41.男の異変
耳が痛くなるような炸裂音。
その直後に感じた違和感に自分の腕を見ると、そこにはある筈の腕が肘から先がなくなってしまっていた。
視線を先に移動させるとそこには自分の前腕が転がっている。
「──────あ、がぁぁぁあぁあああ!!」
自覚してようやく訪れる激痛は幸隆が今まで生きてきた中でも最も酷い物であった。
ナイフで刺された時よりも、銃弾に体を抜かれた時より、これは比べ物にならない程に苦痛だ。
片腕を急に失いバランスを崩して体が傾くも、どうにか踏ん張り立て直す。
「なに……しやがっ──────」
──────パァン
再び響く炸裂音に幸隆は耐えきれずに倒れ込む。
腕の断面を地面に擦りつけるようにして倒れた幸隆の苦悶の声が上がる。
幸隆は立ち上がろうとして利き足を立てるが、また転ぶ。
「は?」
足を見た。
「──────ぁぁぁぁああああああ!!」
激しい痛みと耐えがたい喪失感に襲われた幸隆は獣のように叫ぶ。
左腕の肘から先が千切れ、右足も膝から先が手元からなくなった。
四肢の内半分を失った人間が満足に立てるはずもなく、苦痛に体を悶えくねらせている。
それはまるで芋虫のようで滑稽にも見えた。
異常種が嗤う。
楽しそうに嗤い、幸隆の元まで歩いてくる。
異常種が幸隆を見下ろす。
苦痛に顔を歪ませ、脂汗を前面に滲ませる男の無様な姿が実に愉しい。
嗜虐性に顔を愉悦一杯にして嗤う異常種の姿は虫の脚を千切って遊ぶ子供の様だった。
「だのじいな」
異常種がうつ伏せに藻掻く幸隆を足蹴にしてひっくり返す。
幸隆の視界に残酷な表情を浮かべる醜い生き物の姿が映った。
「て、めぇ……っ」
「おどろいだ。まだぞんながおができるのが」
異常種の広げた手のひらに青い幾何学模様が浮かび上がる。
「なん、だよ、それ」
それの答えはすぐだった。
「──────うっ、ぐぅぅうう!!」
「まだだえるのが」
先の手足を失った時よりも強く痛みに堪える幸隆の様子に異常種が驚く。
失った右腕は今度は根元からだ。
それをこの男は絶叫を上げることなく歯を食いしばって耐えている。
気を失うことなくギリギリを歯ぎしりを走らせて、こちらを強く睨む。
異常種はふんっと、つまらない様子で腹を踏む。
下からくぐもった声が漏れ出る。
最後の脚を吹き飛ばしてもこいつの表情は変わらなさそうだ。
その強靭な精神性は驚愕するものだが、この異常種からすると面白い話ではなかった。
もっと他の事を試してみるか。
異常種は屈み、悪鬼の如く睨みつけてくる男の腹に手を刺し入れた。
「あっ、がっ、うぇ、いぎゃ……!!」
必死に耐えるもその表情は四肢を失った時よりも尚激しく苦痛に苛まれている。
しかし、耐えようとする姿に変わりはなく、その強い反抗心が消え失せることはない。
腹の中をまさぐり、幾つもの内臓を潰してかき回し、飽きた異常種が幸隆の身体を放り捨てる。
「ほん、どう……?うそ、どうして……」
意識を取り戻した杏が、幸隆のその見るも無残な姿を見て、唇を震わせた。
異常者がそれを見てなにかを思いついたように嫌な笑みを浮かべた。
幸隆のぼんやりとし始めた視界でもその憎たらしい顔がはっきりと分かった。
「おまえのめのまえであのおんなをおがずのもいいな」
「て…………め………………」
恨み言を罵詈雑言のようにぶつけたいが幸隆はもう声を出すのも限界だった。
それを見て、効果的だと感じた異常者が杏の方へと歩き始めた。
幸隆の中の何かが欠伸をかいた。
全身の痛みに目を覚ます。
思い通りに動かない身体の中で満足に動かせるのは精精が目玉くらいだ。
杏は樹に打ち付けた身体をそのままに何が起きたのか分からないままに状況を伺う。
何か強い力に襲われた彼女の身体は強固な素材で作られた弓を盾にしてどうにか五体満足のままだ。
ぼやけた視界が時間と共にクリアになっていく。
そして気付く。
どこか死ぬイメージの出来ないでたらめな男が一本の脚だけを残して、だるまのように倒れ伏している姿に。
腹に大穴を開けて、引っ張られた臓物が千切れ、破れ、散らかる残酷な惨状に。
胃が鷲掴みにされたような強い吐き気が杏を襲う。
「うっ……」
びちゃりと少量の内容物が返った。
はぁはぁと荒い息を繰り返し、目に映るもの全てを否定するが、それは視界から消えることもなければ、改善されることもない。
彼女の胸に後悔が去来した。
欲望に駆られ、一人でこの階層に挑んだことを。
あの馬鹿な男が自分の忠告を守って素直に休むはずがないと。
そうして彼女の単独行動に気付いた彼がどう動くのか、気付くべきだった。
杏の胸に去来した後悔は次第に大きくなり、それは懺悔に変わる。
「ごめ、なさ……ごめん、なさい」
うわ言のように繰り返される謝罪の言葉はしかしすべてが遅く、取返しのつかないもの。
またこうして自分は謝るしかできないのだと、彼女は大きな無力感に苛まれた。
異常種が杏を下卑た眼で見た。
その瞳が獣欲で濡れていることに彼女は気づく。
抵抗も虚しく、あの続きが行われるのだろう。
助けに来てくれた男の命を一つ犠牲にして、それでも時間を稼ぐだけに終わり、絶望に顔が曇る。
それは自身への危機からくるものではない。
慰み者にされるのが怖いのではない。
死ぬのが怖いのではない。
他人の命を犠牲にしてなお、何も変わらない、変えられない自身の無力さと愚かさに心が軋みあがるのだ。
異常種の顔が、杏のすぐ頭上にまでやってくる。
綻ぶ口角の端から涎が足らりと彼女の見上げた顔に掛かり、頬を伝う。
彼女の流す涙すら、醜い欲望が汚し呑み込む。
「……あ」
異常種の手が伸びる。
「いいがおだ。あいづにもみぜでやろう」
どこまでも醜く、どこまでも卑賎な感情しか持たない豚鬼の異常種が、綺麗なままの涙まで舌で掬い頬を汚す。
杏の様子に興奮した異常種が、股間をこれでもかと熱く滾らせた。
抵抗もできない杏を力任せに押し倒し、男物のジャージを破り捨てようと手に掛ける。
「い、や……っ」
杏が抵抗を見せた。
初めて見せた杏の抵抗に異常種が愉快に笑う。
裸を見られたくない訳ではない。
もう自分にはそんなことを恥じらう資格も尊厳も無くなっている。
しかしそれでもこの服だけは粗末に扱ってほしくなかった。
命を賭けて自分を助けに入ってくれた男の持ち物の中で唯一残った綺麗な持ち物だから。
「──────脱ぐ、からっ。自分、で、脱ぐから」
それを降伏宣言だと受け取った異常種は、羞恥に染まる杏のいじらしい素振りを鑑賞するようにその手を止めた。
チャックを降ろし、その下のぼろぼろの鎧とアンダーシャツが姿を見せる。
その二つは防具としての機能も衣服としての機能もほとんどない、みすぼらしいものであり、そこからまろび出るような女の柔肌は今の異常種にとってはむしゃぶりつきたくなるほどの果実に等しかった。
食欲にも似た獣欲が突沸のように沸いた。
「GGGAAAAAAAAAAAAAAA!!!」
人の言葉すら忘れた獣が吠える。
目を血走らせ、獲物を喰らいつくそうと涎をまき散らし、口を、舌を杏へと伸ばす。
甘い甘いその露に触れようとしたその瞬間。
──────ぞくり
異常種の背中を何かが撫でた。
空気の変容。
大質量の存在感。
それらを獣が持つ野生の勘が必死に警笛を鳴らし危険を知らせる。
伸ばせば一寸先、羊肉。
その僅かな隙間しか存在しない舌先は、そこでぴたりと止まり、痙攣のように震え始めた。
「ゔぇえ──────?」
本能の震えに知能と理性が追いつかない。
なまじ人間染みた知恵と感性があるせいで、自然界で最も大切なものが鈍ってしまっていたのだ。
だから初動を逃した。
僅かな勝機を
甘い果実を
己の命を。
──────ばたり
後ろで何かがひっくり返る音がした。
なぜか震えて思い通りにならない身体をどうにか必死に動かして、振り返る。
そこにはうつ伏せに倒れたままこちらを見る男の姿があった。
その目は赤く、哂っていた。
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