ未成年だ。酒を頼むこともできず、少し困った表情を浮かべながら、「ウーロン茶をお願いします」と頼んだ。


店主は少し驚いたようにケンジを見たが、すぐに笑顔を見せた。「ギター持ってるな。流しか? 若いのに珍しいな」


「はい、少し…」ケンジは緊張しながら答えた。


「どうだ? ここで一曲、やってみるか?」


その言葉に、ケンジの心臓は一瞬ドキッとした。ここは昼間の喫茶店とは違う。酔っ払いが多い酒場での演奏は、よりハードルが高い。しかし、ケンジは一歩踏み出さなければならないことを理解していた。


「ぜひ、やらせてください」


そう言って、ケンジはギターケースを開け、ギターを取り出した。酒場の客たちは、次第に彼に注目し始めた。騒がしい中にも、少しずつ静けさが広がっていく。ケンジは指で弦を軽く弾き、音を確かめた。


「じゃあ、一曲、聴いてください」


ケンジの声が少し震えていたが、ギターの音が彼を支えてくれた。彼が選んだ曲は、昭和の名曲。酒場にぴったりの少し切ないメロディーだった。


ギターが鳴り響くと、店内の空気が変わった。客たちは、手に持ったグラスをゆっくり置き、彼の音楽に耳を傾け始めた。誰もが聴き覚えのある懐かしい曲が、ケンジの指先から紡ぎ出される。彼の声は静かに、しかし確かに酒場に響いた。


ケンジの演奏が進むにつれて、客たちの表情が少しずつ変わっていった。最初はただの若い流しを見ていた彼らも、次第にその歌声に引き込まれていった。ギターの音色が、彼らの心の奥に眠っていた記憶や感情を呼び覚ますように。


「いいじゃねえか…」


誰かがぽつりとつぶやいた。その声に他の客も同意するようにうなずき、静かに聴き入った。ケンジはその反応に少し安心しながらも、心を込めて最後まで弾き続けた。


曲が終わると、店内はしばらく静寂が続いた。しかし、次の瞬間、店主が大きな声で「いいぞ! 若いの!」と叫び、拍手を送り始めた。それに続いて、他の客たちも次々に拍手を送り、店内は再び活気に満ちた。


ケンジは頭を下げ、ギターを片付け始めた。自分の音楽が確かに人々に届いたことを感じ、心の中に小さな達成感が広がっていた。


「坊主、やるじゃねえか」店主が笑顔でケンジの前に一杯の酒を差し出した。「今日は特別だ、飲め」


「ありがとうございます。でも、僕はまだ未成年なんで…」


ケンジは苦笑しながら断った。それを聞いた店主は一瞬驚いたが、すぐに大笑いして、「そうかそうか、若いのにしっかりしてるな」と言いながら、代わりにウーロン茶をもう一杯注いでくれた。


「お前みたいな若い流しは珍しいな。これからも旅を続けるのか?」


「はい、いろんな町で歌って、僕の音楽を届けたいんです」


「それはいいな。俺も昔は音楽をやってたんだよ。まあ、今はこうして酒を注いでるがな」


店主の笑顔には、どこか懐かしさと少しの寂しさが混ざっていた。ケンジは、その言葉の奥にある想いを感じ取りながら、自分も音楽を続けることに対する決意を強くする。


夜が更け、客たちが少しずつ店を後にする頃、ケンジもギターを背負い、店を出た。外はすっかり暗くなり、星がぽつぽつと輝いていた。冷たい風が吹き抜け、ケンジの頬をそっと撫でた。


「やっぱり、音楽っていいな…」


ケンジは静かに呟き、空を見上げた。これからも、こうして自分の音楽を届け続けよう。旅はまだ始まったばかりだ。どんな出会いが待っているのか、どんな場所で音楽を奏でることになるのか。それを楽しみにしながら、ケンジは次の町へと向かう道を歩き出した。


ギターの音は、風に乗って静かに夜空に消えていく。果てしない旅路の中で、ケンジは自分の音楽がどこまで届くのかを試し続けるのだった。


この第5話では、ケンジが初めて酒場での演奏に挑戦し、音楽がどのように人々に影響を与えるのかを感じる場面を描きます。彼の緊張と挑戦、そして成功が丁寧に描かれ、流しとしての自信を少しずつ深めていく様子が表現されています。

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