第6話:『ヒロイン補正』という名の恐怖

「(嘘でしょう……!?)」


 ただ自己紹介しただけで、好感度が上がったとでもいうのだろうか、とエリスが顔色を悪くしていると、目の前にぱっと半透明の長方形をした、今まで見たことのないものが、空中に表示されている。

 他の人には見えないようなのだが、エリスが顔色を悪くしたことも気付かれていないようで、それだけは安心した。

 だが、エリスが顔色を悪くしたのはそこに書かれている内容。


【攻略対象の好感度が上昇しました。

 ジャスティン・ノルベルト 好感度:50 ⇒ 65】


「え……」


 好感度、って何なのだろうかとは考えるまでもない。自分に対して相手がどれだけ好意的に思ってくれているのかどうか。


 エリスが思ったのは、たかが自己紹介をしただけなのに!? ということ。エリスが驚いていると、ジャスティンは照れくさそうにエリスに手を差し出してきている。

 一体なんだ、と思っているとジャスティンは、表情を引き締めて自己紹介してきた。


「ジャスティン・ノルベルト。父は王宮で宰相を務めている」

「……改めて、エリス・ルーデアと申します。ルーデア伯爵家長女でございます……」


 認識なんかしなくていい! そんな必要ないからそっとしておいてくれ!

 エリスの心中は穏やかどころか暴風雨状態ではあるが、そんなことを知る由もないジャスティンは、機嫌良さそうに無理矢理にエリスの手を取って挨拶がてら握手までしてきた。

 更に握った手を緩く上下に振りつつ、これからよろしく、などとも言っている。クラスメイトなのだから、よろしく、は理解できるが、どうしていきなり手を握る、だなんていう行動に及んでいるのか分からないだけに、エリスが感じたのは嬉しい、とか恥ずかしい、よりも『気持ち悪い』や『得体がしれない』だった。


「……!」


 通常ならこんなことあり得ない、とエリスが驚いている中で、クラスメイトたちは『まぁ、ジャスティン様があのようにリラックスしているわ!』だの、『そういえばエリス嬢はクラス分けの成績がとても良かったし、これはジャスティン様に一目置かれているのでは!?』とか、色々なひそひそ話が聞こえてくる。

 そんな話は聞きたくなかったんですけれども、とエリスは表に出さないようにしながら微笑みを張り付けているのだが、限界が近くなってきてしまった。


「(リーア! リーア助けて! ちょっとこれはさすがに無理なんですけど!)」

『ど、どうしたんですかエリス様。だってその人は攻略対象としての行動をしているだけですよ。普通に自己紹介返してくれて親愛の意味も込めての握手を……』

「(は!? 攻略対象とか知らないしどうでも良いわよ!! そもそも初対面でこんなにがっちり握手とかしないものだし、宰相閣下のご子息が何考えているのかしら!)」


 リーアはエリスのあまりに焦った声にぎょっとする。

 恋愛ゲームの中では、恐らくこれが『普通』だとプログラムされているのだろうが、エリスの知っている一般常識からはかけ離れていると、必死で抗おうとしているのだから。

 現に、エリスの顔色はすこぶる悪いし嫌悪感もたっぷり見えている。


『え、えっと、とりあえずその人エリス様から離せばいい……です?』

「(そうよ、お願いだから今すぐに私からこの人を離して!!)」


 ナビ精霊として自分が出来ること=エリスの手助け。

 主人公ヒロインが困っているのであれば、攻略対象といえど、離せと言われればそれを実行するまでだ。そんなにも離れたいと思っているならば、エリス遠ざけることが最優先なのだ、と判断した。


『とりあえずクラスの女子に動いてもらいます……!』


「恐れながら……ノルベルト侯爵令息様」

「ん?」

「いきなりそうやって手を握り、エリス嬢の了解も得られていないのに、それは……」

「あ」


 ここでようやくエリスが困りきっているということに目を向けてくれたのか、ジャスティンがはっと我に返ったようで手を離してくれた。

 女子生徒はリーアが操作してくれたようで、エリスは心の底から安堵した。


「す、すまない!」

「いえ……」


 もうこうなったらエリスがヒロインだろうが何だろうが、一生徒としてもジャスティンは嫌悪の対象にしかならない。

 伯爵家令嬢として、恋愛ゲームのシステムの中に組み込まれているとしても、マナーが守れない人なんて、そもそもごめんだ。


「(何この人気持ち悪い……)」


 男性恐怖症、というわけでもないのに、ここまで嫌悪感がすごいだなんて……とエリスは思うが、たかが自己紹介くらいで催眠術を使って印象操作をしたかのごとく皆の好感度のようなものが上昇したうえに、エリスを見る目が熱を帯びているかのようで、それも合わせて気持ちが悪かった。


「大変失礼した。エリス嬢、これから一年間、改めてよろしくお願いする」

「あ、あはは……よろしく、お願いします……」


 よろしくなんてしたくないし、こんなのと仲良くしていかなければいけないヒロインって何なんだ……とそろりとリーアの方を見てみれば、リーアもぎょっとしている。


「(リーア、ちょっと)」

『あの、ボクも初めて見たから何とも、なんですが……ヒロインってあんな感じに大変なんですか……?』

「(ええ、そうみたいね)」

『エリス様の心拍数、急上昇してます』

「(怖すぎたのよ。得体の知れない生き物みたいで……気持ち悪かったわ……)」


 それはそう、と思ってリーアは何回も頷いている。

 そして、ナビ精霊としてモブであろう女子生徒をいとも簡単に操作できてしまうことも、リーアにとっては相当な恐怖だったらしい。

 心なしかリーアの顔色も結構悪くなっているし、着ている服をぎゅっと握りしめていた。


「(……これ……本当に何なの……?)」

『後で……説明します』


 心当たりがあるのか、リーアはぽそりと呟く。それにエリスも頷いてからおかしな風に見られないようにと、どうにか微笑みを張り付けておいた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 その日の行事は無事に終わった。

 新学年の、さらには新学期初日ということもあり、一人一人自己紹介をしていったのだが、ジャスティンはエリスをチラ見してくる回数が半端ないし、他の攻略対象からも何やらもぞもぞするような、むず痒い奇妙な視線がエリスへと飛ばされていた。


 どうにかこうにかそれを我慢し、耐えきって帰宅したエリスは疲労困憊。

 メイドには『夕飯まで休むから、そっとしておいて……』とげんなりした顔でお願いしておいたところ、お茶とお菓子をそっと差し入れしてくれた。

 彼女のことは兄に『とっても気遣いができる素敵なメイドね』と報告しよう、とエリスは差し入れしてくれたお茶を飲みながら大きく息を吐いた。


「っ、はーーーーーー」

『大丈夫でしたか……?』

「大丈夫に見える?」

『見えないです』

「リーア、あなた……これを他の人におねがいしようとしてたの……?」

『それなんですけど』


 ひとしきり叱ってやろうと思っていたエリスだったが、リーアがぱっと見慣れないものを空中投影してきた。

 先程の好感度やらが書かれていたものと同じか、とエリスはそれをじっと眺める。


『エリス様が主人公ヒロインにも関わらず、どうして攻略対象の想いが嫌悪するものだったんだろう、って思って調べたんです』

「え?」


 言われてみれば、学校にいる間はリーアの姿があれ以降見えなかった。

 一体どこに居たのだろう、と思ったがエリスの前にリーアの出した画面がすい、と移動してきたので、そちらへと視線を移す。


『本来であれば、選ばれた時点でエリス様もこの定められた設定に適応するはずなんです』

「何よ、それ……」

『……』

「適応したら、あんな行動が当たり前として受け入れられてしまう、っていうこと? 一種の洗脳みたいなものじゃない!」

『ですが、、何もかもがお膳立てされてしまっているはずなんです』


 何だそれは、とエリスは呆然とした。

 それが当たり前だとしたら、これからもあんな過剰接触ともいえるようなことが、度々起こるというのか。


「他の……私のような役割の人は、それを受け入れているの……?」

『はい。説明された時点で、他の方々はどうやら並々ならぬ野心をお持ちの方が多数いらっしゃったようです。ある人は王太子妃に、ある人は王子妃に、またある人は意中の高位貴族の令息と結ばれていたり、と多種多様ではあるんです』

「……待ってよ……今から王太子妃や王子妃教育……って、おかしいわ。そんな人たち、もうとっくに婚約者がいるのよ!?」

『……』


 リーアからの反応は無い。何かしら言ってくれるはずだと思っていたのに、とそちらを向いたとき、思わず『あ』、とエリスは呟いた。

 リーアの目は、どこか虚ろのような、仄暗い光が宿っている。

 かくん、とリーアの体がまるで糸の切れた操り人形のように崩れ落ちて、また立ち上がった。


『ソレが、ヒロイン補正の最大の力なのです。どうしてか、あなたは、それが、カカラナカッタ』


 誰かに意思を奪われたように、リーアはそれを告げて、ぺそりと倒れ込んだ。


「リーア!?」

『ぅ、……』

「え、ちょっとリーア、しっかりなさい! あなたがしっかりしててくれないと、さすがに困るのだれけど!」


 どうしていきなり倒れたのか。

 そもそもヒロイン補正って何、という思いなど、ぐるぐると回る思考の中で、エリスは必死にリーアを呼び続けた。

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