第10話 Sugar Baby Love

 運命には起伏があるなんて言う人がいる。


 人生悪い時ばかりではない。

だからといって良い時ばかりではない。

悪い時が重なっても、すぐに運命というものは上向くし、良い事が重なって起こる時には落とし穴のように悪い事が待ち受けている、かもしれない。


 人生山あり谷あり、人間万事塞翁が馬、禍福は糾える縄の如し。


 だから悪い事にばかり注目しても仕方がない。

良い事に注目して悪い事からは目を反らす。

それが人生を楽しむコツだとそういう人たちは言う。

少なくとも成功者の多くはそういう人たちだと。


 だけど僕は思うんだ。

良い時って何だ?って。

世の中に起きる事って大半は良い事でも悪い事でも無い普通の事で、そこにほんの少しの良い事と、どうしようもなく悪い事がそれよりも多く起きるってだけなんじゃないかって。

その普通の事が限りなく悪い事な人だっているんだぞと声を大にして言いたい。


 あの美しい女性にまた出会えた。

名前が常盤真智さんだと知る事もできた。

これは本当に良い事だったと声を大にして言える。

なんなら今日の出来事は、僕のこれまでの人生の中でも堂々の一位と言っても過言ではないだろう。

だけど、短かすぎるんだよ……


 人生山あり谷あり?

福の山の斜面が鋭角すぎるんだよ。

禍の谷なんて底なし沼のくせに。




 傷心という感情すら湧かない。

チャレンジして初めて買った食べ物が美味しかった。

その程度の感情しか湧いていない。


 いつもの感じだとこういう時に夕飯で冒険すると大失敗する。

そう思っていつものパン屋さんの扉をくぐった。


 いつものサンドイッチコーナーに足を運ぶのだが、明らかに数が少ない。

第一希望のたまごサンドは売り切れ。

第二希望のBLTサンドも無し。

ハムサンドもカツサンドも無い。

何でこういう時に限って、いつも手を出さないアボカドオーロラサンドとか、みかんとシュリンプのサワーサンドとか、あんこと生クリームのサンドなんてものしか無いのだろう。

エビはアレルギーで食べられないし、夕飯に甘食もどうかと思うので、そうなるとアボカド一択じゃないか。

しかも地味に高い。



 家に帰る途上、軽快なメロディーが脳裏をよぎった。

あんなほんの一瞬の出来事なのに、真智さんとの出会いは僕の中では浮かれるほどの大事件だったらしい。

あんな唐突な別れ方をしたのに。

曲の最初の絶叫のような部分を思い出したのだが曲名が思い出せない。


 真智さんが図書館で髪を少しかき上げた姿が脳裏をよぎる。

自然と思い出したメロディーが鼻歌となって口をつく。


 家に着く寸前に曲名を思い出した。

『シュガー・ベイビー・ラブ』

その場で検索してみるとザ・ルベッツというバンドの曲らしい。


 何となく気分が高揚しているらしい。

別れのシーンは片隅へ。

代わりに出会いのシーンをリフレイン。


 一瞬やはり別れのシーンを再生してしまう。

僕の言葉の何が彼女から笑顔を奪ってしまったのだろう。

でもそんな事考えてもしょうがない。

無理やり常盤さんが嬉しそうに小説の内容を語っていた楽しそうな顔を思い出す。

僕の中の常盤さんはその笑顔のままで良いじゃないか。



 鼻歌を歌いながら家に帰り、真っ暗な部屋に明かりを灯した。


 その時、何かが視界の端に入った気がした。


 それは小さな光のようなもの。

フェアリー・ケージを模した水槽の中に本当に小さな何かが光っている。

光っているというのは表現として正しくないかもしれない。

周囲とは明らかに色の異なる何かが、部屋の明かりに映し出されたというのが正しいかもしれない。


 薄黄色の何か。

小指の爪ほどの何か。

目を凝らしてよく見てみると、尾の長い胎児のように見える。

それが竜胆の葉の下に隠れるように浮いている。


 目を閉じていて眠っているように見える。

両手は何かを掴むように震わせている。

時折口を小刻みに動かしている。


 何と可愛い存在なのだろう。

思わず無言でその存在をじっと凝視してしまう。


「ふぇ……」


 何か喋った!

可愛い!

なんだこの可愛い存在は!


 触る事はできないかとケージの中に手を入れてみる。

その胎児のような何かに指を近づける。


「ふ……ふぇぇ……」


 あ、泣いちゃった……


 そうだ!

確かあのゲーム内でも妖精に曲を聴かせる事で育成したんだっけ。

何か子守歌のようなものを歌ってあげないと。

でも、何が良いんだろう?


 もしかしてさっき口ずさんでいた『シュガー・ベイビー・ラブ』が良かったのだろうか?


「ふ……」


 鼻歌に合わせてふわふわと浮遊する胎児のような何か。

何か仮に名前を付けてあげた方が良い気がする。

ここはなるべく可愛い名前を付けてあげないと。


 狭い部屋の中をぐるぐると歩き回る。

ベッドに腰かけたり、床に座り直したり。

あっちをキョロキョロ、こっちをキョロキョロ。


 そんな風にしていると、とある名前が脳裏に浮かんだ。


『アイグレ』


 それが元々何の名前かは忘れた。

だけどゲームか何かで出て来た妖精の名前だったはず。


「アイグレ。君の名前だよ。気に入ってくれると良いな」


 アイグレは口を小刻みに動かしている。

目は閉じたまま。

両手を握りしめ、ぷるぷると震わせている。

声は発していないように感じる。

もしかして寝言を言っているのだろうか?

なんという可愛い仕草なんだろう。


 明るすぎると寝れないかもしれない。

そう思って何枚かのバスタオルで水槽をくるんであげた。

いづれ専用の布を買ってきた方が良いかもしれない。


「おやすみ、アイグレ。また明日会おうね……」



 ……本当に妖精が召喚できてしまった。

遅ればせながら、驚きの感情が込み上げてきた。

これからこの誰も待つ事のなかった部屋に帰りを待ってくれる存在ができたのだ。

会社で何があろうとも、これからはアイグレが僕の帰りを待っててくれるんだ。


 案の定買ったサンドイッチは美味しくなかった。

具がアボカドだけでどうにも食べた気にもならない。

けど、今はそんな事はどうだって良い!

これからはアイグレのために仕事を頑張るんだ。

いつまでもアイグレを育てられるように僕も頑張るんだ。

僕はアイグレのお父さんなのだから。



 翌朝、バスタオルをどけてみると、アイグレはまだ昨日と同じように目を閉じて口元と両手を動かして寝ていた。

時折寝息なのか寝言なのか声を発する。


「ふぇ……」


 もしかして、行ってらっしゃいと言ってくれているのだろうか?

本当に可愛い!

このまま一日中見ていたい気分だ。

だけどそんなわけにはいかない。

だって僕はアイグレのお父さんなのだから。


 何だか今日は仕事も頑張れそうな気がする!

アイグレの水槽にまたバスタオルをかけて少し暗くしてあげる。

何となく後ろ髪引かれるような気分にもなる。

だが一歩家を出ればその足取りはどこかいつもより軽い!


 アイグレが僕の帰りを待っている。

そう考えるだけで、どんな辛い事だって我慢できる。

一人の昼食だって寂しくはない。

だって瞼を閉じればアイグレの寝姿を思い出せるのだから。

何だか仕事の終業時間も早く感じる。


 これが、一人じゃないという喜びなのだろう。

世のお父さんたちはきっとこんな気分なのだろう。



”何でお前みたいなのを部下に持たないといけないんだろうな。本当についてないよ俺は。出世に響いたら一生恨んでやるからな”



 帰りにパン屋に寄りツナサンドを購入。

弾むような足取りで家に帰った。

アイグレ、今帰るからね。



 家に帰った僕を待っていたのは、やはりというような光景だった。


 僕の良い時っていうのはいつも短かすぎるんだよ……

山の斜面が峻厳すぎるんだよ。

だから悪い時ばかりみたいに感じてしまうんだよ。

せめて良い時の後に普通の時を挟んで欲しいんだ。

何でいつも良い時のすぐ後が悪い時なんだよ。


 見間違いか見落としであって欲しい。

そう強く願って水槽の中を凝視した。



 だがいくら探しても水槽の中にアイグレはいなかったのだった。

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