第8話 Take on Me
肌を刺すような厳しい寒さはなりをひそめ、少しづつ穏やかな日差しが戻って来た。
たまに暗灰色の雲が街を白く染め静寂に包む日もあるにはあるが、数日だけのちょっとしたイベントのようなものである。
あれから別の駅で違う会社のホームセンターを見つけている。
そちらのホームセンターにも淡水魚のコーナーがあり、不思議な形の水槽が売られていたりビオトーブ用の草花が売られたりしているコーナーがあった。
二つのホームセンターを交互に足を運ぶのが最近の最大の楽しみとなっている。
ある意味お金のかからない水族館感覚なのだ。
少し穏やかなある日の事であった。
暖かくなったからであろうか。
ホテイアオイやマツモが店先にならんでいる。
メダカの飼育セットなんてものも出始めている。
最近では新たに沼エビも売られ始めている。
ポップに書かれた紹介文によると水槽のゴミ掃除に役立つのだとか。
その中に『ヒンジモ』という非常に小さな浮草が展示販売されていた。
小さな葉がまるで筏のように広がっていく水草である。
ヒンジモの葉はスプーンのように縦に長い楕円をしている。
その葉から別の葉が生えるという独特な生態をしている。
その中の一枚。
たった一枚だけであったが、まん丸の葉が生えていた。
その一枚を見てまさかと思った。
フェアリー・ケージのゲーム内に出てくる『カエルノザ』という水草にそっくりだったのだ。
この『カエルノザ』は、水の精霊が休憩する椅子として使っている草である。
ゲーム内では、これを植えておかないと水の精霊の疲労が蓄積してしまうという存在であった。
これを植える事で何かが起こるんじゃないか。
何となくだが、そんな予感を強く覚え即座に購入を決めた。
……決めたといっても他のヒンジモとセットで三十円程度なのだが。
家に帰りさっそくカエルノザだけを水槽の中の水の上に浮かべてみる。
これまでのシバアオイだけと異なり、ほんのちょっぴりだが華やかな雰囲気になった気がする。
実は最近、もう一つ水槽を用意していたりする。
こちらにも例の不思議な文字を書いた紙を底に敷いている。
砂利を入れ水を張っているのも最初のケージと変わらない。
変わっているのは今回のヒンジモのように、ゲームには出ない草花を植えているという点である。
近所に生えている雑草を少しづつ持って来て水槽の中に植えてみているのだ。
不思議な事に枯れる草と枯れない草がある。
枯れる草は本当に数日で何かを吸い取られるかのように枯れ、いつのまにか無くなってしまう。
一方で枯れない草はそのままの状態を保ち続けている。
おそらく、枯れない草は妖精の育成に使用できる植物という事になるのだと思われる。
ただ、これまで枯れなかった植物はわずか二種のみ。
青い花が綺麗な『竜胆』と、色々な場所に生えている『野芝』だけ。
あの時、熱帯魚屋のおじさんは水辺に植えておけばシバアオイは勝手に増えると言っていた。
雑草の一種だからと。
だが、ここまで水槽内のシバアオイは成長もしなければ増えもしていない。
まるでこの水槽の中の時が止まってしまっているかのようである。
”ミスするくらいなら手を動かさないでもらえるかな? 修正したってミスはミスなんだからな?”
そこから二週間が経過した。
どうやらフェアリー・ケージに合う五つ目の植物を見つけたらしい。
ヒンジモが枯れずにケージ内で存在し続けている。
そこでふと何かに気付く。
もしかして、あの不思議な文字を下に敷いているせいで水槽の中が特殊な空間になってしまっているのではないだろうか?
だとしたら、別の水槽を用意して、そこでシバアオイを育てないと自然には増えないという事になる。
シバアオイだけじゃない。
もしかしたらカエルノザを狙って増やす事ができるかも。
ただ逆に水槽から出した段階で成長して枯れてしまうかもしれない。
実際、熱帯魚屋から貰ったシバアオイは、家に持って帰る間にしおれてしまっていた。
可能性として考えられるのは三点。
季節の問題か管理の問題か、もしくはそれ以外の何か。
季節の問題なのであれば、あの時は寒くなる時期であり、今は暖かくなる時期だから問題無いかもしれない。
さらに言えば、あの時は水槽から出して家に持って行くまでかなり乾燥してしまったはず。
今ならすぐに同じような環境で育てられるだろうから問題無いかもしれない。
問題はそれ以外の何かしらの要因があった場合だが、少なくとも元の水槽に入れれば復活はするのだろうから、危ないようなら元の水槽に戻せば良いだろう。
週末、久々に図書館に出かけた。
あの日、あの女性に会ってから暫くは毎週のように図書館に足を運んだ。
だが結局あの女性に会う事は無かった。
何となく徐々に足が遠のき、気が付けば全く足を運ばなくなっていた。
前回と異なり今回は植物図鑑を手に席に着いた。
調べたいのはシバアオイの事である。
どのような気候を好むのかとか、どのように増やせば良いのか。
非常に分厚い植物図鑑を手にしたのだが、残念ながらシバアオイという項目自体無かった。
それだけじゃない。
カエルノザも記載が無い。
念のため別の植物図鑑に交換するのだが、やはりこちらにも記載は無かった。
似たような植物の記載はある。
例えばカエルノザに似たヒンジモのような。
もしかして新種の植物なのだろうか?
いや、今さら新種の植物などそうそうあるはずがない。
だとすれば、可能性としてもっとも高いのは別の名前が付けられている事だろう。
もしそうだとしたら、この分厚い植物図鑑をじっくり見ていかないといけない。
これはなかなかに骨の折れる作業である。
「今度は植物について調べてらっしゃるんですか?」
まるで高級な風鈴のような澄んだ声。
それでいて、何とも形容し難いどこか甘い余韻。
ゆっくりと声のする方に顔を向ける。
僕の心に『テイク・オン・ミー』が流れた。
アハというバンドの、あの軽快な音楽である。
「もうあの文字の研究は終わったんですか?」
胸のドキドキが止まらない。
バスドラムの定期的なリズムのように鼓動が僕を焦らせる。
驚き。
いや、それ以外の何かが胸のビートを早めている。
何か言わないと。
変な人に思われてしまう。
そんな思いがさらなる焦りを引き連れて来る。
「あ、はい!」
思わず裏返った声に、彼女はくすくすと目を細めて笑う。
前に見た時よりも髪が少し伸びているだろうか。
爪の装飾は前回と異なりかなりシンプルに薄い単色のみ。
少し甘酸っぱい香りがほんのりと漂っている。
「今回もゲームの関係での調べ物なんですか?」
なぜだろう。
いつもなら女性にこんな事を言われると、馬鹿にされているとか、蔑まれているように感じるのに。
彼女からはそんな感じを一切受けない。
彼女の言い方の問題なのだろか?
それとも僕の受け取り方の問題なのだろうか?
受け入れてもらえたという安堵感なのかもしれない。
「実は最近ビオトーブを始めたんです。それで調べ物をと」
素敵な趣味。
彼女はそう言ってまた目を細めて微笑んだ。
極上の白磁のごとく白く透き通る肌。
亜麻色の長く美しい髪。
まるで職人が作りだした芸術品のよう。
そんな芸術品が僕を見て微笑んでくれている。
その芸術品の中にいづれ来る春に乱れ咲く桜花のような薄い紅。
その唇から発せられる鈴の音のような凛とした透き通る声。
その綺麗な声はただ僕に向かってのみ放たれている。
素敵などと言われてもただただ照れるだけで、なんの言葉も出てこない。
ぽうと見惚れてしまって、いったい何を話せば良いのか。
そんな僕を見て彼女は口元に手を当て小悪魔のような表情でくすくすと笑う。
幸せだ。
この声がまた聴けて。
この笑顔がまた見れて。
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