手紙
『無二の親友へ
以前、俺がお前に言ったことを覚えているだろうか。あの時お前は戯れだと言って笑ったが、今こうなって分かる通り、俺は至って本気だった。
いや責めている訳じゃない。むしろ嬉しかったんだ。俺の事を無邪気に信じていてくれてさ。
改めて言おう。
俺の葬式でピアノを弾いて欲しい。
曲目ももう決めてある。『G線上のアリア』と『幻想即興曲』だ。
知ってるだろう、俺がどんな人間か。
作戦はこうだ。まず葬式に対する義理は立てさせてもらう。それがG線上のアリアだ。どうだ、あの曲は葬式にぴったりだろう。葬式の手順はよく分からないが適当にやってくれ。ただの義理で保険だからな。
で、本番はここからだ。G線上のアリアを切り上げたら幻想即興曲を弾く。これは誰にも言うなよ。当日のサプライズだ。俺とお前だけの秘密だ。
懐かしいな。あの曲は俺たちの特別だった。先生の好きな曲でもあった。先生の葬式ではどっちが演奏するか揉めて、結局じゃんけんで勝ったお前が
それも今となっては遠い思い出だ。
俺は、死んだ。ずっと前から死んでいた。
心臓が止まるのは怖くない。だって俺はもう死んでいるから。
周りの評価や完璧な演奏に囚われた時点で、俺は死んでいたのだ。
俺は常に恐怖に苛まれていた。それは俺がピアニストである限り続くようだった。だが俺はピアノをやめてしまうのも怖かった。俺からピアノを取ったら何になる?
人生が永遠に続く生き地獄に見えた。崖っぷちを歩いているようで、俺は必死にピアノにしがみついていた。
しかし世間はそんな俺を天才と褒めそやした。お前と並べて、ピアノ界の双璧だと。人々は俺たち二人が良き仲間でい続ける事を期待し、一方では競い合う事を求めた。
俺とお前は確かに、小さい頃から親友でありライバルだった。それはいつまでも変わらない。だが世間の期待が俺の意識を変質させてしまった。お前は何も変わらないのに。
変わらないお前が羨ましい。
今更になってこんな毒を吐くなんて。相談してくれれば良かったのに。お前はそう言うだろう。
だが、そんなことはできるはずがなかった。お前には見せたくなかった。お前にはいつまでも穢れなくいて欲しい。苦しむのは俺だけで十分だ。
それは間違っていたんだろうか。
きっとお前は、躊躇いなく頷くのだろう。そして必要ならば親友のために躊躇いなくピアノを捨てる事さえしてのけるのだろう。
……勘違いはするな。俺が死んだのは断じてお前のせいじゃない。世間のせいにするつもりもない。俺を殺したのは他ならぬ俺自身だ。
お前にはすまない事をしたと思っている。また、死んだ俺を世間が勝手に祭り上げるのだろうと思うのも反吐が出る。天才は自殺しがちだってな。全く笑えてくるよ。
それでも死ぬと決めたんだ。決めたのは俺だ。
だからお前は俺の葬式でピアノを弾け。弔いはその一回だけにしろ。そして俺の事は二度と口に出すな。ピアノをやめるな。生きている者のために弾け。決して俺のためではなく。
これは約束だ。
いいか、『G線上のアリア』の後にサプライズで『幻想即興曲』だぞ。俺はちゃんと聴いている。いや、見張っている。いつまでも日和っているようじゃ俺がお前の身体を乗っ取って勝手に弾いちまうからな。
じゃあ、楽しみにしてるよ。ミスの一つでもしたら今度こそ思いっきり揶揄ってやるから、精々楽しくやっておけ。
無二の親友より』
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