第4章ー2 オトキさんとの出逢い その2

週に一回、アパートの前に進駐軍のジープが止まる。オトキさんの部屋に荷物が運び込まれる。ビールや、ウィースキーの酒類、缶詰やハムの食料品、ストッキングや化粧品、そして1番多いのがタバコであった。

 オトキさんは必要な分を取ると、後を仲間に分ける。一階の所帯持ちには缶詰、勤め人や職人の人にはタバコが時にはお裾分けされる。皆がオトキさんの言う事を聞くにはこんな理由もあった。これらの物は米軍の売店〈PX〉で売られているものである。贈り主の名は〈ジミー〉。今、朝鮮に行っているという。仲間に贈り物を頼んでいるのだ。統制が解除され、物資がかなり出回ってきたといえ、これらの物は右から左へと高値で取引される。特に舶来のタバコは嵩張らず、いい値段になるのだ。

〈ジミー〉はオトキさんにべた惚れで、「幾らでも出すから、僕のオンリーになってくれ」と頼むのだが、オトキさんの返事は何時も「NO」である。「誰かの独占物にはなりたくないの」が答えだ。これもハルさんから聞いた話だ。


 僕はオトキさんにアパートの清掃を仕事として言いつかっていた。タダでは食べられない。1、2階の廊下、トイレ、風呂場、炊事場、丁寧にやれば半日はたっぷりかかる。他に、オトキさんや仲間の買い物や、使い走りをして駄賃をかせいだ。夕飯作りも僕の役割になった。寒くなった日に酒の粕の汁を作ったときは、特に褒めてもらい、僕も嬉しかった。

 午後、時間があるときは1階の所帯持ちの米谷さんの処に行って、奥さんの内職を手伝いながらよく話をした。米谷さんは2部屋分借りていて、一つを夫婦と仕事場に、もう一部屋は子供たちの部屋になっている。主人は戦前から区役所に戸籍係りとして勤めている。年齢の割には老けて見える、腰も前かがみだし、頭も白髪に近い。中学1年生の男の子と小学校5年生の女の子がいる。

 奥さんは「公務員の給料だけでは大変なので、内職に励まないといけないのだ」と言い、「何としても2人の子供にはちゃんとした教育をつけたい。特に男の子には大学まで行って欲しいのだ」と話す。奥さんは話好きだが手は休まない。


「この内職もオトキさんの紹介で、アメリカに輸出されるらしく、手間賃もいいのだ」とニッコリ。丸顔で笑ったときの八重歯が綺麗だ。僕に「何故学校に行かないのか?」とは聞かなかった。多分、オトキさんから事情は聞かされているのだろう。

「最初は偏見を持って見ていたが、下の女の子が肺炎にかかったとき、オトキさんにペニシリンの薬を手配してもらって助かった」ことを話し、「人を見かけや職業で判断してはいけないと気付き、2階の人たちとも仲良くしているのだ」と言った。

 上の男の子は野球部に入っていて遅く帰ってくる。学校では補欠だが、「何時かレギュラーになって、甲子園に行きたい」と話してくれた。奥さん似で、やはり笑ったときの八重歯が白い。

 女の子はお母さんっ子で、学校が終わると直ぐに帰ってくる。お母さんの内職の仕事場で宿題をしたり、絵を描いたりして過ごす。あまり外では遊ばない。小さいときの小児麻痺の後遺症で、軽いびっこを引いている。宿題や勉強を見たげたりしていたので、最近では帰ってきたら直ぐ、「お兄ちゃんは?」と言うと奥さんは笑った。

 

 1階でもう一軒行くとこがある。米谷さんとこは昼間だが、そこは夜に行く。青山さんといって傷痍軍人なのだ。昼間は山手線沿いの駅前に立っている。人が沢山集まる場所は他にもあるが、片足がないので長距離歩行は苦手なのだ。青山四郎さんは26歳の青年だ。学徒動員で戦地に赴いた。それまでは上野の美術学校で絵を学んでいたそうだ。

 

「オトキさんは身体を売って生きている。それも特上の綺麗な身体だ。僕は見苦しい身体を見せて生きている。硫黄島の生き残りの成れの果てだ」と自嘲気味に笑って、「オトキさんの裸体が特上だというのは、男から見ても、何人のモデルを描いてきた画家の目から見てもという意味だ」と付け加えた。

《僕がお金に困って、オトキさんに借りに行ったことがある。お金は貸せないが、私の絵を描いて欲しいと頼まれた。出来上がって「うれしいわ。私の綺麗な時が残せる」と言って、僕の必要とする以上の金額を出してもらった。オトキさんの思いやりに感謝した。と同時に僕に「絵を描こう」という心が戻ってきた。僕は足を失ったのであって、手を失ったのではない。オトキさんはそれを言いたかったのかも知れない。それから又、絵筆を持つようになったが、そんな絵しか描けないのだ》と、部屋の隅の何枚かの絵を指指した。その絵には色はなく、焼け跡の町や、兵士が倒れている戦地が描かれていた。


 青山さんの話を聞いてからは、今までは意識なく見ていた、オトキさんの胸の線やヒップの線が、やたら気になりだした。話をするとき正面から見られなくなった。

「勝治、あんた私に何か不満あるん。最近、目をそらして話をするね」。〈男心を分かってください、オトキさん〉と言いたかった。せめて青山さんが描いたという絵を見たかったが、それも言えなかった。

 青山さんのところには本が沢山あった。オトキさんのところには雑誌が2,3冊あるだけだ。昼間仕事のないときは、オトキさんはラジオの音楽を聞いているか、その頃あまり無かったレコードプレイヤーで音楽を聞いていた。オトキさんは音楽が好きだ。


 時間を持て余した時にと思って、青山さんに本を借りに行ったが、「勝治君こんな本読んだら」と出されたのが「罪と罰」という文庫本と、その年発売された「きけわだつみのこえ」の2冊だった。

僕はどちらの本にも感動した。特にラスコーリニコフが高利貸しの老婆を殺したことを告げたとき、売春婦に身を落としたソーニャが、「大地に接吻して許しを乞いなさい」と言うところに感動した。ラストのエピローグも良かった。

 あとの方の本は、当時反戦のバイブルとされた本で、戦没学徒兵の遺稿集であった〈わだつみ〉とは海神を意味する日本の古語である。学業が心ならずも噸座した無念、死と向き合いながらも真執に語る学問への情熱、生と向き合う言葉に涙し、共感を禁じ得なかった。読み終えて、「大学に行って学問」をしたいと強く思った。 あまり本など読まない方だったが、青山さんから借りてよく読んだ。僕は徐々に、大人の世界の入口にさしかかっていたのだ。

「勝治は本当に本がすきなんやね」とオトキさんは言ったが、本を読んでいると目を合わさなくてよかったのだ。


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