7



 翌日、ルチアはマリアとマルタに王都を出ていくことを伝えた。二人は寂しそうな顔をしたが、ルチアを優しく抱きしめてくれた。ルチアはいつの間にか二人の身長を追い越していて、優しく抱きしめてもらうのは久しぶりだったと気付かされた。

 二人とは王都に来た時からずっと一緒にこの居館で暮らしてきた。物心ついた時には二人はルチアを特別扱いしておらず、年の離れた妹のように接してくれていた。二人は常にルチアの味方だった。

 ルチアはノイアに助言をもらいつつ荷づくりを始めた。まっさらな手記を入れることも忘れなかった。これまでの天使と同じように旅や戦いの記録を残すのはルチアの義務の一つだった。

「旅で注意すべきことって何かあるか?」

「そうだね……。人に仇なす神々や魔性だけじゃなくて、悪意ある人々、それに詐欺に強盗、流行り病に食中毒、怪我にも要注意だ」

 それらは王都ではほとんど心配したことがない事柄だったので、ルチアはうまく想像できなかった。それを見て取ったノイアが肩をすくめた。

「王都では大司教の庇護があったから避けられたことも多いだろう。でも、君はその庇護を失う。ましてや勝手に出て行けばお尋ね者になるから、教会や聖職者にも要注意だね」

「そうだったな。司祭さんって見慣れているから困ったときにうっかり頼ってしまいそうだ。気を付けないと」

 ルチアは自分に言い聞かせるように言って、鞄を閉めた。

 服と靴はノイアがすでに仕立てたと言うので、ルチアはありがたくそれをもらうことにした。

「俺が護衛になった暁に君に着てもらおうと王都に来てから毎夜せっせと縫っていたけど、もはや叶わぬ夢だからどうぞ」

 未練がましい物言いで、ノイアは大きな箱を渡してきた。

「君、王都に来てからまだ何日も経ってないだろう……。まあいい、ありがたく使わせてもらうよ」

 やはり彼は少しずれているのかもしれないと思いながら、ルチアは自室でもらった服に袖を通し、かかとの低い靴を履いて紐を結んだ。

 白い生地に金色の刺繍が施された外套を羽織って腰のあたりで腰紐を締めると、鏡の前に立って自分の姿を確認した。聖職者のような雰囲気もありつつ実用性も加味された品格のある服を纏った自分の姿は、急に大人びて見えた。

 綿でできた生地はなめらかで驚くほど着心地がよかった。それに加えて伸縮性も抜群で体を動かすのが苦ではない。使用されている金色の釦の一つ一つには天使の紋章が彫られていた。

 着替えて部屋を出ると、マリアとマルタもノイアと一緒に待っていた。ルチアを見てふたりとも同じ形の笑みを作った。

「よくお似合いですわ」

「ありがとう」

 ルチアがその場でくるりと回って見せると、二人はきゃあきゃあと喜びながら拍手をしてくれた。

 ノイアもルチアの姿を見て満足そうな顔をしていた。ルチアはノイアの着ている服を改めて見て苦笑を漏らした。

「やっぱり君が着てる服と似てる」

「そうだよ、護衛になったら君と服の意匠をそろえたかったんだ。まあ、そんなことは今さらいい。その服には衝撃の緩和に防刃、防水など一通りの魔術式を縫い付けてある」

 ノイアがルチアに外套のフードを被らせると、マリアとマルタがあっと声を上げた。

「お顔がはっきり見えません」

「髪の色もよくわかりません」

「これも魔術か?」

 ルチアがフードを取ると、ノイアがうなずいた。

「フードを被ると容貌や髪を認識しづらくなるよう魔術をかけてある、目立たないよう人の注意を逸らすものもね。君の髪色と目の色は天使であることを喧伝してしまうから。フードの縁の刺繍が魔術式になっているんだ。一番上の釦を外してみて」

 ノイアに言われるままに外すと、他の釦も順番に外れ、腰紐がするりと外れて背中で結ばれ、前が開いた。

「戦闘時に足さばきが気になったら開けるといい、熱気も一気に放出する」

 マリアとマルタが感心しながらルチアの服をあれこれと触りだした。

「見たことがない形ですが、天使様らしい気がしますね」

「靴も頑丈そうですわ」

「スカートやチュニックだと下着が見えないかいつも心配で心配で」

「外套は白ですが、中の服は黒いですし、川に落ちても肌が透けなさそうですわ」

「いつも本当に悪かった……」

 ルチアはもう一度フードを被って部屋に戻り、鏡の前に立った。確かに顔が判然としない。

 部屋に入ってきたノイアが隣に立って、鏡越しに目を合わせて微笑んだ。

 意匠の近い服を着た二人で並んで鏡に映っていると、ルチアはだんだんと居心地の悪さを覚え始めた。天使とその護衛として二人で旅に出る可能性もあったかもしれないと考えてしまう。

 そんなルチアをよそに、ノイアはなおも穏やかな調子で言った。

「これで準備は万全だ。あとは明日に備えてゆっくり休むといい」

「あ、ああ。ありがとう」

 マリアとマルタも部屋に入ってきて、ルチアの手を引いた。

「準備が終わったらお祝いですよ。今夜はとっておきの食事をお作りしますからね」

「しばらくお会いできないですから、おなか一杯召し上がってもらわないと」

 楽しそうな二人につられて、ルチアもいつの間にか笑顔になっていた。今だけは不安を忘れようと思った。



 明くる日、ルチアは朝日が昇るとともに家を出た。

 明け方の王都はいつもと変わらず清浄な空気に満ち、静かだった。すでに活動を始めている人もいるが、昼中の騒がしさはまだ遠い。

 ルチアはフードで顔が見えないのをいいことに、隣を歩くノイアの顔を時々盗み見ていた。

 ノイアは門まで見送ると言ってついてきていた。

「こっそりついてこないよな?」

「もちろん」

「それはどっち?」

「どっちがいい?」

 ルチアは笑い声をあげた。フードを被っているので人目を気にする必要はなかった。

 王都を歩いていれば常に人目がこちらに向いていたが、今は誰もルチアを気にも留めない。まるでただの人間になったかのようだった。

「ごめん、別に疑ってない。ただ君の冗談が聞きたかった。もう会えないかもと思うと……」

 ルチアはここ数日でノイアと一緒にいることに慣れてしまって、門をくぐれば彼とお別れだと思うと不思議な心地がした。

「そうかな、案外すぐに会えるかもしれないよ。王都にいる魔術師は王宮お抱えか、月の神に仕えているか、はたまた魔術師協会本部で忙殺されているかの三択だから、働き口が見つからなければ別の街へ行くよ」

「君が王都に居座る気がさらさらないのはわかったよ」

 もう一度笑いあうと、ちょうど南門が見えてきた。

 南門はすでに開門されていて、人や馬車の往来が始まっていた。この人の流れに乗れば王都を出ていくことができる。城壁の上から街道を眺めるだけだった日々を思うと胸が熱くなった。

 門の手前でルチアは王都の方を改めて眺めた。誰も追ってきていない。ひょっとしたら捕まるかもしれないと考えていたため、肩透かしを食らった気分でもあった。あれだけ必死だった日々を思えばなんともあっけなかった。

「……こんなに静かに王都を発つことができるのは、きっと君の偽装のおかけだろう。誰も私に気づかないし、誰も私を止めに来ない」

 ノイアは意味深な微笑をするだけだった。彼はルチアを監視している目についても、それを妨害する方法についても、詳しく教えてくれることはなかった。

「日陰でひっそりとする権利は君にもある。最後にこれを」

 ノイアが一粒の黒い石のネックレスを取り出し、ルチアの手にしっかりと握らせた。

「お守りだ。この石を握って俺の名前を呼んで。そうすれば召喚魔術が発動して呼び寄せることができる」

 ありがとう、と言ってルチアはネックレスをつけた。

「何の石だ?」

「黒曜石。俺と最も相性の良い鉱物だ、北方ではよく採れる。君には似つかわしくない路傍の石だけど」

「そんなことはない、綺麗だ」

 朝日に透かしてみると、真っ黒に見えた石の中には幾重にも重なる灰色の層が透けてきらめいていた。ノイアの美しい瞳とよく似ていた。

「魔術に詳しくない私だって、人ひとりを呼び寄せる召喚魔術が尋常の魔術でないことくらいわかる。なあ、ノイア。君は一体何者なんだ?」

「俺は黒曜石の魔術師だった。俺は多くの二つ名で呼ばれてきたけど、自分で名乗ったのはそれだけだ」

 ノイアは笑みを作った。だが、その微笑みは寂しいものだった。

「さようなら、ルチア。どうか元気で」

 ルチアは思わずノイアの手を握っていた。黒い革手袋に包まれた大きな手だった。手を握られたノイアは目を見開いて微動だにしなかった。

 一緒に行こうと言いたかった、ほとんど喉元まで出かかっていた。しかし、言えなかった。

 そんなことをすれば彼を含めたこれまでの護衛候補を侮辱することになる。彼とは勝負さえしていないのだ。

 このまま手を引けばノイアは応えてくれるという確信があったが、行動には移せなかった。ただ相応しい別れの言葉を探した。

「君が私と仲良くなろうとしてくれたこと、本当に嬉しかった。今度はもっと違う形で出会おう。その時はきっと、君の優しさに応えるから」

 名残惜しさとともにノイアの手を離した。ノイアはなぜかまだ衝撃を受けているように動かなかった。その様子がおかしくて、くすりと笑った。

「さようなら、ノイア。君も元気で」

 ルチアは人の流れに乗って歩き出した。足取りは軽く、背中に羽が生えているようだった。

 門の下まで歩き、もう一度振り返ってノイアに手を振った。

 鋭い風が吹いてルチアの肩を押す。わずかに魔力を含んだ風だった。穏やかな昼下がりの光のような笑みを浮かべたノイアが手を振り返した。

 フードの日陰の中でこの先もノイアが健やかであることを願いつつ、歩き出した。門をくぐり、王都の外へ。

 煉瓦が敷き詰められた街道を歩き出した瞬間、心がふっと軽くなるのを感じた。止まっていた全てがようやく動き出したのだと知った。

 心臓が強く打つ。誰にも止められない胸の高鳴りは、ルチアを前へ前へと進ませてくれる。

 ルチアの人生はこうして静かに始まった。それを知っているのは、二人の侍従と、黒曜石の魔術師だけだった。


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