葬送曲
藤堂こゆ
葬送曲
静かに『G線上のアリア』が流れている。
生演奏だ。ピアノの。
俺があいつに頼み込んで演奏してもらった。
バイオリンは華やかすぎてかなわん。葬式にはピアノがちょうどいい。
ああ……この低音。胸に染み渡るのはあいつの演奏だからだろうか。
棺の中の亡骸に別れを告げる人の列は絶えない。それでいて誰一人音を立てない。やはり皆、この葬送曲に聞き入っているのだ。
棺に目もくれずピアノに向かっているあいつを見ていると、なんだか今になって申し訳ない気持ちが込み上げてくる。彼一人だけ大の親友の最期の顔を見れないのだ。ああ、ひどいことをした。
けれども決して手を止めない。音も決して揺らがない。まったく律儀なやつで泣けてくる。
会場の隅で壁にもたれる俺に気づく者はいない。……いや、一人。あの子なら気づくかもしれない。前に見える体質だって言ってたから。
だが会場を見渡してもその姿は見えない。
きっと家で泣いてるんだろう。残念だが俺はわざわざ家まで慰めに行ってやるほど親切ではない。
G線上のアリアは静かに淀みなく流れ続けている。
もうすぐ列は終わる。俺はゆっくり歩き始めた。
厳かに黒光りするピアノ。それに溶け込むように腕を動かすあいつ。
しかしぴたりと足が止まる。
すすり泣きが聞こえる。
あいつの肩が震えている。
低音が聴こえなくなった。あいつは左手で顔を覆ったらしい。
それでも右手は必死にメロディを追っている。
俺は驚きから覚めると少しだけ足を早めた。
震えるやつの肩口に顔を出して小さな声で言う。
〝弾けよ〟
わかりきったことだがやつは反応しない。
そろそろ右手も危うい。少し周りを見渡すとちらほらと憐れむような視線がこちらに向けられている。
あーあー、そんな目で見られたらまたむらむらと弾きたくなってくるじゃないか。
しょうがないから俺はやつの手を借りることにした。
〝ちょっとごめんよ〟
ぬるり。
これで右手は大丈夫。
ああ左手がぐちょぐちょだ。こんなんじゃ弾けねえな。
俺は黒いズボンの腿に濡れた手をこすりつけてやる。それなりに高い衣装なんだろうが知ったことか。
俺のより幾分か細いその手を鍵盤に導いた。
そう、それでいい。
あいつは驚きのあまり息をするのも忘れているようだ。当たり前だな、自分の手が勝手に動き出したんだから。息止めすぎて死ぬなよ。
G線上のアリアもそろそろ飽きてきた。ここらで一区切りつけようか。
俺は適当なタイミングで、でもしっかりゆっくり余韻を残して、アリアを終わらせた。
さて……次は何を弾こうか。何しろ正真正銘最後の演奏だ。
そうだな、やっぱり予定通りといこう。
〝失敬、足も借りるぞ〟
――
ペダルを踏んで、オクターブ離れた二つの
少し雑だが許せ。
いつも以上にたっぷり余韻を楽しんでから左手を躍らせる。"
ショパンの『幻想即興曲』。
会場がざわめく。おいおい人の演奏中に喋っちゃいけないぜ。
二分の二拍子二小節を一息に弾いたら右手も合流、初っ端からメインテーマ。
楽譜なら隅から隅まで頭に入っている。鉛筆で真っ黒になるほど書き込みをしてよれよれになった楽譜。
頭に入っていると言うより体に染み込んでいると言う方がいいか。
#の嵐が空間を駆け巡る。次第に強く――次第に弱く――かと思えば強く主張して――……心臓をつかんでかっさらう音の波。
右手の十六分音符が絶え間なく空気を苛んで、けれども詰め込まれた音たちはペダルのために滑らかに溶け合う。四音で一セット、一小節に四セット。
「――」
あいつが俺の名前を呟いた。
悪いな、答えてる暇はないんだ。
次第に弱く……ついにアクセントは右手から姿を消し、ドキッとさせるほど音量を落として速度を緩めればまた最初の主題。
ああ、気持ちがいい。こんな気分で演奏したのは実に久しぶりだ。
――登って、登り直して、登り降り、降りて、登って、登って登って登って登って登って登って……落ちる――落ちる――、転げ落ちる――――!!!
力強く、二小節に渡る絶望への転落。
そしてもう一度、駄目押しのように、丹念に闇色の岩肌に叩きつけながら落してやるのだ。
〝任せた〟
俺はするりと手を抜いた。やつは聞こえているのかいないのか、しかし小さく頷くような仕草をして演奏を止めずにあとを引き継いだ。さすが、小さい頃から一緒にやってきた大親友。
今まで#だった世界が♭に塗り替えられる。
"
右手が入ると"
この穏やかなパートは左手が魅せ所だ。つい右手の踊り子に耳目が向きがちだが踊り子だけでは世界は成立しない。この世界を形作り操るのはほかでもない、左手が作り出す波のうつろいなのだ。
頻繁に踏まれるペダルがその波をさらに情緒豊かにする。
ふと気づけば観客席はすっかり静まり返っていた。……いや葬儀場だから観客じゃなくて、うーん、何だろう。
甘やかな音色が空気を染めて漂う。素晴らしく柔らかな肌触り。それでいて熱情を隠す底の見えなさ。
切なくて、上品で、優しくて。
あいつの演奏にはいつも、この手があったかと驚かされる何かがある。俺にはない、俺とは別の才能。
穏やかな世界は踊り子と丁寧に歩調を合わせる。
けれどもその中に危うさを感じるのは俺だけだろうか。
突き落とされたあの恐怖を思い出して、この平和な世界の中に、今にもあちらに戻ってしまいそうな危うさを見出だすのは。
……ああそれでもやはり、光に満ちているんだ。
あいつの演奏はいつだって。
俺はしばらく目を閉じ耳を澄まして聴いていた。
空を飛ぶような、草原を駆けるような、そんな心地がする。
不意に子ども時代を思い出す。体が羽のように軽く、心がもっと無邪気だった頃。
二人でよく走ったよな。走って、高台から街を見下ろしたその景色は何よりも鮮やかだった。今でも忘れられない。
これが走馬灯というものだろうか。揺らめく幻の世界を背景に、輝く思い出が次々と甦ってきて止まらない。
だが俺は、それらがひた隠しにした暗闇に気づかないほど馬鹿じゃない。
曲はゆっくりと、踊り子が舞うように行きつ戻りつしながら、しかし着実に熱を帯び確信を深めていく。
それにしても……
透けた自分の手と動き続けるあいつの手とを見比べて。あの小さな手でよくあんな見事な演奏をするものだと、俺は心の中で称賛してやった。
あいつがまた俺を呼ぶ。
そうだ、もうすぐまた嵐がやって来る。
だんだん弱く……左手が速度を落とすにつれて、右手の音は動いていないはずなのに、急激に音の質量が増したように感じられる。
優雅に音を置いて焦らすように持ち上がったあいつの手に、俺は自分の手を重ねた。文字通り。
心臓を浮き上がらせるような息苦しさの後。平原に陰が差し雷鳴を孕んだ暗雲が天を覆う。
雷のごとき♮が瞬時に♭を打ち消し、再び#が世界を塗り潰した。
"
俺は「夜」を描く。ここは静かで切ない夜だ。音形は冒頭と同じだが情景は全く違う。
吹き荒れる十六分音符は嵐でなく踊り子だ。跳ねたり回ったりして激しくかつ優美に舞う。幻想的な湖と満月を背にして。
俺にはそんな光景が見えるし、そんな光景を魅せたい。
ああ、切ない。息苦しい。一小節弾くごとに胸を切られるようだ。
激情に圧されて音がいつも以上に大胆になっているのがわかる。いけない、音はもっと大事にしなくちゃあ。
自己満足ではいけないと先生も言っていたから。……いや、最後の演奏くらい、自己満足でもいいよな?
うねる波。口許が緩む。俺は今、ここにいる全ての人間の心臓を握っている。何もかも自由自在だ。
ほら来た。
登って登って登って登って登って登って……落ちるぞ――……ほら――……っ、堕ちる――――!
軽やかに、かつ重く、圧倒的な熱量で、絡め取った臓腑を滅茶苦茶に叩きつけてやる。
哄笑が溢れた。構わない。どうせ誰も聞いちゃいない。
この曲のクライマックスは、俺の人生のクライマックスだ。
やつの腿には雨かってぐらい水滴がぽたぽた落ちている。すまないな。
切実な情感が寄せては返す。美麗に、荒々しく。
どうしようもなく震えてしまう音に、俺は刹那反省した。その震えはやつの手に溜まった疲労のせいばかりではないだろう。
……少しずつ鎮めていく。
踊り子は不在になり、静かなる水際のみを残して。
俺は笑いを収めてゆっくりと手を抜いた。
あとはこいつに締めくくってほしい。
一瞬だけ、ほんの一瞬かくんと力を失った手。しかし演奏を止めはしない。はは、律儀なやつだ。
右手は
右手が織り出すあえかな波の寄せ返し。湖のほんの水際、透明な月の光を湛えた水面。
そこへ世界を超えた深い場所から響いてくる低音。あの幻想に呼応する歌。
ただ一心に満たされている。
魂の安んずる所。
――
還るべき安息の色をした
音が完全に消えるまで。
世界は無だった。
〝すまなかったな〟
塑像のように固まったままのやつを抱き締めて、呟く。
これで俺はつまらない天才たちの仲間入りだ。
誰かが一発手を叩いた。
誘われて、拍手が起こる。
ゆがて嵐が会場を包む。
〝ほら、立て〟
聞こえているのかいないのか。
あいつはよろよろと立ち上がる。濡れた顔を袖で拭って、丁寧に礼をした。
俺も隣でお辞儀をした。優雅に。誰にも見えていないとしても。
俺とお前の最後の共演。
〝ありがとう。楽しかったよ〟
案の定お前はひどい顔をしたまま振り向かない。当たり前だ。俺のことは見えないし、聞こえないんだから。
ふと見回すと入り口の近くにあの子がいた。その目は確かに俺の顔を射貫いている。
俺がにやりと笑って見せると、赤くなった目を見開いてたじろいだ。
さて、冥土の土産は十分だ。
俺はそっと目元を拭うと、そろそろ天国とやらに旅立とうと、両手を天にのばした。
葬送曲 藤堂こゆ @Koyu_tomato
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