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 夜明けとともに目を覚ましたルチアは、普段着に着替えてから机に向かって手紙を書き始めた。

 似たような内容の手紙をもう何度も同じ相手に送っていたが、今回の手紙の文章もほとんど同じだった。しかし、今日まで返事は一度ももらえていない。それでも返事をもらえるまで何度でも同じ内容の手紙を送るつもりだった。

 手紙を書き上げて一階に降りると、マリアとマルタはもう働き始めていて、朝食の準備中だった。ルチアに気づいたマルタが台所から顔を出した。

「ルチア様、おはようございます」

「おはよう、マルタ」

「起きて早々申し訳ないのですが、早くお見せすべきかと思いまして……」

 マルタは周囲を確認し、躊躇いがちに手紙を差し出してきた。瑠璃色の線が入った封筒で、百合の紋章の封蝋がしてある。ルチアの眠気は一気に吹き飛んだ。

「昨晩に届いていたようで、ルチア様宛てのものです」

 ありがとう、と言ってルチアは手の震えを抑えながら手紙を受け取った。

「お食事の用意ができたらお呼びしますので、もう少々お待ちくださいね」

「ああ、ありがとう……」

 ルチアは食事のことが頭から抜け落ちる程の興奮を覚えていた。すぐに居間へ移動してすぐに封を開けて手紙を読み始めた。

 手紙を読み終えたところで、ノイアが居間に姿を現した。

 起き抜けのノイアは眠たげな顔をしていて、平時のきりりとした表情は影を潜めていた。

「おはよう、ルチア」

「おはよう」

 ルチアはさりげなく手紙を後ろ手に隠す。ノイアは気づいた様子はなかったが、油断ならない相手だった。

「朝食ができたってマリアさんが」

「そうか、じゃあ食堂に行くとしよう」

 ルチアはこっそりと二枚の手紙をポケットに入れて立ち上がった。

 食堂へ移動すると、朝食の良い匂いが鼻をくすぐった。食卓の上にはオリーブオイルと酢で味付けされたサラダ、焼きたての硬めのパン、大き目に切られた根菜類と鶏肉のスープ、それから食事の締めくくりのパンナコッタが二人分置かれていた。

 朝食をこんなにたくさん食べるのは一般的ではなかったが、ルチアは普通の人より食欲旺盛だった。

 ルチアは席につくと、胸に手を当てて無言で太陽の恵みとマリアとマルタの働きに感謝をした。ノイアには祈りの習慣はないようで、ルチアが食べ始めるのを待っていた。

 ルチアはまずサラダから食べ始め、続けて焼きたてのパンをほおばった。口の中いっぱいに小麦の豊かな味が広がって、思わず目を細めた。

「ルチア、君の今日の予定は?」

 ノイアは品よくパンをちぎりつつ言った。

「あ、えっと、ちょっと用事があるから出かける。悪いが君は王都の観光でもしていてくれ」

「そうはいかない」

 ルチアはむせた。食卓の中心に置かれたダリア越しにノイアの様子を伺うが、彼は鉄壁の微笑を湛えていて、瞳は異様なほどまっすぐにこちらを見ていた。先に視線を逸らしたのはルチアだった。それでほとんど白状したも同然だった。

「一緒に行くよ。護衛候補なんだから」

「一緒にって、どこに行くかも知らないだろう。だいたい王都で危険なことなんてないし、それに、それから……」

 ルチアが断る理由を探していると、ノイアが言った。

「決まりだね」

「勝手に決めないでくれ、一人で行くところがあるんだ。君についてきてほしくない」

「つれないこと言わないで、俺も王宮の中に入ってみたいな」

 ルチアはまたむそうになるが、すんでのところでスープを呑み込んでいた。やはりノイアは目敏かった。寝起きだったというのに恐ろしい男である。この国において瑠璃色を使用することができる人間はごくごく少数だった。

「ち、違う、王宮には行かない。全然別の場所に行くんだ、図書館に用事がある」

「隠し事も嘘も下手だね、やめた方がいい」

 ルチアはノイアを睨みつけた。せめてノイアに酷い態度を取るのはやめようと決め、もう少し歩み寄ろうとしている矢先にこれである。ルチアはさっそく自分の決断を後悔し始めていた。

 ノイアは悩ましげに眉間に皺を寄せる。

「俺に与えられた期間は五日間、今日だって貴重な一日で、しかも初日だ。なのに君は用事があって勝負に参加できないときた。何らかの補填はあってしかるべきだと思うけど、君はどう考える?」

 ルチアは最後のパンのひとかけらを口に放り込んで、じっくり噛んでから飲み込んだ。その間にもノイアは目を逸らすことなくルチアの返事を待っていた。

「君、魔術師の正装は持ってきているんだろうな?」

「もちろん、天使の護衛としての服も仕立ててあるよ」

 ルチアは今度こそむせて咳き込んだ。

「護衛の方もだと? 気が早いにもほどがあるだろう……」

「そんなことはないよ、あと数日で必要になる」

「……それについては議論の余地があるが、一旦脇へ置くとしよう。だが、まあ、魔術師としてなら一緒に行こう」

 ノイアはにっこりと笑ったが、ルチアはすでにぐったりしていて、すぐにでも横たわりたい気分になっていた。

 朝食を終えて自室に戻ったルチアは、ワンピースに着替えた。喉元までしっかりと釦で留めてから鏡の前に立つ。首がほとんど見えていないことをしっかりと確認した。

 天使は聖職者とは違い正装は存在しなかった。そのため、意匠をすこし祭服に寄せた服を正装としていた。もっとも、ルチアは王宮からは服装規定についてお目こぼしをもらうことができる特殊な立場のため、何を着て行こうとも肌の露出に気をつけさえすれば誰も何も言われなかった。

 部屋を出ると、真っ黒なローブに身を包んだノイアが待っていた。彼はどこか不満げな顔をしている。

「これを着ることは二度とないと思っていたよ」

「なぜだ? 護衛になるにしろならないにしろ、君は魔術師だろう?」

「大して重要なことじゃないけど、魔術協会に登録している魔術使いの名称が魔術師であって、このローブも協会が定めた服でしかない。つまり君の護衛になればおさらばというわけだ」

「へえ、そうだったのか。でも、良く似合ってると思うよ」

 ルチアの素直な言葉に、ノイアは目をしばたたいた。

 二人は徒歩で王宮へと向かった。手紙の送り主からは馬車を用意すると書かれていたが、ルチアは無視した。

 月の宮と大聖堂は歩いて行けるほどの距離しか離れておらず、何よりも余計な気遣いを受け取る気分ではなかったからだ。

 正門に着くと、ルチアは月の宮殿を手で示した。

「あちらに見えるのが王族の住まう月の宮であり、政治の中枢だ。ここからでは見えないが、月の神殿はさらに奥にある。もっとも、王族専用の礼拝堂であり、他の誰も入れない」

 王宮は月の面と同じ冴えた色の建材で建てられていて、朝の光を受けていてもそこだけは夜空にぽっかりと浮かび上がった月のようだった。

 正門の門衛は、ルチアとその隣にいるノイアを見比べて驚いた顔をしている。

「正門から入られるのは珍しいですね」

「通用門ばかり使うなとフローライト様に釘を刺されましたので」

 ルチアは門衛に手紙を見せた。門衛はそれをちらっとだけ確認して、門を開けるよう号令をかけた。門が開くまでの間に、門衛が尋ねてきた。

「ところで、その、もしかして、彼があなたを捕まえたんですか?」

 年若い門衛は興味津々といった様子だった。

 天使が護衛候補に仕掛けた勝負は王都中の注目の的となっていた。風の噂で聞くところによると、誰がその席を手にするのかで賭けまで行われているらしい。

「いいえ、彼はまだ護衛候補、仮で、正式ではありません」

 ルチアがついと顔を背け、開かれた門の向こうへ歩き出すと、

「これから正式に護衛になりますよ」

 と後ろでノイアが言った。ルチアは無視した。

 広すぎる美しい庭を抜け、王宮内に入ると、王女付きの侍従の一人がルチアたちを待っていた。案内された先は王女の私室ではなく薔薇園だった。

 ノイアを園の入り口で待たせ、ルチアは一人で薔薇園を進んだ。むせかえるような花の香りがルチアを包み込む。

 色とりどりの薔薇が咲き誇っているこの園は、王女が王宮内で一番気に入っている場所だった。

 薔薇は天使の花とされていて、天使の紋章にも薔薇の花が描かれていた。

 真っ白な薔薇のそばに、銀色の髪の少女が立っていた。少女はルチアに気づくとゆっくりと振り返った。

 薔薇も恥じらう可憐なかんばせに、花開くように微笑みが浮かんだ。

 青ざめたほどに白い肌はなめらかで、薄緑色のたっぷりとした生地のドレスがうてなのように華奢な体を包み込んでいた。この世の中にあって痛みや傷から隔絶された世界で生きてきたような雰囲気があった。

「会えて嬉しいわ、ルチア」

 鈴を転がすような声色で少女は言った。

 少女の名はフローライトといった。歳は十四で、現王の第二子の王女である。ルチアが王都に連れてこられて間もなく、フローライトの遊び相手となり、以来二人の親交は続いていた。

「お久しゅうございます、フローライト様」

 ルチアは形式的な挨拶をして、首を垂れた。

「顔を上げて」

 ルチアはゆっくりとフローライトを見据える。月光冠のような虹色の瞳には、かすかな苛立ちが滲んでいた。

 二人は東屋へ移動し、テーブルを挟んで向かい合って座った。

 侍従がカップにお茶を注いでいる間も、二人は無言だった。侍従がお茶を淹れ終えると、外して、とフローライトが言った。侍従がその場を辞すると、また二人きりになった。

「あんなに熱烈なお手紙を頂いていたのに、私ったらお返事が遅くなってごめんなさいね。でも、あなたずっと忙しそうだったから、お返事に悩んでいたの。ようやく時間が取れそうだって昨日お手紙を差し上げたばかりなのに、すぐ会いに来てくれて嬉しいわ。今日は男の人と一緒に来たと聞いたけれど、もしかして護衛が決まったのかしら?」

「まだです」

「せっかく二人きりになったのに敬語はやめて。いつも言っているでしょう」

 フローライトはナッツ入りのチョコレートを白百合の花弁のような指先でつまんで弄ぶ。

「できません」

「まだ怒っているのね、ルチア。私はあなたと仲直りしようと呼んだのよ。薔薇が咲く時期には必ずあなたを呼んでお茶会をしたでしょう。またこうやってあなたと楽しく過ごしたいの。今日も、また来年も、そのまた来年も」

「仲直りをしたいと言うのなら、何をすべきかおわかりのはずです。そうでしょう、フローライト様」

 ルチアは震える声で言った。その震えは抑え込んだ怒りによるものだった。煮えたぎる感情が体の中で今にも爆発しそうだった。

 しかし、フローライトは微笑を崩さず、それどころかルチアが苦しむ様を楽しんでいるようだった。

 フローライトは小さな暴君だった。誰も彼女の言動を咎めず、罰しない。父である王さえも、フローライトをまるで腫れ物に触わるような扱いをする。

 もっとも、ルチアもその場面を直接見たことはない。以前、フローライトが教えてくれたのだ。たとえ殺人だって見逃してもらえるでしょうね、と。その時は信じられなかったし、今でも半信半疑である。

 ルチアは遊び相手としてフローライトと引き合わされた。しかし、フローライトは遊びに付き合わせることはなかった。ただ、話し相手になることを望んだ。ルチアは望まれた通りに王都や大聖堂であったことを取り留めもなく話すと、フローライトは非常に喜んだ。以来、ルチアは彼女の元へ物語とも言えないささやかな話を持っていくようになっていた。

 彼女はいつもルチアの話を静かに聞いていた。楽しんでいるのかも退屈なのかも言わず、ただ耳を傾けるのだ。自分の話はほぼしなかった。

 だから、ルチアはフローライトの胸のうちはほとんど知らなかったし、ましてや彼女が王宮内でどんな立場にあるのかも知らなかった。

「あらら、仲直りはしたくないのね。ちょっぴり悲しいけれど、あなたがそう言うならそれでいいわ。いつか気が変わったら教えて、いつまでも待っているわ」

 ルチアは膝の上で拳を握りしめていた。腹の中で煮え立つ怒りは収まるどころかどんどん強まっていた。

 そんなルチアをよそに、フローライトは薔薇園の向こうを見遣って、思い出したように言った。

「そうだわ、あなたの追い返した魔術師の話を聞きたいわ。新しい候補の話だっていいけれど」

 ルチアは無言を貫いた。話して聞かせることはないと態度で示す。

 フローライトはテーブルの上に腕輪を置いた。それを見ただけで、ルチアは息がつまる。

 金属製の細かな模様が彫られた腕輪だった。フローライトのほっそりとした手首よりも径が大きく、彼女のために作られた品ではないことが伺える。

 フローライトが腕輪をなぞった。

「ね、聞かせて、いつものように」

 ルチアは何も言わない。いや、言えなかった。喉が苦しくて言葉を発するどころではなかった。

「誰にも興味がなかったのかしら。それとも見込みがなかったのかしら」

 つま先がこつこつと腕輪を軽く叩く。ルチアはせき込んだ。月光冠の瞳がゆるりと細められる。

「護衛候補って魔術師なのよね? もしかして、あなたはそれを外せる人を探してもいたのかしら。でも残念、誰にもできないわ。それに、あなたに護衛なんて不要よね、むしろ私の護衛に欲しいくらい」

 フローライトはいつになく饒舌だった。

「……お戯れを。私は誰のものにもなれません。私の力は神と戦うためにあり、人々のために使われるべきものです」

 フローライトが腕輪を握りしめた。ルチアは椅子から転がり落ち、首をかきむしり喘いだ。大きな音が鳴っても、東屋には誰も来なかった。

「ふざけてないわ」

 フローライトが手を離すと、ルチアはせき込みながら体を起こした。フローライトは冷え冷えとした表情でルチアを見下ろしていた。

「ルチア、あなたは心の底から怒っているのに、それでも私を憎んだりしないのね」

「フローライト様、もうおやめください。これを外してください」

「もう帰って、話は終わりよ」

 フローライトが手を叩くと、すぐに側使えたちがやってきてルチアを立たせる。

「いい加減にしろ、フローライト!」

 ルチアが吠えると、フローライトはようやくその美しいかんばせに子供のような笑みを浮かべた。ルチアがよく知っている笑みと同じもので、だからこそ恐ろしかった。

「また会いましょう、ルチア」

 ルチアは半ば引きずられながら薔薇園の外へ連れ出されてしまった。ノイアは戻ってきたルチアの顔を見て、心配そうな表情を浮かべた。

「君、すごい顔をしているよ」

「だろうな。悪いが、王宮を出るまで話しかけないでくれ。冷静に言葉を返す自信がない」

 肩をいからせながら歩き出した。ノイアは言いつけ通り黙ってついてきた。

 ルチアは唇を噛み締めていた。今は全てが苛立たしく思えた。中でも一番苛立たしいのは、事態を甘く見ていた自分だった。

 中庭に通りかかると、一人の男に呼び止められた。見たことのある顔で、ジェードの側使えのカイだった。

「天使様、突然申し訳ありません。ジェード様が少しお話をと」

 ルチアはしばらく考えてからうなずいた。こればかりは無視できない誘いだった。

 中庭で騎士たちや宮廷魔術師と戦闘訓練していたジェードは、近づいてきたルチアに気が付くと、にっと笑った。手を止めて駆け寄ってくる。

 ジェードは現王の第一子の王子であり、フローライトの兄だった。

 絵に描いたような美しい顔立ちをしていて、さわやかな笑顔と輝く月光冠の瞳が彼を一層理想的な王子として強調する。なお、なぜかフローライトは一方的にジェードの事を嫌っていて、ジェードもそれを知っているのでなるべくフローライトと距離を置いていた。

「またフローライトとお茶してたのか、好きだな」

「……そんなところだ。何か用か?」

「お前が護衛を連れてると聞いて気になってな」

「ああ、彼はまだ候補だが、紹介しよう。彼はノイア・オブシウスだ」

 後ろで控えていたノイアがお辞儀をする。

「ご紹介に預かりましたノイア・オブシウスと申します。お目にかかれて光栄でございます」

「へえ、君があのノイアなのか。俺はジェード、君がルチアとの勝負に勝てるよう応援してるよ。王都へはいつ来た?」

「ありがとうございます。着いたのは昨日です、王都へは初めて参りました」

「だったら楽しんでいくといい、ルチアばかり追いかけていて他に何もせず帰った魔術師は多い」

 そつなく会話するノイアを横目に見て、ルチアは感心していた。ノイアは王子を前にしてもへりくだりすぎず、かといって尊大に振舞うこともなく、自然体で話しているようだった。

「ノイア、話せてよかったよ。天使の護衛になれなかったら俺の元へ来るといい、いつでも歓迎しよう」

 ジェードに別れを告げ、王宮を後にすると、ノイアが口を開いた。

「もう話しかけても?」

「そうだった、さっきは冷たい言い方をしてすまなかった」

「それはいいんだ、気にしないで。何か聞いてほしい話があれば聞くよ」

「……言いたくないから話せない」

 そっか、とだけ言って、ノイアはあっさりと引き下がった。ルチアは胸のあたりがもやもやするのを感じたが、無視した。

 天使居館に戻ると、マリアとマルタが緊張した面持ちで居間の方を示した。二人がこういう反応をするとき、来る人は決まっている。

 ルチアが居間に行くと、大司教イレネウスが待っていた。

 皺一つない祭司服に身を包んでおり、豊かな白い髪を後ろに撫でつけている。ぴんと伸びた背筋や威厳に満ちた眼差しは、いつまでも衰えることを知らない。

 イレネウスはルチアの後見人であり、太陽神の信徒たちの最高指導者でもあった。

「今日は遊びに出かけていないところを見ると、護衛は彼で決まりらしいな」

 イレネウスは深みのある声で言って、戸口のあたりを見遣った。ルチアが首だけで振り向くと、所在なさげに佇むノイアの姿が見えた。ルチアはついと視線を逸らす。

「まだです。私はまだ誰にも捕まっていません。ところで今日は何の御用ですか?」

「彼を、ノイア・オブシウスを天使居館に置く許可を与えた証書を持ってきたのだ。ついでにお前の顔も見ておこうかと思ってな。その様子では、はやり腹を立てているのか?」

「もちろんです、彼は、まあ、悪い人ではありませんが……。勝手に天使居館で過ごす許可を与えられたことは納得していません。どういうおつもりか、聞かせていただきたい」

「お前があまりにも護衛をつけることを嫌がるから、こちらも手を変えようかと思ったのだ。お前はすでに三十人も候補を追い返した、魔術協会からは苦情が来ているのだ。いい加減聞きわけなさい」

「嫌です。苦情が来るくらいなら候補を送るのを取りやめてもらってください、もういりませんと」

「馬鹿なことを言うな、天使の誓約を忘れたか」

 イレネウスが声を抑えて言った。ルチアは一瞬まごついたが、すぐに調子を取り戻した。

「何ら問題ありません、私が戦うのは人に悪さをする神々です」

「お前のそれは人への信頼ではない。甘さだ。悪いことが起こることを想定することさえ嫌っている」

「いえ、いいえ、違います。私は、これは信頼です」

「本当はお前も理解しているのだろう。それでもなお護衛を拒否するなら、王都の外へ出ることを許可しない」

「では護衛が決まらなければ私を王都に縛り付けると? 十六になれば出してくれると約束したのは大司教様ではありませんか」

 ルチアは声を荒げた。怒りを通り越し、胸の中は悲しみでいっぱいで張り裂けそうだった。

 話にならない、とイレネウスは首を振る。

「理由の全てを理解しているだろう、ルチア。勝手に出ていこうとするのはやめなさい。手配書など作られたくはないだろう」

 イレネウスは立ち上がり、ルチアの横を通り過ぎる。

「約束を違えるつもりはない。しかし、お前をみすみす危険にさらす真似もしない。その可能性を知りながら無責任にお前を送り出すことがあれば、それこそ天に顔向けできない。……ルチア、そろそろ諦めを覚えなさい」

 それだけ言って、イレネウスは帰っていった。

 ルチアは座椅子に座って踵の高い靴を脱ぎ、そのまま寝そべって足をひざ掛けに乗せた。日も暮れていないのに精神的な疲労でぐったりしていた。

 ノイアが部屋に入ってきて、ルチアの向かいの座椅子に座った。彼はすでにローブを脱いでいた。

 ルチアは目を伏せて言った。

「話、聞いてたよな。すまない、嫌な気分になっただろう。護衛候補の君の前で話すような内容じゃなかったのに、つい熱くなって……」

「いいよ、気にしてない」

 それだけ言って、ノイアは沈黙した。部屋から出ていく様子もなく、かといってルチアに言いたいことがあるわけでもないようだった。黙って窓の向こうの庭を眺めている。

「……君、どうして部屋に戻らない?」

「君を一人にしたくないからだよ。もちろん居てほしくないなら消えるよ。でも、話をしたくなったら相手になる」

 ルチアは天井を見上げてしばらく黙り込んだ。静けさに耳を傾けながら、これまでの自らの行いを恥じた。こんなにも優しい人に対して、なんて酷い態度を取ってきたのだろう、と。

 やがてルチアは好奇心が抑えきれなくなって口を開いた。

「なあ、質問してもいいか?」

「いいよ」

「君は故郷にいられなくなったって言ってたよな。追い出されるってどんな気分だった? やっぱり、悲しかった……?」

「全然、せいせいした気分だった」

 ノイアはばっさりと切り捨てるように言った。嘘のない言葉だった。

「そ、そうなのか。私には故郷の思い出がないからよく知らないけど、そういうものなのか」

「どうだろうね、大抵の場合は悲しむと思うけど」

「もっと故郷の話を聞いても? もちろん、冬の神のこととか、無理に言いたくないことはいいからさ……」

 ルチアは控えめに言って、横目でノイアの様子を伺った。ノイアは平然とした様子だった。冬の神から殺害予告を受けているとは思えない、やはり底知れない奴だとルチアは思う。

「何でも話すよ、何から聞きたい?」

「えっと、じゃあ北方ってどんなところなんだ?」

「北はとにかく厳しい土地で、春は短く、冬は長い。とにもかくにも向こうの冬は寒くて雪深いんだ。北方の人間が冬を越えるのは死活問題で、だから冬の神が他の季節神と違って世界を去らずにいられるんだと言われている」

「君がその冬の神に嫌われているのは一体どうして?」

「話すと長いよ、それこそ夜明けまで話して語り切れるかどうか……」

「そんなに長いのか? 随分と大変な思いをしてきたんだな」

「冗談だよ、端的に言えば俺が魔術師で、冬の神は魔術師嫌いだから」

 ふうん、とルチアは言った。神と直接会ったことがないルチアには、世界に存在している神をうまく想像できなかった。

 自らの神であり父である太陽の神は一時的に世界を去っているため、当然会ったことはない。

 王都には太陽神の妹である月の神がいるが、月の神はあくまで太陽が再び地上に戻るまで王都を預かっている身であるという存在を崩さず、王族以外の人間と完全に接触を絶っていた。

「そうだ、君は雪というものを見たことがあるか? あと、北には楽園のような花園に住まう神がいるって本当か? 今まで北方以外にどこか行ったことのある土地は?」

 ルチアが矢継ぎ早に質問をしても、ノイアは少しも困った様子を見せず、それどころかルチアの方へ身を乗り出してさらに積極的に話をしようとする姿勢を見せた。

 ルチアも寝そべっているのが失礼に思えてきて、体を起こして座りなおした。

「雪はもちろん見たことがあるよ、寒くなればいくらでも降ってくるものだ。王都ではほとんど降らないから君は見たことがないか。見ていて、こんなふうに降ってくるんだ……」

 ノイアは手のひらを床に向けた。ノイアの瞳がかすかにきらめいて、手のひらから白い柔らかそうな粒が現れては床に落ちていく。それは床に落ちる前に霞のように消えた。

「すごい、今の魔術か? それが雪?」

「そうだよ、こうして空から降って、積もっていくんだ」

 ルチアは空から綿菓子のようなものが降ってくる様子を想像して、くすりと笑った。

「それから次の質問だけど、君の言う通り花の神がいる。実際のところ司っているのは植物全般だけどね。王宮の庭園よりも広大な花園を神域としている。その花園を模したもう一つの庭園も人間によって作られていて、日々植物の研究がされているんだ。天使居館の庭にある花も、いくつかはその植物園の種からできてるはずだ」

「思わぬところで繋がってるんだな……」

 そう言って、ルチアは窓の向こうの庭を眺めた。

 マリアとマルタが手入れをしている見事な庭だった。季節に合わせて様々な花や薬草を植えていた。

「北方以外にはあちこち行ったよ。王都に来たのは初めてだったけど、四方都市にはどれも足を運んだことがある」

「へえ、観光か?」

「仕事でね。どこも山がちで標高の高い北方よりはずっと過ごしやすかったよ」

 いいな、とルチアはぽつりと言った。

「君以外の護衛候補にももっと話をしてもらうべきだったと、今更ながら思ったよ」

「逃がした魚は大きいと思ってる? 大丈夫、俺を逃がさなければ問題ないよ」

 ノイアがおどけた調子で言うので、ルチアはくすくすと笑った。

「ありがとう、元気出た」

「それはよかった。他にも聞きたいことがあれば答えるよ」

「そうだな……。じゃあ、魔術について教えてもらえないだろうか。私はあまり魔術も魔術師とも関りがなくて」

 天使居館のある大聖堂の敷地内には魔術協会本部もあるが、勤めている魔術師とは交流を持ったことがなかったため、ルチアは魔術も魔術師にも詳しくない。本部は遠くから眺めたことがあるだけだ。イレネウスに協会本部にはくれぐれも近づくなと言いつけられ、それを今日まで守ってきた。

 本部の魔術師たちもイレネウスに天使に接近するなと言いつけられているのか、天使居館に近づくことさえなかった。

「もちろんいいよ。君が気になっているのは魔術式の方かな?」

「ああ、そうだな。どういう仕組みなんだ?」

 ルチアは胸がちくりと痛んだが、無視した。彼を騙すわけではないと自分に言い聞かせる。

「魔術式という言葉も、君と会うまで聞いたこともなかった。魔術はただ想像のままに使えるものだとばかり」

「ああ、魔術式は王都ではまだ一般化していないせいだろうね」

 ノイアは一呼吸置いてから説明を始めた。

「人が神から魔術を賜った時、それは想像力によって世界を塗り替えるものだという教えを受けた。魔術師たちは長く教えに従い、魔術を行使してきた」

 よく見ていて、とノイアは手のひらを軽く握り、また開くと、手のひらの上には白い花が現れていた。ルチアがじっくりとそれを観察すると、薔薇の幻は一瞬にして形を失って消えた。

「今この時、俺が想像した通りの結果が現実に引き起こされた。今見せた花の幻は、二度と同じ花を生み出すことはできない。人間には全く同じ想像をすることは不可能で、一見同じに見えても微細な違いが生まれてしまう。他の誰かが同じ想像をしたとしても、俺が作った幻と同じものを生み出すことはできない」

 ノイアはもう一度同じようにして花の幻を生み出した。ルチアは顔を寄せて白い薔薇の幻を観察すると、確かに花弁のふちの線がわずかに違っていた。

「言われてみると、確かに同じじゃない」

 そう、と言ってノイアは手のひらを握りしめて幻を消した。

「しかしながら、十年ほど前に新しい魔術の系統が生まれた。それは特殊な言葉を使うことで、想像力によらずに魔術を行使する手法だ。言葉によって魔力の流れを規定し、発動させ、結果を引き出すことができる。新しい魔術が従来の魔術と決定的に違う点は三つ。時間の拘束を受けないこと、場所を選ばないこと、全く同じ魔術を何度でも行使することができることだ。魔術は時間と空間の広がりを得て、誰にでも同じ結果をもたらすようになった」

 ノイアは上着の釦を外すと、裏地を見せたてきた。裏地には刺繍で模様が描かれていた。

「単なる模様に見えるだろうけど、これが魔術式だ。戦闘を想定していくつか魔術を書き込んでいる。衝撃を緩和し、刃を通しづらくし、内部温度を適切に保つ。これらの魔術は俺の体から放出されている魔力や、刺繍糸に込められている魔力によって、俺の意識があろうとなかろうと、俺が何かを想像しようとしなかろうと、魔術は勝手に発動、もしくは常時発動状態になっている」

 興味津々で見ていると、どうぞ、と言われる。ルチアはノイアに近づいて遠慮なく刺繍の上に指を滑らせてみた。しかし、特別なものはほとんど何も感じられない。かすかに指先がぴりぴりとする気もするが、これがノイアの服を機能的にしているとは実感は得られなかった。

 実際に機能を見せてほしいと言いそうになって、はたと我に返る。戦闘を想定したものと言っていたのだ、過激な方法で実証してみせるかもしれない。おそらくノイアは全く躊躇せずに自分を攻撃し、防ぐ様を見せてくれるだろう。だが、それはあまり嬉しいものではない。

「これが魔道具と呼ばれるものなのか?」

「その通り。君がこれまで目にしたことがあるものだと、往来に設置されている街灯があるね。あれは周囲の明度が下がることを魔術の発動条件としていて、暗くなると自ずと光りだすんだ」

 へえ、とルチアは感心の声を上げた。いつもながら不思議だと思っていたが、ルチアの周囲にいる人は誰もその仕組みを知らなかったのだ。

「君の服には刺繍で魔術式を書いていると言ったが、もしも布が切れてしまったらどうなるんだ?」

「切られた部分の魔術は発動しなくなり、この刺繍は単なる刺繍となる」

 ルチアはじっくりと刺繍を観察して特徴を覚えた。葡萄蔓草模様に似ていた。

「これまで魔術は生まれながらの特権であり、一部の血族たちに独占されてきた。しかし、新系統の魔術の発明によって、魔術は人々の生活に浸透し始めている。もはや欠かせない生活の一部となり、人々の生活は急激に変化しつつある。具体的な変化は、いつか王都の外に出た君の目で実際に見てもらうとしよう」

 ノイアは意味深に微笑んで説明を終わらせた。

「君ってとても説明上手だな、北方で先生でもしていたとか?」

 ルチアが無邪気に聞くと、ノイアはなぜか困ったように微笑んだ。

「そうではないんだけど……。俺の話はいつかまた別の機会に。他に何か聞きたいことは?」

「話はもう十分だよ、たくさん聞かせてくれてありがとう」

 ルチアは手を組んで、おずおずと言った。

「それから、その、明日のことだが、君に王都を案内させてもらえないだろうか。君の考えには一理あると思ってさ……。もちろん護衛はいらないという考えは変わっていないし、君の貴重な一日を消費してしまうけど、どうかな?」

 ルチアは固唾を飲んで返答を待った。馬鹿にするなと怒られても仕方のない提案をしている自覚はあった。

 ノイアはしばらく目をぱちぱちさせていたが、やがて気恥ずかしそうに言った。

「ありがとう、楽しみにしてる」

「じゃあ決まりだな、また明日」

 ルチアは自室へ戻ると、扉を閉めてカーテンをぴったりと閉ざした。それから服を脱いだ。

 首に触れて、冷たい金属の首輪をなぞった。ルチアの首の太さに合わせて設えられた綺麗な枷だった。

 フローライトが持っている腕輪と同じ意匠のもので、ルチアの尋常ならざる力をもってしても破壊できない。フローライト曰く、世界で最も優れた魔術師が作った魔道具だった。

 ずっとそばにいて。

 フローライトが首輪をつけた時の言葉が耳の奥で蘇る。あの時、彼女の指先は震えていた。歓喜と恐怖があのかんばせを歪めてもいた。

 フローライトは彼女の護衛が亡くなって、南方の別邸でしばらく療養していた。そして王都に帰ってきて、ルチアを王宮に招いた。別邸で何があったのか、護衛が亡くなったことでどんな心境の変化があったのか、フローライトは何も語らなかった。抱きしめるようにしてルチアに首輪をつけた。

 もしもルチアが王都から出ようとすればたちまち縊り殺す魔道具。留め金も見当たらず、鍵穴もない、冷え冷えとした金属の重し。

 ルチアは鏡に近づき、首輪の表面をよく観察した。

 蔓草模様に似た模様が彫り込まれていた。単なる装飾だと思ってこれまでは気にも留めていなかったが、おそらくノイアの説明にあった魔術式と呼ばれるものだろう。

 ルチアは首輪そのものに爪を立てた。ぎ、ぎ、と嫌な音が部屋に響く。爪が負けて剥がれて血が滴った。

 再び鏡に近づいて首輪を見るが、首輪の表面には傷一つ残っていなかった。

 だらりと手を下ろした。剥がれた爪は直ぐに治癒し始めるが、抑えきれない怒りで体が震える。

 何度破壊を試みても失敗し、魔術式を乱すこともできない。ようやく会えたフローライトはルチアの首輪を外す気はまるでなかった。

 このままでは埒が明かなかった。秘密を守れる魔術師に助けを請わなくてはならないだろう。何処にも伝手はないが、ノイアではだめだ、護衛候補に借りは作れない。

 ルチアが王都を出るためにはいくつもの困難を退けなくてはならなかったが、何一つとしてルチアの心を折ることはできていなかった。

 天使として生まれたからには、人を救わねばならなかった。それだけが生まれてきた意味だった。人間を救うという使命が、それを果たしたいという気持ちが、他の全てを凌駕する。

「絶対に王都から出てやる……」

 そう独り言ちて、鏡の中の無力な自分の姿をにらみつけた。

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