【終戦】

【終戦】


 健吉爺さんの言葉を聞いて安心した事もあったが、それでも新聞を読んでいる父に、戦況を聞くことがある。父の話によると、

《最初攻勢だった日本軍も昭和17年6月のミッドウェイ海戦を境に徐々に戦況が悪化し、今年(昭和19年8月)になってサイパン、グアム、テニアンを占拠された。B29爆撃機の本土爆撃が予想され、大都市の空襲を想定し、学童疎開(国民学校初等科3年以上)が開始された。指定された都市は、東京区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、尼崎、神戸、門司、小倉、戸畑、八幡、若松の12都市であった。上級学徒は勤労奉仕として軍需産業に勤労し、学校は殆ど授業がない状態で、食料事情も悪く、都市部での生活は大変なのだ》とのことだった。


 僕は、疎開の指定都市に広島が入っていなくて安心したのだった。その後、昭和20年に入って、2月硫黄島の戦いで日本軍が玉砕(2万4千の兵士が死ぬ)してから、本格的に本土空襲が始まる。3月10日東京大空襲、続いて2日おきに、横浜、大阪、神戸、25日には名古屋が空襲をうける。軍隊だけでなく、子供まで入れた一般市民までが戦争の惨禍を受ける事となる。

 心配して出した僕の手紙の返事が真一から来た。

《空襲警報は鳴る事があるが、広島はまだ空襲を受けていない。もし広島で受けるなら、広島市には軍事施設も軍需工場もないので、軍港のある呉の方ではないか、と大人たちが話している。戦争の行方も大切だが、僕たちには何とも出来ない。そちらは大人に任せて、勝治たちとの試合に負けない事のほうが大切で、練習を怠っていない》と書かれていた。

5年生になって、僕たちは練習のピッチを上げた。夏休みが近づくにつれて、僕たちの胸は高鳴り、広島行きを夢に見るようになった。そして、夏が来て、試合日は8月7日に決定した。明日に備えて真一たちは、夏休みの校庭で朝早い練習をしていた。


8月6日、その日は朝から晴天であった。

午前8時15分アメリカにより原子爆弾が投下される。実戦で使われた世界最初の核兵器で、広島市は当時34万2千人の人口であったが12月までに14万人が死亡したと推定された。広島市への新型爆弾の投下は統制により報道されなかった。

8月9日、長崎に原爆投下され7万人が死亡と推定。

8月10日、11日と報道統制が解かれ、広島市の原爆投下と被害が本格的に新聞に報道される。

8月14日御前会議でポツダム宣言(無条件降伏)の受諾を連合国に伝える。

8月15日天皇陛下による玉音放送

8月28日連合国占領軍上陸


 広島に落ちた新型爆弾はとてつもない破壊力で、今、広島の市内はとんでもない事になっているとの噂は、M町を経て、夕方には僕の村にも届いた。鉄道はダメということで、あくる日早く、父はオート三輪で、真知子先生を乗せ広島市内に入った。

父はその日夜遅く帰って来た。帰ってきた先生は「学校も消えてなくなっていたし、真一や練習中のメンバーも、私の兄も、なーんものうなって、バックネットのコンクリートが無かったら、そこが学校の校庭やということも判らんかった」と言って、「人間って消えるんやね」と涙を落とした。

そして「達也は無事みたいよ。前の日に真一に電話をいれたとき、〈達也は、明日は練習に出てこん。呉の親戚が亡くなったんやて〉と言っていたから…。それが、あの子の最後の言葉やった」と言って、先生はまたハラハラと涙を落とした。


 僕たちの試合は『幻の試合』となり、真一は一辺の肉片すら残さず、空中に消えた。玉音放送で天皇陛下は何かを喋り、大人たちは泣いていたが、僕は「遅いわい!」と、ただただ腹立たしかった。

死んだと聞けば泣けただろう。消えたとはどういうことか?わからない事に涙は出ない。真一への哀れさが募った。悲しさと、持って行き場のない怒りが入り混じり、本当に僕の胸は張り裂けそうに思えた。


「市内はどうじゃった?」と聞いた母に、「わしゃー言葉にようでけん。じゃけん、見てしまったものはしょうがない」と言って、父は黙ってしまった。次の日から、父は憑かれたように毎日、真知子先生を伴って、オート三輪で市内に出かけた。オート三輪に米や、町で入用とされる物資を積んで出かけ、帰りには、焼け残った市内や、周辺の町で田舎の人が必要とる物資を仕入れてきて、町の人が必要とする物と交換するのだった。こんな時の父は見事で、迅速だった。

 それが、商売だったのか、救護活動だったのか、具体的にどんな事をしたのか、父も、先生も、何も喋らなかったので、僕にはわからなかった。ガソリンの手配も大変だった時代、もし、その様な活動に従事したのなら、オート三輪は重宝であったし、大活躍したことだと思った。

 二人は、朝早く出かけ、夜遅く帰ってきた。店は、〈ぼんさん〉で来ている藤原さんに任せていた。崩れてきた鉄骨を避けようとして、父は腰を思い切り打ち、翌日起き上がれず、寝込んでしまい、父と真知子先生の広島行きはこうして終わった。


 2学期になって、学校が始まったが、ここから大阪に出て行くまでの期間、2、3の事を除いては何も思い出せない。誰と遊んだか、学校でどんな勉強したのか。野球の夢は消えてしまい、僕はボールも握らなくなった。先生は時々学校を休むようになり、あの颯爽とした先生ではなくなった。

 父は中腰でやる自転車屋の仕事を辛がるようになった。藤原さんがいたが、肝腎な所は父しか出来なかったのだ。その年の暮れも押し詰まった頃、父はオート三輪を手放し、1台の大きなトラックを買ってきて、突然、「来年、大阪にいくぞ!」と言った。

この時、僕は晴天の霹靂で聞いた。大阪がどんなとこだか?地下鉄が走っていると父は言ったが、田舎で地下を走るのはモグラぐらいなもので、想像すら出来なかった。また、このトラックが大阪で大活躍するとは、思うべくもなかった。母は「何もこんな時に」と最初は乗り気ではなかったようだった。


行くことになった大阪には母の従兄がいて、商店街でメガネ屋を営んでいた。その縁故で父は商店街に店を買い求めたのだった。決めた父はやることが早い。町は今、食べるものを手に入れるのすら大変な時期だった。

 父は乱を求める所がある。「何かの考えと、算段があってのこと」であろうと子供心にも思いはしたが、何分突然だった。僕は、母に、「心配とちがうんか?」と聞くと、「亭主についていくのが、女房や。大丈夫、お父さんに任しとき!」と母が言ったので、幾分、安心した。母は娘の頃、大阪で働いていて、この眼鏡屋に住まわしてもらって、この地域を知っていたことも、安心になったのだろう。

晴天の霹靂のような大阪行きは、ショック療法だったのだろうか、僕は徐々に普通の少年らしい感情が戻ってきた。

こうして、昭和21年、僕が5年を終わるとすぐに、一家は、戦後の混乱期にある、大阪に出て行ったのだった。父は僕たちを迎える準備を整えるべく、正月を待たず、一足先に大阪に入った。買ってきたトラックの荷台に、その頃、町の人が一番必要としていた米を積めるだけ積んで…、助手席には僕の親友、タローがキョトンとした顔付きで座っていた。

                        第1章終わり

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