4 忍ばせた欲

「永野さん――?」


 職場のパートに声をかけられたのだが、私はもう鬼姫のことがあたまから離れない状態だったので、神妙な声音に少し驚き、顔をあげると、パートが笑う。


「めずらしいわね、永野さんが……もう3回も呼んだんですけど」


「ああ、すみません――」


 下手ないいわけはしない。

 邪推されてもこまる。

 噂というのは、羽虫のようについてまわるのだ。

 

 О高原から帰ってきて、時間とともに徐々に熱も冷めるかと思いきや、私はむしろ、日常生活に支障をきたすほど鬼姫が気がかりになっていた。


 昨夜は書店で観葉植物の雑誌を購入して、紙ぶくろに入れてもらったものの、帰ってきて取りだして、なにも考えずに雑誌のほうをゴミ箱に放りこんでしまったほどだ。


 私は今後に必要な作業だけ済ませて、体調がすぐれないという定番の理由で早退した。

 じっさい都合よく、ふだんあまりない鼻水がでていることもあった。


 アパートまでもどると、門構えに大家――気難しい老人がいたので会釈をすると、「こんな時間にめずらしいね。早退かい。具合でもわるいのかね?」と声をかけてきた。


「ええ、少々風邪気味で……」


「永野さんが? へぇ……そういうのに人一倍、気を使ってそうなのにな」


 長年大家を務めているだけあって、この老人には人の観察に関する経験則がそこそこ培われている。

 じっさい、私は独り暮らしを初めてから、折り目ただしい生活をしていたこともあり、ほぼ医者いらずだったのだ。


「ええ、油断しましたね」


 私はほほえむ。

 大家は口もとだけほころばせる。

 頬の日焼けのシミがぐにゃりと曲がる。


「いまの借主では、あんたぐらいだからな、まともなのは」


 まともというのは、アパート入口の掲示板で承知しているが、要するに、滞納がない、という意味である。

 この大家は、家賃の滞納者をわざわざ掲示板に貼りだすのだ。


「学生の坊主は夜中も騒がしいし、会社をすぐ辞めちまうふにゃふにゃした根暗もいるし、ふわふわした能天気な女もいるし、そのほかどいつもこいつも、基本的にこまったもんだよ。人間はどんどんだめになってる気がするわ」


 私は微笑で応じる。


 先日、大家主催の住人会議がもたれ、物価もろもろに準じて家賃を引きあげる提案がなされたが、永野一樹(私のことである)を除いた全員が大反対を示したので、つまるところ大家は私以外の全員を疎んでいるところがあるのだ。


 私は波風をたてないために反対しなかったのだが、どうせ私が声をあげなくとも、そんなに大家に都合がよく事がはこぶとは思わなかっただけである。


 しかし、それどころではないので、適当に切りあげて部屋にもどる。


 私はカーテンを閉め、ややうす暗い部屋のなかで、いろいろと思案した。

 そして、結論として、計画を実行に移すことを決意したのだった。


 計画とは、鬼姫を私の部屋に連れてくることである。


 コオニユリの花言葉に「情熱」があるのだという。

 鬼姫と私との関係性を表す言葉があるとしたら、まさに、それしかないではないか!


 翌日私は、職場に体調不良の悪化という仮病を報告すると、急いで行動を開始した。


 まず、ふだんとはちがうレンタカーの店に赴き、軽トラを借りるとホームセンターに乗りつけ、作業着、幌シート、半透明のフィルム、大小のスコップ、矩形プランター、すのこ台車、培養土、小石と砂と専用液肥、10号のおしゃれな鉢を購入し、荷台に放りこんだ。


 そして、喫茶店によってコーヒーを飲みながら、脳内でイメージを反芻する。


 とにかく、鬼姫と再会し、連れ去るのだ――私にはもう、それしか選択がなかった。

 まるで前世とつながったような使命感だった。


 いかんせん軽トラックだから、途中で警察や住民や、そのほかもろもろの邪魔者が現れた場合に備えて、作業着に着替え、昨日仕事をするふりをして用意した架空の青果卸売会社の偽名のネームプレートを頸からさげた。

 奇しくも、コオニユリは食用に適する点でも都合がいい。

 

 無論、照会などされればバレてしまう嘘だが、そこまでされるようなら抵抗するまでだ。

 だれしも、失った初恋をとりもどすことができるのだとしたら、そのぐらいの覚悟が生まれるだろう。


 会社の名称は、偶然雑誌で記事をみたサグラダ・ファミリアから拝借し、「合同会社サラダ・ファミリア」にした。


 そう、私にとって、鬼姫はもう家族だったのだ――。


 平日だったせいもあり、高速道路も、△〇県に入ってからの国道も空いていた。

 運転に慣れていない軽トラのサスペンションは乗り心地もわるく、荷台の物音もふくめて、私に不安をおぼえさせるものだったが、鬼姫との再会やその後のシミュレーションなどしていると、気づけばО高原に入っていた。

 夢うつつとはまさにそういうことだろう。


 舗装路の途切れる登山道入り口までくると、私は迷うことなく路上駐車し、プランターにフィルム、すのこ台車とスコップを入れ、それを担ぐと出発した。


 みずからの足音だけが聞こえ、頭上をとんびが旋回する、平和な秋晴れだった。


 いわゆる行楽シーズンだが、登山道には老若問わずハイカーも地元民もおらず、視界が開けても私だけの世界だった。


 歳をかさねるほど、結果より過程、過程より想像を愉しむようになるが、私は結果になによりも期待し、興奮していた。

 今後の人生でも、そんなことはもう決して起こるまいと確信していた。


 そして、はずむ息とともに当該地に到着した。

 道には迷わなかった。覚醒した私は、考えるよりもさきに行動し、夢想状態のまま歩きつづけ、それがまちがっていなかったのである。


 のどが鳴る……。

 まだ昼間だというのに、鬱蒼たる樹々のせいで、暗がりがひろがっている。

 記憶に残っている邂逅の地、そのものだった。


 気持ちが昂っていたが、なぜか沼のなかを歩んでいるかのように、さきを急ぐことはできそうもなかった。

 

 舌がのどに張りついてしまったかのように動かず、声もだせない。

 

 叫び声をあげることもできないだろう。

 叫び声……なんのことだ――?


 そして、すべての感覚がぼんやりしてくると――視界が靄で覆われてくる。


 こんな日の高いときに靄がでるのか……私は疑問に思ったが、すぐにどうでもよくなった。


 背が高めのコオニユリがちらほら、目前でゆれていたからだ……。


 ここが常夜の国だとしても、私は躊躇なく、足を踏み入れるだろう。


 そして、私は――刹那にして、なにもかもがどうでもよくなる。

 鬼姫との再会を果たしたのである。

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