第9話 Surfin’ USA

「あの、もしよろしかったら、何か飲みに行きませんか?」


 ダメで元々。

忙しいと言われたら憧れのままで思い出としてしまっておこう。

元々高嶺の花なのだから。

そんな言い訳を心の中で何遍もして彼女の返答を待った。


 目の前の女性は軽く唇を噛み、僕から目を反らす。


 静寂が怖い。

気持ち悪いと思われたのだろうか。

どうやったら傷つけずに断れるか考えているのだろうか。

掌にじっとりと汗をかくのを感じる。

ただでさえ早い鼓動が余計に早さを増していくのを感じる。


 考えてみれば女の子を何かに誘うなんてこれまで全く経験が無い。

そんな僕がこんな綺麗な人をまともにエスコートなどできるはずもないのに。

どうしてこんな事を言ってしまったのだろう。

断られるくらいなら顔見知りのままでいる方が良かった。


 女性はちらりとこちらを見て少しだけ眉を寄せた。

その長い髪を美しい指で右の耳にかける。


「知ってました? 先週前の通りにカフェがオープンしたんですよ。ずっと行ってみたいって思っていたんですよね。でも一人じゃなかなか行く勇気がわかなくって。そこに行ってみませんか?」


 極上の風鈴の音のような透き通る声。

グレープフルーツのような、シトラスのような、爽やかで甘い香りのする風が風鈴の音のような声と共に僕の心を吹き抜けていった。

一体僕は今どんな顔をしているのだろう?

信じられない。

信じられない。


 女性は口角を少し上げて首を少し傾げた。

傾げた方に髪がさらりと揺れる。


「あの、もし他のお店を想定していたのでしたら、そちらで構いませんよ?」


 彼女は優しい笑顔を僕に向けた。

今のはどういう意味なんだろう?

頭の中が詰まっているのか空いているのかわからないが、とにかく思考力が極端に落ちている。

どうですかと再度問われ、やっとお店の選択で悩んでいると思われたという事に気が付いた。


「あ、はい! その店に行ってみましょう!」


 良かった。

彼女はそう囁くように言うと、本を本棚に返しに行った。



 二人で図書館を後にする。

彼女が先に行き、その数歩後を僕が行く。

まるで姫と従者のよう。

だけどそれで良い。

これが自然な距離だし、少し心地の良さのようなものも感じる。


 彼女は少し不安げな顔をし僕の方をちらりと見る。

緩んだ顔の僕を見て口元を緩める。

彼女はわざと歩みを緩めて僕の隣を歩いた。


「あそこに見える店なんですよ。ずっと気になってたんですよね」


 そう言って彼女は少し遠くの店を指差した。

僕の左手を歩く彼女は、まるでショーケースのマネキンのような綺麗な服に小さな鞄を肩から下げて弾むように歩いている。


 拳四つ分。

それが今の距離。

こんなに近くにこんなに綺麗な女性がいる。



”ねえ、今あの人私の事見てた。きっもっ。変質者かも。最悪”



 今、僕の心はこの水色に輝く大空のように澄んでいる。

不釣り合いな事は百も承知。

周囲から指を差されて蔑まれても今は気にしない。

もしも彼女の狙いが僕の財産だとしても、今、この時を過ごさせてもらったというだけで許せてしまいそうだ。



「あ、ここは僕が出しますよ。誘ったの僕ですから」


 ごちそうさまです。

彼女ははにかみながら囁くように言った。



「私、常盤ときわ真智まちって言います」


 席に着き、注文したウィンナーコーヒーを一口飲むと彼女はそう言った。

真の智慧で『まち』。

常盤さんはそう自分の名前を説明した。


「僕、名越なごえ貫之つらゆきです」


 名越さんって言うんだ。

常盤さんは何がおかしいのか口元に手を置きくすくすと笑い出した。



 そこから常盤さんは自分の話をし始めた。

近所の大学の文学部に通う四年生なのだそうだ。

今就職活動で忙しいようで、バイトもしなければならず中々に忙しいらしい。

実は趣味で小説を書いているのだそうで、そのネタになりそうな話が無いかと足しげく図書館に通っているらしい。

そんな折、例の不思議な文字が目に入ったようで、実は横目でちらちらと見ていたそうなのだ。


 ……全く気付かなかったが。


 どうやらあの不思議な文字は彼女の創作意欲をかなりかき立てたらしく、それをネタに一本長編作品を書き上げたのだそうだ。


 ――主人公の少年が偶然町で買った骨董の杯に書かれた文字が古代文字で、それを解読したら古代魔法が使えるようになった。

その古代魔法を駆使して街の危機を救う主人公。

襲い来る魔族とその眷属をも古代魔法で退治し、街の英雄となって貴族の女性と結婚する。


 貴族の女性とは非常に仲睦まじく子も設けた。

その間も、何度も何度も古代魔法によって街の危機を救う主人公。

だが古代魔法を使う度に主人公はやせ細っていく。

ついには主人公は『リッツィ』という骨の化け物になってしまったのだった。


 妻子を捨て街から逃れて森の中に小さな城を建て一人寂しく過ごす主人公。

時は流れて、討伐隊が化け物退治だといって城にやってきた。

その討伐隊の指揮を執る若者に主人公は涙を流した。

その若者はかつて自分が捨てた我が子だったのだ。

その事は明かさずお前の母に渡せと言って胸のペンダントを渡す。

胸の奥のぼんやりと光るコアを剣で突き主人公は消滅した――



 その古代文字の描写で、あの不思議な文字のようにルーン文字のような記号を漢字のように組んだ文字というイメージを書いたのだそうだ。


 あの後、常盤さんが図書館に現れなくなったのは、どうやら小説を書いていたかららしい。

そこまで評判が良いわけでは無いそうだが、本人としてはこれまでで一番書いていて楽しい作品だったのだそうだ。


「じゃあ、もしかしたらその作品、後々人気が出るかもしれませんね。筆者が楽しんで書いてる作品って読み手にも伝わりますもんね。やっぱり何事も楽しんでやらないと良い結果なんて出ませんもんね」


 あれ?

僕は何か変な事を言ってしまったのだろうか?

常盤さんがきょとんとした顔でこちらをじっと見つめている。



 常盤さんが黙ってしまったせいで店内に流れるBGMが大ボリュームで鳴り響いているように感じる。

『サーフィン・USA』

ビーチボーイズの非常に有名な曲。

その曲に合わせるかのように胸の鼓動が早まっていくのを感じる。



 おかしい。

先ほどまで彼女の話を聞いていた時の僕の心は、この曲のように今にでも海原に繰り出そうというくらい弾んでいたのに。

ついさっきまで常盤さんと二人で同じ波に乗っていたと思っていたのに。

今はまるで気が付いたら遠くの沖に流されていたかのように焦燥感で一杯になっている。

背に一筋冷たい汗が流れるのを感じる。


「その通りかもしれませんね……楽しんでやる事って一番重要な事ですよね……」


 この反応。

間違いなく僕は常盤さんにとって何かマズい事を言ってしまった。

僕は一体何を言ってしまったんだろう。

わからない……


「ごめんなさい。あの……私、ちょっと用事を思い出したので、この辺で失礼させてもらいますね。コーヒーご馳走さまでした」


 ぺこりと小さく頭を下げ、常盤さんは僕に背を向けた。

鞄を肩にかけると、まるで逃げ出すように店を出て行った。

こちらを一瞥すらしてくれない。


 明らかに曇った表情。

最悪だ。

つい先ほどまで、あんなに楽しくおしゃべりしてたように思ったのに。


 主のいなくなった椅子をじっと見つめる。

空になったコーヒーカップが、そこに先ほどまで誰かがいたことを周囲からも察せられてしまう。


 僕の発言の何がそんなに気に入らなかったのだろう?


 考えてみたら僕はここまでほとんど何も喋っていなかった。

一方的に彼女が自分の事を喋っていただけだった。

僕はそれに相槌を打って聞いていただけだった。

初めて会話のような事を口にしたら帰られてしまったのだ。


 きっともう次は無いんだろう。

そうじゃないな。

ここはそうじゃない。


「楽しい時間をありがとう……」


 誰もいない席にそう語りかけて、残ったコーヒーを飲み干した。

何だかいつもよりコーヒーが苦く感じる気がする。

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