第3話 父との別れ
ケンジが楽器店を離れてから数日が経った。どこかでギターを弾き、少しずつ流しとしての生活に慣れていく中で、ケンジの心には一つの思いがずっと残っていた。それは、楽器店を一人で守る父の姿だ。
ケンジが15歳になった時から、音楽に夢中になり始めた彼の姿を、父はいつも静かに見守っていた。店の仕事を手伝うように言いながらも、ギターを持って出かけるケンジに特に強く言うことはなかった。母親を亡くしてから、父子二人で過ごす時間は自然と増えたが、その分、言葉少なになっていったことも感じていた。
町を出る前の夜、ケンジは店の奥でギターを修理する父の姿をじっと見つめていた。油で汚れた作業着、職人の手のように固くなった指先、そして真剣なまなざし。それらは、ケンジが幼い頃から慣れ親しんだ風景だった。しかし、その夜はいつもとは違った感情が胸に込み上げてきた。
「父さん、俺、もう少しで旅に出るよ」
そう言った時、父は少しだけ作業の手を止め、ケンジの方を見た。そして、何も言わずに作業を続けた。ケンジはその無言の返答に、父の本当の気持ちを感じ取った。止めはしない、しかし、それがどれだけ心配なのかも、言葉にすることなく伝わってきた。
「流しになるんだ。ギターを背負って、いろんな町で歌う」
ケンジは父にもう一度告げた。だが、父は再び無言で作業に没頭する。
ケンジは、そのまま店を出ようと決めた。言葉で伝え合うことができない分、父と自分の間には音楽があった。それは、言葉以上に深く二人を繋いでいるものだった。そして、ケンジは信じていた。音楽の道を歩む自分を、父は心のどこかで応援してくれていると。
翌朝、ケンジは準備を終え、いよいよ店を出る決心をした。ギターを背負い、旅の荷物を手に持ち、店の扉を開けた時、父の声が背後から聞こえた。
「ケンジ」
振り返ると、父がじっとケンジを見つめていた。父の手には、一枚の古いピックが握られていた。
「これを持っていけ」
ケンジはそのピックを手に取り、指先でそっと触れた。薄く磨り減ったそのピックは、父が若い頃に使っていたもので、何十年もの間、彼の手の中に大切に保管されていたものだった。
「俺も、昔は音楽が好きだったんだよ」
父は、初めて自分の過去を口にした。ケンジは驚いたが、その言葉に隠された意味をすぐに理解した。父もまた、かつては音楽に夢を持ち、何かを追いかけていたのだ。
「お前が音楽を続けることに、俺は何も言わない。ただ、一つだけ覚えておけ。音楽は、人に寄り添うものだ。誰かのために演奏するんだ。お前のためじゃなく、誰かのために。それを忘れるな」
その言葉は、ケンジの心に深く刻まれた。音楽がただの自己表現ではなく、聴いてくれる人々のためにあるものだという父の教え。ケンジは無言で頷き、ピックをポケットにしまった。
「ありがとう、父さん」
そう言って、ケンジは父の元を離れた。彼の背中に父の視線を感じながら、歩き続ける。振り返らないことが、ケンジなりの覚悟だった。
広がる田んぼ道を抜け、ケンジは次の町へ向かう。背負ったギターの重みが、心地よく感じられる。これからの旅がどんなものになるのかはわからない。しかし、父の言葉と共に、自分の音楽を届ける決意は確かに固まった。
ギターの弦に触れ、ケンジは歩きながら軽く音を奏でる。父の古いピックが、彼の指の間で馴染む。音楽は、自分だけのものではなく、これから出会う誰かのために奏でるものだ。その思いを胸に、ケンジの果てしない旅は、まだ始まったばかりだった。
夜空の星が少しずつ明け始め、静かに朝日が昇っていく。ケンジの心は、希望と不安が入り混じりながらも、確かに前を向いていた。
この第3話では、ケンジと父との別れを描きます。音楽を通じて父と繋がるケンジが、父の過去や教えを受け継ぎながら、自分の旅路を歩む決意を深めていく様子を描きました。
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