第2章 黒曜石の魔術師、或いは魔術の祖の再来
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ノイア・オブシウスはルチアの姿が見えなくなると、笑顔を消した。光を失った瞳は真っ黒でまるで底が見えなかった。
感情が抜け落ちた顔こそが、魔術師ノイア・オブシウスとしてよく知られた顔だった。
ノイアは踵を返して歩き出した。王都中にばらまいた黒曜石製の蝶と接続し、魔術探知をかける。
天使を追跡するための魔術が発動した形跡はなかった。天使の消えた王都は平和そのものだった。
天使居館近くをうろつく月の魔術師の監視用梟も、羽繕いをしているばかりで妙な動きは見られない。梟は天使が家を出たことさえ認識できていなかった。ノイアがかけた認識阻害魔術は問題なく作用していた。
王都を隅々まで確認し、問題ないと判断すると、ノイアは蝶との接続を弱めた。
そうしてノイアはほぼ一日中、王都で不審な動きがないかを監視し続けた。
翌日になっても、王都から天使が消えたことに気づいた者はいなかった。マリアとマルタもルチアのために沈黙を守り、粛々と普段の生活を続けていた。
ノイアは監視の梟に見せる幻影を調整してから天使居館を出た。向かったのは大聖堂の敷地内にある魔術協会本部だった。
本部は一つの巨石から彫り上げたとされる二階建てのどっしりとした建物で、丸い窓が重厚な印象を和らげていた。
魔術協会は世界中の魔術師を束ねる巨大な組織だが、太陽神の教会の下部組織でもあった。
ノイアが受付で相談室の場所を聞いていると、あちこちでひそひそと噂話が交わされた。しかし、誰もが遠巻きにノイアを見ているばかりで、話しかけようとする者はいなかった。
相談室には長蛇の列ができていた。並んでいるのは魔術師ではない一般市民だった。相談室は市井の人々の困りごとを聞く部署であり、最も忙しく精神的負荷の高い部署でもあった。
「すみません、ご相談の方は列に並んでいただけますでしょうか」
勝手に部屋に入ろうとするノイアに、女が強い語気で言った。
女は白髪交じりの灰色の長い髪を後ろで一つに束ねており、表情の暗さが目立った。胸元には副室長の証であるブローチが付いている。
「失礼いたしました。ノイア・オブシウスと申します、相談者ではありません。北方の魔術師です。こちらに寄せられた相談の内容を拝見したいのですが、構いませんか?」
副室長はノイアの名前を聞いた瞬間に顔色を変え、緊張した面持ちで相談室の裏にある資料室へとノイアを案内した。
資料室には相談室とつながる小窓から次々に依頼内容をまとめた紙が投げ入れられていた。用紙はひとりでにひらひらと宙を飛んで地域別の棚へ分類されていく。
「魔術師なら閲覧は可能です。ですが、依頼を引き受けてくださるおつもり? 天使様との追いかけっこの途中では?」
「ええ、なので見るだけです」
にこやかな返答に、副室長はがっかりした様子で扉を閉めて出て行った。
ノイアは手近な椅子を引いて座ると、南方から来た相談者の依頼書を読み始めた。魔術道具が壊れたという些細な相談から、神への生贄として子どもを差し出す時代遅れの風習をやめたいという相談まで多岐にわたっていた。
王女フローライトが最近まで療養していた別荘のある街周辺の相談が積まれた紙の塔を発見すると、指先をすっと動かして引き寄せた。
次々に相談内容を確認していると、扉が叩かれた。目の下に隈のある四十がらみの女が顔を出した。
「あなたがノイア・オブシウス? 急で申し訳ないのだけど、ちょっと来てくれる?」
「ええ、その通りですが、何の御用でしょう?」
「ここでは話せないような、要するにあなたの出番てこと。危機よ、危機」
女は半ばやけっぱちに言った。
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