【真一、達也との交流】ー1



僕の村


 僕の村は広島県の中国山地にあり、山陰の県境に近い。広島市内の酒造蔵に出す酒米を作っていて、戦前にしては比較的豊かな農村だった。父はそこで自転車屋をやっていた。戦争で満洲に行ったが、銃剣術の師範の資格を持っていたので戦地には行かなかった。それと、当時の田舎では、自転車は最も大事な交通手段で、村には自転車屋は1軒しかなかった。造り酒屋で村の有力者、石田氏の計らいで、父は半年ぐらいで満洲から帰ってこれたのだ。


石田姓は村で3軒ある。造り酒屋と、造り醤油屋と、味噌屋である。いずれも親戚関係で、村での裕福な名家である。その中でも酒屋の石田家は、当主(真一の祖父)は村の村長を兼ねる名門である。

一段と高くなった石垣に囲まれた白塀と、『天鷹』と書かれた高い煙突は僕の部落の何処からも見られ、夕日が沈む頃になると白塀は少し色づくのだった。女中やおとこしも5人ほどいて,冬になると、山陰の方から杜氏の男たちがやって来て、人の出入りも一段と賑やかになる。

石田家は造り酒屋だけでなく、10町歩程の作地を村人に貸し与えていた。めったに入った事はなかったが、門を入って母屋の玄関先に金網で作られた大きな鳥小屋があり、2匹の孔雀が美しい羽を広げているのが見える。何より僕が見たかったのは、ピカピカに磨き上げられた黒塗りの自家用車であった。その鳥小屋の横手に何時も止まっていた。

入ってその車に触りたかったが、見つかって叱られるのが怖かった。何しろ村には自動車は2台しかない。もう1台は町と町の間をたまに走るバス会社の経営するハイヤーであった。

石田家の長女は、広島市内のこれも造り酒屋に嫁いだ。遠縁にあたる筋とかで、嫁ぎ先も石田姓であった。去年より、夏休みになると真一は僕らの田舎に遊びに来るようになっていたが、去年は外では見なかった。塀の中の庭で一人遊んでいる姿を垣間見たことはあったが。僕らは町から来たこの少年に興味津々だった。


石田家の次女の真知子先生が僕らの担任で、石田真一は甥になる。真一は学年が同じ3年生だった。初めて川に泳ぎに来たとき、〈海水パンツ〉をはいて来たのには、びっくりした。村では小学校1、2年生でも〈スッポンポン〉だった。僕もようやく〈フンドシ組〉になって、いっぱしな気分だった。大人も皆、白い六尺フンドシだった。

次の日、泳ぎに来た真一を見て、又びっくり。フンドシ姿で、チョット恥ずかしそうに笑っていた。僕は真一がいっぺんに好きになってしまった。大好きになった理由がもう一つある。それは、僕が真知子先生を大好きだったからである。白いブラウスに、黒のタイトスカート姿で、自転車で颯爽と稲穂の中を走る姿は、モンペ姿しか見ない村の中では鮮烈で、小学校3年生の小さな胸さえしめつけた。

母も「町でも真知子先生ほどの綺麗な人はそうおらんよ」と言い、隣の〈けんやん〉の爺さんは「先生が通ると、村の青年連中が農作業を中断して仕事にならん、青年連中が少なくなると、おっさん連中までや。あんまり走り回られたら迷惑や」と言って笑っていた。


〈けんやん〉と村の人は皆そう呼ぶが、橋本健吉と云う。僕は尊敬の念をこめて健吉爺さんと呼んでいる。健吉爺さんには何でも話せる。父に話すと、「そんな事は知らんでええ」とか、自分の考えを言うと、「生意気なこと言うな!」と叱られることがあるが、健吉爺さんは最後まで僕の話を聞いてくれる。

健吉爺さんは炭焼きや、タドン作りをしている。わずか持っている田畑は嫁に来た佳世さんがやっている。奥さんを早くに亡くし、佳世さんの夫である一人息子も亡くした。なんでも川でおぼれていた他所の子を助けようとして、子供は助かったが、息子は深瀬で心臓麻痺を起したらしい。

結婚してそう年数も経っていなかったので、健吉爺さんは実家に帰って、又、何処かに嫁に行くように勧めたが、「私はこの家に嫁にきたに」と言って、佳世さんは取り合わなかった。実家からも同じように言われたが、同じ答えを返して取り合わなかったそうだ。これは母から聞いた話だ。

 健吉爺さんは佳世さんをとっても大事にした。そんなわけで、健吉爺さんには孫がいない。子供が大好きで、僕たちも健吉爺さんが大好きだ。タドンを丸めるのを手伝いながら、健吉爺さんとは色んな話をする。


「何時まで、この戦争は続くんじゃろーか?」と尋ねると、「そげーに何時までも続くもんじゃない、お前が大人になる頃までは続かんよ」と言ってくれて安心した。「大きくなったら兵隊さんになって、アメリカをやっつけるんじゃ」と言う軍国少年もいたが、口は出さなかったが、僕は兵隊さんになって死ぬのが怖かったし、父の言う毎日ビンタがある軍隊にも入りたくなかった。

父は「お前みたいな軟弱な奴には、根性が叩きなおされてよいのだ」ということらしいが、たまに食らう父のビンタで十分だ。

「戦争に行くのが嫌な奴は愛国の精神が足りんのじゃろうか?」と健吉爺さんに訊くと、「自分の嫁さんを大事にせん奴でも、愛国者になれるらしい」と、少し怒った調子で僕の顔を見た。

「人間の幸せとはなんじゃと思う?」「うーん、…」と言いかけて、何と答えてよいかわからない。

「戦争は不幸じゃねぇ。勝っても、負けても。男と女は仲よう暮らす。国同士も同じことじゃ。勝治はどう思うねぇ?」

「勝治はどう思うねぇ?」と、時々難しい質問をされ、何時も一生懸命考えるが、わからないことがほとんどだったが、聞かれるのは大好きだった。


健吉爺さん


 健吉爺さんは板垣退助のような立派な髭をたくわえている。笑ったときの目は細く、かわいい猫のような顔になり、立派な髭と不釣合になる。その髭のせいで歳がわからない。70を越していそうにも見えるし、笑った顔はもっと若いのかも知れない。ともかく僕たちにとっては爺様には違いない。

「健吉爺さんと嫁の佳世さんとは出来ている」と大人の誰かが話しているのを聞いて、「出来ているって、何が出来てるんや?」と母に訊いたことがある。

「夫婦みたいという意味や。嫁と舅が仲ようして何が悪い。自分とこの嫁が優しくしてくれんで、妬いてるんじゃろ。世の中には、見てもないことをいい加減に言いよる人間もおるさかいなぁ」

母は「そんな事、子供が知らんでええ」とは言わず、たいていの事はきっちり教えてくれる。一度遊びほうけて日がどっぷりくれて帰り、当番仕事の風呂焚きをしなかったとき、父に頭から井戸の釣瓶の水を3杯かけられて、「お前はヨタカか」と叱られた。「ヨタカってなんや?」と訊くと、「夜飛ぶ鷹や。それでヨカッタカ」とこの時の母は嘘っぽく笑った。

健吉爺さんは甘いものが大好きで、一日一度は母の店に来て、お茶を入れて貰って、甘いものを食べて帰る。アンパンか、栗饅頭か、丁稚羊羹が定番だ。母とウマが合うのか、小一時間近くも喋って帰るのが常だ。父の自転車の店の方にはめったに寄らない。

「お前のおやじさんは仕事熱心でいい奴じゃが、嫁さんに時々手を出すのが気に食わん」。裏で母をぶっているのを何回か目撃しているのである。「女を叩く奴はすかん」と、母の味方なのである。


僕の家


 父と母はよく喧嘩をした。母は、はっきりと物言う人だ。それが父には気に食わない。「はい」と言って、夫に従順に仕える妻が理想らしい。

「俺は、戸主だ」と父は言いたいらしい。「戸主?それは石田のような名家の言うことだ」と思っている母は、平気で言い返す。それで言い合いの途中で、父はポカリと手が出る。母も「すみません」と謝ればいいんだが、母は決して謝らない。又ポカリと手が出る次第となる。

父の名は田中潔、母は年子である。家族は他に、5歳の妹がいる。清美という。歌を歌っていたら、村の誰かに「あれ、いい声しちょること」と褒められてから、「ウチは、流行歌手になる」と言っては、家の横手がバスのガレージになっていて、夕方になってバス客が少なくなると、みかん箱を持ち出しその上に乗って歌いだす。通りがかった誰かが拍手でもしようものなら、一段と声は高くなる。


 僕の住んでいる集落は村の中心で、バスの発着場もあり、ここから村の人はM町、B町まで出かけていくのであった。M町からは広島市まで行く汽車の駅があった。広島までは汽車で2時間ほどかかった。

役場も、農会も、銀行もあり、日常のものを調えるには一通りの店もあった。その中で一番繁盛しているのが〈田中みせ〉で、父のお兄さんの店だ。鮮魚を扱っている店はここだけである。医院も2つあった。村の人達は自転車で、山奥の人は歩いてやって来て、買い物や所用を済ます。

ラジオ屋もあり、ここが芝居小屋を持っており、映画がかかったり、田舎芝居のチャンバラがかかったり、時には村の青年団の芝居や、踊りのお師匠さんとこの踊りの発表会があったり、村の娯楽の殿堂の体をなしていた。

映画がかかる日は、村中に響き渡るような大きな拡声器で音楽を流すのであった。そのほとんどは当時の流行歌であったが、「最近は軍歌が多くてつまらん」と健吉爺さんはぼやいている。


僕の家はバス停の横にあり、自転車屋の店を3分の1ほど仕切って、バス待ちの客相手に母は、菓子や饅頭を売っていた。下駄や、ちょっとした日用品も扱っていた。お蔭で母が裏の台所で炊事をするとき、店番をさせられ、甘いものには不自由しなかった。たまに買いに来た〈しんちゃん〉や、〈あっちゃん〉にもおまけをする事もできた。

前が農業会の組合であったりして、「大将、パンク直してんか」と、店は村の男たちのたまり場みたいであった。暇つぶしに将棋をさしあう者あり、母の店から饅頭を買い、自転車の店に置いてあるヤカンからお茶を入れ、一服する客ありであった。何時も店は繁盛して賑やかしかった。家は大きな貯えはなくても、日々の生活をケチることのない程度の豊かさを持っていた。

わらじで学校に通う子も多かったが、僕は、運動靴を履いて、その頃珍しかった皮のランドセル姿で登校をしていた。母は若い頃大阪で働いたこともあり、村ではモダン気質を持っていて、子供の身なりにそれとなく気配りをしてくれていたのだ。


 近所で、よく遊ぶのは写真館をやっている大杉伸一、〈しんちゃん〉と〈あっちゃん〉だ。同じ学年の同じクラスだ。〈しんちゃん〉は背が高い。クラスでも後ろから2番目だ。〈しんちゃん〉は喧嘩するとすぐ石を投げる。まさかそんな大きなものは投げないだろうーと思ったら大間違いだ。石に手をやったら直ぐに逃げるに限る。

〈あっちゃん〉は(森敦彦という立派な名前がある)農家だといっても、お父さんは役場に勤めている。田畑は働き者のお母さんが一人でやっている。大抵、農家の子は家の手伝いをするのだが、〈あっちゃん〉はあまりしない。〈あっちゃん〉の得意技?はウソをつくことだ。大抵はすぐばれる。背は僕より低い。

〈しんちゃん〉は魚釣りの名人で大人顔負けだ。釣り情報にも詳しい。真一も釣が大好で、昨日はあっちの池、今日はこっちの川と4人はよく遊んだ。


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