第3章 新制中学一期生 その一
大阪に出てきて、中学1年生になった。旧制の中学校に入るものだと思っていたら、昭和22年から学校制度が変わり、僕らから新制中学校になった。義務教育になって、誰もが行けるようになった。
「旧制だったら少しいい格好ができたのに」と残念に思った。でも、英語があると知って期待もした。僕らは新制中学1期生である。
前の日、何かでクラスが叱られ、朝から皆、意気消沈していた。僕はこのとき何を思ったのか、社会の久保先生の仕草の真似をして、皆を笑わそうとした。「似てる」と誰かが言いかけて、急にシーンと静かになった。異様な雰囲気を感じ、後ろを振り向いたとたん、「バチーン」と音がして、思いっきりのビンタが飛んできた。〈目から星が出る〉とはよく言ったものだ。振り向きざまの一発。見事なビンタであった。父にもビンタはよく食らったが、こんな堪えたのは初めてだった。
このこわい先生に2年、3年と担任で習うとは思ってもみなかった。1年生の思い出はこれだけである。広島訛りが抜けず、大阪にもまだなじめず、僕はくすぶっていた。ちなみに、久保先生は女の先生で、このとき35歳位だった。
【初恋】
僕に中学校の思い出が出来るのは、2年生のときからである。担任はあの叩かれた久保先生であった。こわい先生に少々げんなりしたが、クラスに好きな女の子が出来たのである。ショートカットの良く似合う子であった。一目見てこの子は大きくなったら、絶対に美人になると思った。
クラスではその時の可愛い子に人気が集まるが、皆は美人を見る目がない。僕の目は真知子先生で鍛えられている。彼女に目が集まらないほうがいい、競争相手がそれだけないということだ。学校に行くのが俄然楽しくなった。女の子は下の名前を妙さんといった。妙(たえ)何といい名前だろう。毎日顔を見るだけで満足であった。日曜日がつまらない日となった。妙さんの顔が見られないからである。早く月曜日になれと思った。
学校へ行くのが楽しくなると、不思議なもので、授業にも身が入りだす。妙さんに劣等生とは思われたくない。その一念だけで勉強に励んだ。お陰で、2年の終わりにはビリの方から中の上になり、「よく頑張ったね」と、久保先生に初めて褒めてもらった。
こんなことがあった。机は2つにくっ付けて列を作っていたが、男子は皆人気のある女の子の横になりたくて仕方がない。クジで決めても、好き嫌いはおのおの違う。クジの後、席の交代の闇取引が始まる。それで揉めた。
先生はくっ付けていた席を離し、新たにクジで決め直し、列を1週間で替わっていく方法に変えて、「1年間は席替えをしません」と怒った調子で言った。僕は最後列、横は妙さんではないか。「1年間、これが続くのだ!」僕は天にも登った気持ちだった。
朝礼では男子、女子と身長順に列を作るのだが、横を見れば妙さんだ。手を繋げる距離だ。朝の体操で屈伸運動がある。少し早く身体を起こすと、妙さんの屈んでいるのが見える。屈んだ体操服の胸元から膨らみかけた乳房が見えた。僕はとっても綺麗なものを見たと思った。
教室の席の列は、端と端に別れる週がある。僕は離れた妙さんのほうを見るため、後ろに倒れ掛かっていて、よく後ろにこけた。先生は「田中君はこけるのが好きやね」と言って笑った。「先生、こけるには、こける理由があるのです」
妙さんとは、3年のときはクラスが違った。妙さんの家は校庭のすぐ傍にあった。皆は弁当なのだが、学校に近い人は昼休み、家に帰って食べる事を許されていた。学校の図書室からは妙さんの家が良く見え、食事を終えて、帰って来るところが見られる。弁当をかけ込むと、昼休み図書室に行くのを常としていた。先生に「田中君は読書家なのね」と褒められたが、冷やかされている気分だった。
【憲法論議】
憲法が改正され、9条に戦争放棄が謳われたことだ。これについてクラスで印象的な討論がおこなわれた。
昭和21年10月7日憲法改正案成立
同年11月3日新憲法公布
昭和22年5月3日新憲法発布される。
これに先立つ昭和21年連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが日本政府に5大改革指令を出していた。その内容は
1 秘密警察(特高)の廃止
2 労働組合の結成奨励
3 婦人の解放(男女同権、婦人の参政権)
4 教育の自由化(学制改革)
5 経済の民主化(財閥解体)
この他、封建的土地制度の改革として農地改革が行われる(昭和22~25年)。自作農の創設、戦争協力者の公職追放と、次々に民主化政策が進められてきた。その集大成というものがこの日本国憲法であった。そしてこの憲法に、戦争の放棄が謳われた。
施行された新憲法の概要は新聞で読んだりして、中学1年の時にあらかた知ってはいたが、授業で詳しく習ったのは2年生のときである。憲法前文から始まり、主権在民、象徴天皇制、戦争放棄(平和主義)の9条、基本的人権の尊重等、日本国憲法の骨格をなすものを、順次習った。先生の一通りの説明が終わった。この後、9条をめぐって議論が噴出し、クラスが紛糾し、先生は泣いた。
「質問ある人」と先生がクラスを見渡した。「はーい!」と大きな声で手を上げたのは塚田義雄であった。彼はあだ名つけの名人で、それがまたもって的確で、決まってしまう。そのくせ自分のあだ名を言われると異常に怒るのだった。
「先生、武器や軍隊なしでどうして国を守るのですか?突然、何処かの国が攻めてきたら、国民はどうするのですか?」と質問した。彼は軍国少年であった。
「突然って、何処の国や!」と野次が飛んだ。
「例えば、ソ連や。日本との中立を突然破って満州に攻め込んで来たやないか。先生答えて下さい!」少し興奮しているのか顔が紅潮している。
先生は憲法前文のところを読み上げた。そして、教科書を置いて、「第2次大戦を通してどれだけの人が死んだ事でしょう。勝った国の国民も、負けた国の国民も戦争はこりごりと思った事でしょうね。人類はいつか、争いごとでしか問題を解決できない事を捨てねばなりません。それには武器を捨て、軍隊を持たないことです。誰かが、どこかの国がまず始めねばなりません。『猫の鈴』であってはいけないのです。第2次大戦で幾多の被害を他国に与え、又、核兵器の惨禍を受けた日本が、その先頭に立とうということです」と人類史的視点や、戦争の反省に立った視点から答えた。
「僕は納得がいきません。これはアメリカに押し付けられた憲法だと聞いています。それなら、アメリカが真っ先に武器を捨て、理想を掲げればいいではないですか。もう勝負がついているのに、広島に原爆を使ったのはアメリカではないですか。何でもかんでも軍部が悪い。日本が悪い。じゃ、昨日まではなんだったのですか。先生は戦前どう教えられたのですか!」何時になく塚田は食い下がった。
塚田のお父さんは軍人であった。戦死されている。塚田の本当に言いたかった事は、「父の死はなんだったのか、全くの無駄な死だったのか・・」を問いたかったのではないだろうか。
「軍隊よりはめしのほうが先やろうが」と笠本君が手を上げずに言った。笠本君はお父さんを戦争でなくした母子家庭である。先生の手伝いを進んでするので、「使い走りの笠っさん」と呼ばれ、クラスの人気ものだ。
その時、司城通夫が手を上げて立ち上がった。司城と塚田はクラスの野球チームのバッテリー・コンビである。塚田はピッチャー、司城はキャッチャーである。
「押し付けられても、いいものはいいと思います。日本政府の明治憲法の表紙を変えただけのような内容にGHQはがっくりして、早急に草案を作り、日本政府の草案がこの骨子に沿ったものでないなら、直接国民に問うと言ったと聞いています」
「誰に聞いたんや?」と笠っさんが野次を飛ばす。
「父です」司城のお父さんは大学の先生だ。「ですから、押し付けではないのです。世論調査では天皇の象徴、戦争放棄、国民主権、基本的人権の尊重のそれぞれに、国民の80%以上が賛成を示しています。敗戦で国民は、日本はどう進んでいったらいいのか模索しています。日本の指導層はそれを示す事ができていません。理想でいいではないですか。理想に近づくように、僕たちが努力していく事が大切だと思います」
司城は喧嘩早いくせ、話すときは理路整然と話す。受け売りといっても立派な憲法学者だ。このときは、司城は形勢不利に見えた久保先生に肩入れしたなと思った。
「理想、理想というけど、人間の歴史は戦争の歴史みたいなもんや。揉め事が話し合いで決着つかんときはどうするんや」と塚田が司城に言うと、「その時は野球で決めたらいいと思います」とシャーシャーと答えたので、重い空気だった教室がどっと笑った。
つられて誰かが「腹が減っては戦が出来ません。理想ではめしが食えません。このはらぺこをなんとかして下さい」と言って、皆に睨まれた。でも、皆、ひもじい思いをしていたのが実際だ。僕は幸い父の闇屋のお陰で、ひもじい思いはしていなかったが・・。
ここで一人、女性の意見が出た。
「私は将来結婚して子供を産むでしょう。男は戦争に行って泣き、女は残されて泣く、そんな世の中はもう真っ平です。突然攻めたのは日本です。攻めてこられたら、素手で戦えばいいではないですか。竹やりで十分練習して、その覚悟は出来ているでしょう!そんな時きっと世界の人々は見殺しにはしないでしょう。それも出来ないというなら、人間は滅びたっていいと思います」と言って泣き出してしまった。
皆は、感動に包まれたのか、静かになった。女の子にはもらい泣きする子もあった。僕はきっぱりと言い切る言葉に「女性はすごい」と思った。
先生は?と思って顔を見ると、目に涙を溜めて今にも泣き出しそうだった。先生は何に感動したのか?この後これに尾ひれがついて、塚田が先生を泣かしたとなって、「先生を泣かしたのはお前か!」と他の先生に冷やかされる羽目となる。
言ったのは、酒屋の娘さんの元木定子さんであった。元木さんには年の離れたお兄さんがあって、戦艦ヤマトで戦死しているのだ。
「今晩のおかず」と、「明日の日本は」大人も子供も関心ごとであった。だから、皆、何らかの思いをもって憲法に関心を寄せていた。
僕は初めて憲法9条を読んだとき、「戦争もしない」「軍隊も武器も持たない」感動というより、「ほんまかいな?」と疑い、次にまずホットしたのが本当のところだ。「兵隊になって戦争にいかんでええのや」と安心した。そして徐々に「世界の平和の先頭に立つ」理想に感動するようになった。
突然攻められたら?塚田の言うこともわかる。「ヒコーキ飛ばしてアフリカに逃げるのも手やなぁ」と、笠っさんが後ろの席で囁いた。元木さんの「滅びたっていい」発言や、真一のことや、広島のことがよぎり、僕の頭は混乱し、何か言いたかったが、頭が纏まらず手を上げられなかったのを恥じた。
妙さんに、「さっきの時間どう思った?」と聞いたら、「田中君だけに言うけど、うちの父、刑事やねん。戦前、特高やった。父も、社会の授業も、あまり好きやない」と小さな声で言った。ちょっとショックな内容だったが、前置きの「田中君だけ」に胸がときめいた。
次の時間、先生は泣いた理由をこのように言った。「皆が、はっきりと自分の考えを述べることに感動したのです。思っていただけでは相手に伝わりません。決して塚田君に泣かされたのではありません」と、塚田の方を見てニッコリと笑った。
そして、戦前、教え子を戦場に送ったこと、「戦争に行ってまいります」と挨拶にきた教え子に「思い」を伝えられなかったこと、戦後、教師をやめようと思ったこと、世界史を一から学び直し、そして今教壇に立っていること、「戦後は私の戦争なのです」と自らの覚悟を語り、「平和と民主主義は一体のもので、平和が欠けた民主主義はないし、民主主義が欠けた平和もないのです」と結んだ。僕はあのビンタと同じぐらい心に響いた。塚田は納得したようであった。
このようにして、僕は戦後民主主義を学んだ。
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