第2章 父の戦後
父の戦後
僕たち家族が大阪に出て落ち着くまでは、波乱万丈。でもこの時が父の一番輝いていた時だったに違いない。
大阪の大空襲は昭和20年3月13,14の両日、6月に4回、7月は堺。最後は終戦前日の8月14日、京橋付近がやられた。大阪市内は、大阪駅から天王寺駅が見えたぐらい、ほとんどが瓦礫の山となっていた。
僕たちは、大阪駅に降りたち、省線電車に乗った。(今の環状線、当時は天王寺までで、大阪城の東を走る意味で、城東線と称していた)車窓から見える焼け跡の景色は、これからの大阪の生活に不安を感じさせるとともに、田舎との違いを見せつけられた思いだった。
天王寺から阪和線に乗り継ぎ、二つ目の駅、南田辺で降りた。この沿線ぞいには、昔からの家並みがあり、少し安心した気持ちになった。この駅から東に歩いて5分くらいの所に、田辺本通り商店街があった。
東住吉区の田辺の町は戦前から、勤め人が多く住む町で、今でいう大阪市の郊外に当った。大正時代に公設市場が出来て、周囲に商店が集まったのがこの商店街の始まりらしい。環状線の外側の阿倍野区、東住吉区はあまり焼けず、家並みがそのまま残った。だから、すぐに商売がきいて、商店街は繁盛したのだ。父はここに目を付けたのだった。
【闇屋】
しばらく、父と母は一緒に店をやっていたが、父は母に店を任せ、別の事業をやりだした。隣の密田の大将の口利きで始めたのだ。密田さんは、この商店街の実力者で戦前、中央市場にも店を持っていた。父は、密田さんが商品の物置に使っていた物件を買ったのだった。
「田中はん、あのトラックどないしはんねん?」と、密田さんが声をかけてきた。「私が以前、面倒見た男が闇の物資を動かしていて、猫の手でも借りたいらしい、運送を手伝ってやってくれへんやろか」ということで、父は闇物資の運送をそのトラックを使って始めた。
最初は単に運ぶだけであったが、要領が分かってくると、自ら仕入れも、販売もするようになり、トラックも5台ほどになり、運転手も雇い入れた。父が扱った物資の中で一番儲けたのは砂糖であった。
甘いものが不足していて、サッカリン・ズルチンという代用品(しつこい甘さが残る)しかない時代、引く手あまたであったが、右から左に流さなかった。手に入る量は限られている。といって、闇物資をそのまま店に並べるわけにはいかない。
母にあんこを作らせ、回転焼にして店で売らせた。「ほんまもんの甘さや」と、行列が毎日出来て、昼過ぎには売り切れてしまう。母は店を閉めてからあんこ作りをするのであった。僕も毎日手伝わされたが、二人で作れる量は限られていた。
回転焼きはその形が太鼓の形をしている事から、太鼓饅頭とも言われていたが、父は又、ネーミングにも凝る人で、大阪の太閤さんにちなんで、『大阪名物・太閤饅頭』と名づけたので、商店街の名物となった。
回転焼きは、冬場は人気が高いが夏場はダメだった。そこで夏場にはアイスキャンデーを作った。砂糖の甘味がきいたアイスキャンデーはたちまち人気を呼んだ。父は民家を借り受け簡単な工場を作り、卸を始めた。製造したあんこと、夏場のアイスキャンデーであった。僕と母はあんこ作りをしなくてよくなったと喜んだ。
夏場、自転車の荷台に旗をたてて鈴をならして売りにくるアイスキャンデー売りのスタイルは、父が考えた。父はこのことをえらく自慢したが、なんのことない、豆腐屋の真似をしただけだと僕は思った。
「なんで、饅頭にして売り出せへんのん?」と僕が聞くと、「あんこを仕入れて、お母さんのように、その家のおかみさんが回転焼を売る。夏場には亭主が自転車でキャンデー売りをする。小さい場所でも出来て、お金もかからん。仕事が出来て毎日現金が入る。金が入れば夫婦円満や」
父の言いたかったのは、「商売の儲けは全部自分で食べてはいけない、なんぼか他の人にも〈おいしい〉とこを残しておくものだ」ということで、「筒一杯の欲は見苦しい」ということらしい。
【温泉事件】
この卸が軌道に乗ったところで、「闇の仕事は何時までも続くものやない。摘発を受けたら全てが没や」と、闇の運送業の仕事は後をやりたい人に譲り、やめてしまった。僕はホットした。「僕の父は闇屋をやっています」と言えないし、やっぱり好きでなかった。
次に父が始めたのがとんでもない商売で、母の猛反対を受ける。天王寺駅近くで土地を買い、バラック普請だがセメントも使った部屋が5つある建物を作った。セメントも、資材も、何処からか調達してくるのは父のお手のものである。部屋には風呂場がついている。看板には温泉マークをつけて『有馬』とした。これがうけた。毎日長蛇の列が出来、2ヶ月切れる事がなかったという。
銭湯も復活していず、バラックで風呂とてなく、行水がせいぜいという街の事情があった。「せめて風呂などに入って、座敷でゆっくりお茶など飲んで、温泉に行った気分になってもらったらええ」とは父の言い分であった。
この部屋があらぬ方向に使われることになる。住宅事情のいたって悪い時代、親子2世帯だけでなく、親戚同居、間借り同居が普通であった。夫婦の場所はなかった。いつしか男女の密会場所として利用されるようになった。父はある意味の先駆者であったのだ。
母は「何ぼなんでも世間に恥ずかしくって、道も歩かれへん!」と、大阪に来て初めて猛抗議したのである。父も「客が部屋をどの様に使おうが客の自由や!帝国ホテルかて、部屋貸しやないか」と意地を張った。そしてもう一軒10部屋の建物を作り、『熱海』と名づけた。
怒った母は回転焼をやめ、店を閉めてしまった。母のストライキであった。店を閉めたからといって収入に困らなくなっていた父であるが、商店街の店主の立場もある。それでなくてもよからぬ噂を立てられているのである。
これも、この事業の将来性を見込んで、「ぜひに」という人に売り払った。後年、この話を聞かされた人が「惜しいことをしはりましたなぁー。今頃、ホテル王やったのになぁー」と我が事のように残念がったが、父は苦笑しただけであった。
父は元のあんこ屋に戻り、母は店を開けた。母の強さと、強情さを知った。僕かて、温泉マークは好きではなかったが、少し父にも同情した。
【戦争成金】
父は一つの事業が軌道に乗っても、次に新しい事を思いついたら、そちらをしたくって仕方がない。もう一つの軌道に乗った事業を人任せには出来ない。人任せにしていい加減にされるくらいなら、欲しい人がある内に売ったほうが、こっきりして良いという考え方であった。
だから前の事業の事にはさっぱりしていた。闇の運送業を譲ってもらった人が(父の下で、運転手で働いていた人)闇をやめ、かなりな運送業の会社になっても羨む事もなかった。
アイスキャンデーにあんこを入れて「あずき味」が大ヒット、「一石二鳥や」と父はご満悦、次にイチゴを入れて女性客にもヒット、でも父の血は時には騒ぐ。
朝早く起きて、父は新聞を3紙ほど丹念に読む。分からない事があったら、銀行(毎日のように売上金を持って行った)の人に聞く。銀行の人は上の学校に行っているから物知りで、いわば百科事典ということらしい。そのくせ僕には上の学校に行く事には反対した。
昭和24年、僕が中学3年で、「大学まで行きたいから普通科に行く」「いや商業学校で十分や」と父ともめていた頃、よくその運送屋の社長が父の元に来て、何やら話し合っていた。
「朝鮮が38度線で分断され、2つの国になってしまったら、いずれ戦争になるな。中国も共産党の国になったし、そのうち、お前も戦争に行かんといかんようになるかもしれんで」と、子供が戦争に行くのを別段心配する様子もなく、朝鮮戦争の予想をしていた。
昭和25年6月25日、北朝鮮が南に向かって砲撃を開始し戦闘に入った。3年に渡る戦闘で一説によると、戦闘員100万、民間人200万人の犠牲を出したという。一つの国が長年にわたって分断される悲劇の戦争であったが、在日米軍の物資の調達、発注で、日本は特需景気に沸く事になる。
朝鮮戦争の特需のお陰で、日本の経済は復興に向かう足がかりをつかむ事になった。又、糸ヘン成金、金ヘン成金が生まれた。父もこの特需のお陰に乗った一人であった。動乱必死と読んだ父は、運送屋の社長と組んで、泉州で軍用毛布を作り込んでいたのである。注文は切れずに続いた。
満州の経験がある父は、寒い中で兵隊が一番必要とするものを知っていたのである。北の号砲が鳴ったとき、父は内心しめたと手を打ったことであろう。「戦争で金儲け」、僕は内心そんな父を怒り、軽蔑した。僕にはどうしてもあの日が許せなかったのだ。
父は、さらにその儲けを株につぎ込み、最後は、昭和28年のスターリンの死亡による株の大暴落(スターリンの死亡で朝鮮戦争は終結に向かい、特需景気は終わると予想された)で毛布での儲けの全てを吐き出したのである。戦争の始まりは予想できても、終わりは予想できなかったのだ。
スターリンの暴落は父46歳のとき、それから父は4年生きて、常々言っていた人生50年を終えた。昭和32年、もはや戦後ではないと言われた頃である。僕が大学4年のときで、母43歳の時であった。
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