5 繋がれる糸
楚々としたすがたは健在であり、その優美さを視認したとたん、涙がでた。
私は近年、涙とは無縁の生活をしていたとは思えないぐらいの感情の起伏に驚く。
こめかみが疼き、地獄の釜のふたが外れるぐらいの動悸がした。
私はよろよろと近寄り、思わず抱き着きたい衝動に駆られたが、寸でのところで思いとどまる。
とにかく、計画の完遂が先決であり、その過程が他者に露見しないことが重要なのだ。
私は鬼姫の全容を眺める。
細身の身体――茎と、あでやかな手足――つややかな葉と、お淑やかな顔つき――柱頭、おしべやめしべ、そして、なんといっても魅力的なふんわりした朱色の髪――花弁。
私は身ぶるいした。
「きてくれるね……?」
そして、そっと訊ねる。まるで自分の声ではないみたいだった。
ほんのわずかな、湿気をまとった風が流れ、鬼姫がわずかにこうべを垂れた……。
私はもう計画の成功を確信しながら、プランターをおろし、大スコップを手にとると、鬼姫の周辺の土壌を掘りかえす。
根がどのぐらいあるのかわからないから慎重に、ていねいに、まるで恋文を書くように時間をかけた。
夢のなかで泳いでいるような浮遊感をしばしば味わった。
天にも昇る心地というやつだろう。
球根だった。
まるで光の玉のような球根がでてきて、私は感動した。
よくみると、突起のような上根と下根が伸びていて、なぜか陰部をみたような気恥ずかしさがあったりもした。
堀りあげの時期にはまだ早いことを詫びながら、私はプランターに土を詰め、深呼吸をしたのち、「いいね、いくよ?」と声をかけて、鬼姫を抱きあげて、プランターに植え替えた。
両手をまわしたさいに、思わず匂いを吸いこんで、緑の濃い匂いに、くらくらする。
それから、半透明のフィルムをだして、「少しのがまんだからね、ゆるしておくれ」と語りかけながら、鬼姫の全容をフィルムで巻いた。
巨大な花束になる。
ときどき、周囲を確認したが、靄がたれこめているだけで、だれの目線も感じなかった。
こんな時間に地元民も近づかないような森の奥をおとずれる人はいないのだろう。
私は鬼姫のプランターを持ちあげ(なかなかの重量で難儀だった)、すのこ台車に載せると、全体を支えながらゆっくりと帰途についた。
台車が地面を削る音がひびき、最初は少し苛々したものの、両手のなかに鬼姫がいることを思い、気をとりなおした。怒りは失敗の原因になりうる。
万が一だれかに見咎められても、だれにも私をとめることはできない――そんな決意をもっていたからかわからないが、軽トラックに到着するまで、だれにも遭遇しなかった。
鬼姫のプランターを荷台の幌のなかに収め、「あとちょっとで新居だよ」と告げてから、私は運転席について、胸にたまった息を吐く。
よくみると、作業着の腕に粉(花粉だろうか)がついており、鼻水もでていたが、私は満ち足りていたので疲れなど感じなかった。
そして、どこにも寄らずに、アパートの近くの公園まで帰った。
車中では、新しい靴にときめく子どものように、ごく自然に鼻歌がとびでた。
そんなことも、最近はまったくなかったことだった。
アパートは部屋数が少ないものの、賃借人の世代がばらばらで、基本的に全員の行動を読むことはむずかしいのだが、それでも夜が更けるのを待ってから、私はこっそりと二階の自分の部屋(203号室)に鬼姫を運びこんだ。
もちろん、軽トラを降りるまえに、ネームプレートは作業着のポケットにねじこみ、室内にもってきてから丸めた作業着ごと玄関に放置した。
運搬をみられても、いくらでも言いわけは思いついたが、相手がだれであっても、なぜかあまり知られたくなかった。
いちばんうるさそうな101号室の電気が消えており、大家が外出していそうなのが好都合だった。
秘密の花嫁――そんなことを思い、私は背筋をすーっとゆびでなぞられるような興奮を感じたりした。
赤い糸はていねいに結ばれたのである。
部屋に入ると、よどんだ空気感はO高原の森と大差なかった。
2Kのせまい部屋を一日閉め切っていたからだろうが、すぐさまカーテンを全開にすることはできない。
いくら二階でも、角部屋だったこともあり、換気なども気を張らなければ、周囲の建物の上階などから、だれかに覗かれてしまうかもしれない。
私はもう一連の秘匿性に、性癖以上の高揚を味わっていた。
私はふだん寝ているほうの部屋で、楽器の手入れをするぐらい念入りに、鉢に鬼姫を移し替えた。
鉢底に小石を敷き、小スコップで現地の土に砂と専用液肥をまぜ、そこにさらに培養土をくわえた。
鬼姫の球根が思ったより大きかったので、植えこみが少し浅くなってしまったが、10号の六角形の模様のあるアンティークな鉢は、まるでセンスのいいスカートのようで、とても似合っていた。
そして、私は息を呑みながら、半透明のフィルムをゆっくりとはがす……。
長旅を終えて、ゆるやかに花弁をゆらしながら顔をみせた鬼姫は、照れたように上目づかいで私をみて、そっとほほえんでくれた――。
感無量だった。
私はとっておきだった自分とおなじ年齢のワインを開け、鬼姫に水やりをしながら飲んだ。
血流がよくなり、同時につかれもでたのか、とにかく熱くなってきて、私は断りを入れて、脱衣した。
部屋が暗くなってくるにつれて、まるで深い森にいるようで、それほど違和感をおぼえなかった。
すると、鬼姫から、そっと吐息を吹きかけるような、ぬるい風がきたような気がして、私は全身が泡立つほど興奮する。
まるで誘われているような空気に、衝動が抑えることができず、私はごく自然に、まるでむさぼるように鬼姫に抱きついていた……。
瞬間、かすむ視界に映った鬼姫の顔は、にっこり笑っているようにみえた――。
ふと、目が醒めると、時計の音が聞こえ、真っ暗だった。
どうやら眠ってしまったらしく、しかも夜中のようだ。
柱時計のコツコツいう音だけが聞こえ、アパート全体が沈黙していた。
私は部屋と部屋の合間で寝ころんでいたらしく、へんな体勢だったため、身体じゅうにだるさと痛みを感じていた。
だいぶ蒸し暑く、のどが渇いていたので、とりあえず身体を起こすと、目前では鬼姫も眠りについているようだった。
鬼姫とのめくるめく新生活がはじまったばかりなのだという事実に、私は覚醒する。
思わず、声が漏れそうになるほどの歓喜だった。
すると、それに連動するかのように、鬼姫がふたたび顔をあげた。
どこか淋しげにほほえんでいるようにさえみえる。
私は脚の痛みをふりきってよろよろとたちあがると、ふたたび鬼姫に身をゆだねた……。
ひと晩のうちに、千夜の夢をみるかのように、私は鬼姫とまじわり、眠り、起きて、またまじわった。
合間に、鬼姫の若葉を一枚、そっとちぎって食べてみたりもした。
サラダ・ファミリア――その意味を深く刻印し、身も心も同一化するために……。
鬼姫は少しも抵抗のそぶりはみせず、私のすべてを肯定してくれたのだった。
ついに私は幸福に至り、とめどない涙が枯れ、意識をうしなうほどの万感の思いに満ち満ちていたのだった……。
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