3


 翌日も王都は素晴らしい快晴だった、まさに観光日和である。

 ルチアはまず、中央大聖堂を案内することにした。

 中央大聖堂は太陽信仰の総本山であると同時に、王宮と双璧をなす王都で最も優れた建築の一つだった。

 太陽に向かって高くそびえる荘厳な大聖堂は、その名に恥じぬ重厚さを湛えている。

 色大理石をふんだんに用いた建物正面部には太陽を模した円形の窓が中心に位置し、その周辺には聖人たちの姿や聖なる草花、動物などが彫り込まれ、見る者を圧倒する風格を有していた。

 二人は朝の祈りを終えた人々が出てくるのを待ち、中へ入った。

「君は祈りに参加していないんだね」

「ああ、大司教様曰く、神の意志そのものたる天使に祈りは不要なんだって」

 大聖堂には側廊の高い窓にはめ込まれた色硝子から光がたっぷりと差し込んでおり、あざやかな影を床に落としていた。

「あの窓の色硝子が聖典の様々な場面を表しているんだ」

 色硝子は側廊の太陽神の降臨の場面から始まり、内陣の中央にある再降臨の場面までが描かれていた。再降臨は太陽神が姿を隠す前に人々に約束したことであり、それがいつになるかは今なおわかっておらず、神学者たちの間でも解釈が分かれている。太陽の眷属であるルチアも全く知らないことだった。

「あれが天使?」

 ノイアが一枚の色硝子を指さした。太陽神のもたらした奇跡の数々を描いた場面のものだった。その中に羽の生えた子供たちが描かれている。

 太陽の神が生まれてすぐに亡くなった子供を哀れんで蘇らせ、蘇った子供たちがその奇跡に喜ぶ場面だ。彼らはその後太陽の神の眷属となる。そして、太陽の神が地上を去る直前に告げられた命により、人間の幸福と安寧のために働くこととなったのだ。

「その通り。実際の天使に翼はないが、ああいった絵の中では天使には翼が生えているものとして描かれる。翼のある神と混同されたことがきっかけと言われているが、天と地を繋ぐものだから翼があると考えられていたと主張する人もいる。私も詳しいことは知らない」

 天使の紋章も薔薇と翼を主たるモチーフにしている。しかし、天使の翼は人々の共通認識と、絵の中にだけ存在するものだった。

「君も私に会って驚いたか?」

「いいや、初めから君に翼がないのを知っていた。何度も生まれ変わることも」

「君みたいな正しい知識を持っている人の方が珍しいよ、出会ってすぐがっかりされることもある」

「それはひどい、君と出会えた幸運に感謝すべきなのに」

 ノイアは真剣な口調で言った。その視線の先にあったのは聖剣を持って邪神を打ち倒す太陽神の図を描いた色硝子だった。それに気づいたルチアは慌てて言った。

「さあ、次の場所へ行くとしよう。見てもらいたい場所が多いんだ」

 大聖堂を後にすると、図書館や美術館などを軽く見せて回った。その気になれば丸一日を費やしても全てを見て回るのは難しいが、王都には他にも見るべき場所が多いため簡単な紹介だけに済ませた。

「さて、次は外に出て王都を見て回ろう。何か見たいものは?」

「君にお任せするよ」

「では劇場へ行こう、今日は演劇をやっているはずだ」

 ルチアはうきうきした調子で言った。

 大聖堂の敷地を出て王都に繰り出し、南側にある劇場へと向かった。

 半円形の舞台を擁する野外劇場で、客席はなだらかな斜面にそって扇状に広がる。客席の上には日差しを遮るための天幕が張られていた。

 この劇場ではルチアもほとんど注目を集めなかった。演劇を見に来た客たちの視線は、舞台や袖で待機している役者たちに向けられている。

 劇場にはすでに多くの客が集まっていた。付近には屋台も出ており、良い匂いが漂っていた。

「甘いものでも食べながら見よう。……なあ、ノイア。さっきからどうした?」

 ルチアは菓子の量り売り屋台の前で尋ねた。

 ノイアは先ほどからずっと上の空で、周囲を警戒しているようだった。

「何でもないよ」

 ノイアはさっと代金を払ってルチアの手に菓子の入った箱を置いた。あまりにも自然で流れるような動きだったので、ルチアは反応が遅れた。

「あ、ありがとう。でもなぜ君が払ったんだ?」

「君以外のものに気を取られたことへのお詫びだ。さあ、席を探そう」

 二人は劇場の空いている席に座った。前方はほとんど埋まっていたので、後ろから三列目の席だった。

「今日はホリム島の伝説の演目だが、君はあまり興味なかったか?」

「そんなことないよ」

 そう言いながらも、ノイアはまだ周囲に意識を向けているようだった。周囲にいるのは演劇を見に来た人々と屋台を出している商売人ばかりで、妙な人は見当たらない。

 ルチアは先ほど買ってもらった菓子の箱を開けて、アマレッティを一つ口に放り込んだ。

 まもなく開演の時間だと半円形の舞台に上がった役者が告げたころ、ノイアがルチアに耳打ちした。

「少し外す、ここにいて」

「え……? おい、ノイア!」

 ルチアが止める間もなくノイアが行ってしまうと、ちょうど演奏が始まった。劇の始まりの合図だった。

 追いかけるべきかしばし悩んだが、結局席を立ってノイアを追いかけた。

 立ち見の客たちの間をすり抜け、ノイアの姿を探す。しかし、すでに彼の姿は見えなくなっていた。ルチアはお菓子の箱を持ったまま右往左往し、結局ノイアが戻ってくるのを待つことになった。

「ルチア!」

 名前を呼ばれてはっと顔を上げた。ノイアが駆け寄ってくるのが見えてルチアは安堵する。

「ノイア、どこに行ってたんだ?」

「何でもないよ、それより劇は?」

「私はこの演目見たことあるから、君を無視してまで見ることはない」

 ルチアはアマレッティを一つ取って口に入れた。甘い味で心の中に広がっていた不安が和らぐ。ノイアの手にも無理やり一つ置くと、ノイアは苦笑しながら食べた。

「君、一体何してたんだよ。さっきは随分と剣呑な様子だっただろう。先に言っておくが、何でもないはなしだ」

 ノイアは腕を組み、じっとルチアの顔を見つめて考え込む様子を見せる。

「やっぱり君は、俺に興味を持ってくれてるってことだよね?」

「ふざけるのはよせ。本気で心配してたんだ、答えてくれよ」

「さっきは殺し屋を差し向けられたから返り討ちにしてきたんだ。王都ってもっと治安がいいかと思ってたよ」

「それは……、まだ、ふざけてるのか?」

 ノイアの軽い物言いに、ルチアは確信が持てなかった。ノイアははぐらかすように微笑む。

「今のは俺が悪かった、どうか忘れてほしい。君と喧嘩したくないからね。まだ一緒に観光してくれる?」

 今度は一転して殊勝な態度を取る。しょぼくれた顔で言われては、強くは出られないのがルチアだった。

「ま、まあいいよ。言いたくないことを無理に言わせたいわけじゃない。君もそうしてくれたし……。でも、突然いなくなるのは心配だからやめてくれよ」

 うん、とノイアが素直に請け負った。

 ルチアは公衆浴場や市場といった主だった観光地のいくつかをノイアに見せて回った。ノイアはもう上の空になることもなくルチアの熱心な解説を聞いてくれた。

「君はこの街が大好きなんだね」

 噴水広場でノイアは言った。石像の女神たちが持つ水瓶から透き通った水が絶え間なく流れ落ちていた。

「ああ、育った街だからな」

「でも出て行こうとしている」

 ルチアは足を止め、またしても買ってもらった棒付き飴から口を離し、ふっと笑った。

「咎めようとしてるのか?」

「まさか、事実を言っただけさ」

「君、私のことは知ってるんだろう。だったらなぜ出ていきたいのかもわかるはずだ」

「ここにいても何にもならないから」

「その通り」

 神々と戦うために生まれた剣の天使には、平和な地に本当の居場所は存在しない。

 月の神のおわす王都に他の神はおらず、人と神との狭間に立って調停する存在は不要だ。戦うべき神もおらず、人と神との諍いも存在もない。

「王都の外では魔性が出ると聞いている。そして誰もそれに対処できていないとも。本当はずっと助けになりたかった。子どもに救われるものが在ってはならないという大司教様の方針で、王都の外に出るのを禁止されていた。でも、私はもう十六になった、人間であれば成人する年齢だ。だから一刻も早く出ていきたいんだ」

 新聞や噂で魔性が語られるとき、何もできない天使への揶揄も同時に語られる。役立たずのお人形だと。

 ルチアもまったくその通りだと思っていた。このままでは、生まれてきた意味がない、と。

「君は今日にだって外に出ていくことができる、俺さえいれば」

 ルチアは力なく笑った。

 それでも出ていくことができないとは言えなかった、首輪の存在だけは知られるわけにはいかなかった。フローライト本人から行動の真意を聞くまでは大ごとにはしたくないと思っていた。天使と王女の間で諍いが起こったと周囲に知られてしまっては、問題は二人の手を離れて周囲の大人のものになってしまうだろう。

 代わりに同じくらい大事なことを言った。

「私は一人で行きたいんだ。危険な地へ赴くのだから、誰も巻き込みたくないんだ……」

 それはルチアが魔術師たちに勝負をしかける理由の一つで、初めて吐露したものでもあった。人間は守るべきもので、天使よりもずっと弱くてもろい存在だ。

 しかし、そんな人間であっても、ルチアに勝負に勝って強さを証明してくれる誰かがいれば、ルチアは自分を納得させられるかもしれないと思っていた。

「ルチア、君は人間を愛しているけど、信頼はしていないんだね」

 ルチアはどきりとした。すこしも言い返せなかった。真実その通りだった。

 黒曜石の瞳がルチアをまっすぐに見つめていて、それは出会ったときに感じた影のような予感を思い起こさせた。

 吸い込まれてしまいそうな深い色に、ルチアは目が逸らせなくなる。

 ノイアは間違いなく強い、そして優秀で頭が切れる。この短期間の間に、それを嫌というほど感じさせられている。

「明日こそ勝負をしようよ、ルチア」

「……いいだろう、受けて立つ」

 ルチアは階段に飛び乗ってノイアと視線の高さを合わせ、両腕を広げた。

「私が逃げる範囲は王都の城壁の中のすべて、私を見つけ、捕まえられたら君の勝ち。建物や道を破壊したり人を傷つけたりするのはもちろん禁止、違反者は即刻失格。君が勝てば私の護衛になれる」

「君が勝ったら?」

「私は何も変わらない。私は君を三十一番目の敗北者にして、他の魔術師と同じように君が王都を去るのを見送るだけだ」

「……そうしていつか王都を一人で出ていく?」

 そうさ、とルチアはうなるように言った。

「私は、私を縛る全てから、逃げ出してやるんだ」

 風が吹いて、ルチアの長い髪が巻き上げられた。

「私が私であるために」

 夕日にきらめく髪の向こうで、ノイアが静かな笑みを湛えていた。



 

 観光を終えて居館に戻ると、二人は夕食を取った。

 ルチアは居館に帰ってきてからノイアとほとんど口を利かなかった。ノイアとはずいぶん打ち解けられたが、明日の勝負のことを考えると、どうしても平静ではいられなかった。

 一方のノイアは食事中も以前と変わらない調子で今日の観光の感想をルチアに伝えてきた。

 出会ったときからノイアのルチアに対する態度はほとんど変わらなかった。ルチアが勝手に邪推したりあれこれと悩んだりしている時も、彼はそれに引きずられることがなかった。ルチアより二歳ほど年上ではあったが、年齢不相応なほどの落ち着きである。

「なあ、ノイア。明日の勝負の前にひとつ聞いておきたい。君はどうして天使の護衛になりたがる?」

 ルチアが自分から護衛候補に理由を尋ねたのは初めてのことだった。

 これまでの候補者たちは、聞くまでもなくそれを教えてくれた。家のため、自らの栄光のため、仕事のため、魔術の研鑽のため、彼らは様々な目的で天使の護衛の席を求め、夢破れてルチアの前から去っていった。

 ノイアはにっこりと微笑んで答えた。

「君の隣が欲しいから」

 ルチアは首を傾げた。はぐらかされているのだろうかと考えている間に、食事を終えたノイアが席を立った。

「今日はいろんな場所へ連れて行ってくれてありがとう。楽しかったよ。じゃあ、また明日」

「うん。また明日」

 ルチアはスフォリアテッラの最後の一口を食べ終えると、空になった皿を見下ろした。二人はほとんど同時に食べ終わっていた。ノイアがそれに気づいていないはずがなかったが、彼はなぜかルチアを待たなかった。

「逃げた、とか? いやまさかな……」

 ルチアはぶつぶつ言いながら席を立ち、空になった皿を持って台所へと向かった。

 湯浴みをしてから自室へ戻り、寝間着に着替えて、姿見の前に立って首輪に爪を立てた。びくともしないのを確認して、ため息をついてベッドに寝転んだ。

 ノイアを退けられたとしても、もしノイアが護衛になって王都の外に出る許可をもらったとしても、ルチアの抱える問題の一つが片付くだけで、本当の目的に辿り着くには程遠かった。

 ルチアは寝そべったまま机の上を見遣った。机の上には何冊かの天使の手記が置かれている。

 ルチアは過去の天使が残した手記を新しい本に書き写す作業をしており、机の上の手記は作業途中のものだった。

 それはイレネウスから言いつけられている数少ない仕事のうちの一つで、ルチアはこの年齢になるまでひたすらに写本制作作業を続けてきた。

 手記は過去の天使がつけた記録である。歌の天使であれば作詞や作曲について書き付けていたり、薬の天使であれば薬効のある草木についての研究記録であったりと、自らの仕事の記録を残している。

 剣の天使の記録は、ほとんどすべてが戦いの記録だった。神と人との仲裁をして神を斬っただとか、人間を一方的に殺して遊ぶ神と一騎打ちをしただとかが書かれている。

 最新の剣の天使たるルチアは、生まれ変わる前の剣の天使の手記を全て読みつくしていたが、その中にはルチアの抱えるもう一つの問題の解決策は書かれていなかった。彼らの手には必ず聖剣があり、それがどこから来たのかは一切書かれていない。

 ルチアはため息をついて目を閉じた。

 考えても仕方のないことばかり頭に浮かぶ。夜更かしをして、追いかけっこという目下の問題に対処できなくなるのは避けたかった。

 ルチアがうとうとし始めたころ、急に首輪が強く締まった。ルチアはベッドの上でもがき、あまりの苦しみにベッドから転がり落ちた。首輪の締め付けは一瞬だけ緩んだが、再び強く締めあげてくる。

「あ、アあ、ぐッ……」

 意識が飛びそうになった瞬間、首輪の締め付けが緩んだ。ルチアは必死で息を吸い込んだ。

 フローライトの下にある腕輪が使われたのだ。腕輪は首輪と連動していて、腕輪に力が込められれば首輪が締まるようになっていた。

 あえぎながらベッドに戻ろうと手を伸ばすと、その手を取られた。

「大丈夫?」

 ルチアの手を取ったのはノイアだった。いつの間にか部屋の扉が開いていた。隣の部屋の異変を聞き取って駆け付けたのだろう。

 ルチアは反射的に首をすくめ、ノイアの視線から逃れるようにうつむいた。

「夢を、悪い夢を見ただけだ」

 ノイアが強く手を握った。彼はこんな時まで革手袋を嵌めていた。

「天使は夢を見ない」

 そうだね、と柔らかくも断定的にノイアは言う。ルチアの首筋を冷や汗が伝う。顔を上げられなかった。

 ノイアはルチアを引っ張り上げてベッドに座らせ、自らは床に膝を突いた。

「君は王都から出て行かなかったんじゃなくて、出ていくことができなかったんだね」

 ノイアはルチアの顔を覗き込んできた。

 ルチアはついと視線を逸らし、必死で言い訳を考えた。しかし、最も知られたくない相手に知られてしまったという焦りが、思考を鈍化させていた。

 その時、マリアとマルタも顔を出した。

「天使様、大きい音がしましたが、いかがされました?」

「怖い夢を見ただけだそうです」

 ノイアが演技らしさをまるで感じさせない風に言ったので、二人は安心したようだった。二人は天使が夢を見ないことを知らなかった。

「俺がそばに居ますから、お二人は休まれてください」

 マリアとマルタが自室に戻っていくのを見届けると、ノイアはルチアに向き直った。ルチアはなおも目を合わせられなかった。まだうまい言い訳も見つかっていなかった。

 ルチアは絞り出すように言った。

「ノイア、頼むから君も部屋に戻れ」

「それはできない。ルチア、その首輪は一体誰に着けられた?」

 ルチアは自分の表情が引きつるのを感じた。

「私の問題に首を突っ込まないでくれ。君とはあと数日で会うこともなくなる、だから放っておいてくれよ」

 怒気を抑えてルチアが言う。しかし、ノイアは気まずそうに言葉を返した。

「それが、無関係とも言い難い」

 珍しく歯切れの悪いノイアに、ルチアの勢いも弱まる。

「どういうことだ?」

「それ作ったのは俺だ」

 ノイアは首輪を指さしていた。

「……話を聞かせてもらおうか」

 ルチアはノイアの腕を引いて隣に座らせた。ノイアはすっかり気落ちした様子で話を始めた。

「さっきも言ったけど、その首輪は俺が作ったものだ。王都へ来る直前に、ある依頼が舞い込んでね。首輪と腕輪を作ってほしいという依頼で、やんごとなき御方からのものだという触れ込みだった。犬が脱走しても王都から出られないようにするのと、躾けられるように首輪を締められるようにすること。いかにも怪しい依頼だったから、犬以外に使用しないという念書に署名させたんだけど、無視されたらしい」

 ごめんね、と言いながらノイアはルチアの首に手を伸ばした。小さな金属音を立てて、ルチアの首から重みが消えた。ノイアが首輪を握りしめると、それは消し炭になって消えてしまった。

 ルチアはあっけにとられたまま首を撫でた。冷たい金属の感触はなく、素肌の温かさだけがあった。

「フローライト以外には外せないはずじゃ……?」

「何事にも抜け穴は用意しておくものだ、特にこんな代物にはね」

 ノイアは立ち上がると、意味深な笑みを浮かべた。薄闇がその笑みをさらに怪しくする。

「君に時間を浪費させる原因を作ったことに心からの謝罪をしよう。ルチア、これで君は自由に王都の外へ出られる、最早魔術師との勝負も無用だろう。俺は明日も王都にいるけど、君は、どうかな……。おやすみ、もしくはさようなら。夜は寒いから気をつけて」

 ノイアが部屋から出ていっても、ルチアはしばらく首を撫でさすっていた。

 ようやく事態を飲み込んで手が止まった。あまりにも急なことだったが、ルチアは本当に自由だった。物理的な枷は消えている。これで王都から出ていくことができるし、護衛候補との追いかけっこも終わりにできる。

「ああ、信じられない、なんという幸運だ」

 ルチアは立ち上がって、これからどうすべきか悩んだが、まだノイアに謝罪も礼も言っていないことを思い出した。

 慌てて自分の部屋を出てノイアの部屋の扉を叩く。しかし、返事はない。

「ノイア?」

 耳を寄せて中の音を聞いた。もう寝たのだろうか、と聴覚を研ぎ澄ませてみるが、吐息の音は聞こえなかった。代わりに風の音が聞こえる。

 ルチアは扉を開けて中に入った。部屋の中は整然としていた。中には誰もいないが、窓は開け放たれていた。

 嫌な予感がした。先ほどの会話でルチアは失言をしていた。彼は誰が本当の契約主であるかを知ってしまった。

 ルチアは急いで着替えて靴を履き、窓から家を出た。ノイアの行き先は分かっていた。

 家から家の屋根へ飛び、夜の王都を駆けた。天使居館から一直線に王宮の通用門まで来ると、ルチアは眠そうな顔をしている門衛に言った。

「フローライト様に会いたい」

「こんな夜更けにですか?」

「ああ、どうしても彼女に会いたい」

 ルチアの気迫に押されたように門衛はルチアを中へ通した。

 フローライトの寝室までわき目も振らずに走り抜け、突然の来訪に驚く侍従たちをなだめすかし、絶対に中に入らないようにと言い含めてから、フローライトの部屋の中に入った。

 冷たい夜の風が頬を撫でた。月明かりが差し込む部屋に、床にへたり込んだフローライトと、それを見下ろすノイアの姿があった。ルチアは迷わず二人の間に割って入り、ノイアと対峙した。

「また会ったね、ルチア。こんなところで再会できるなんて」

 ノイアはルチアを見ても驚く様子はなく、それどころか余裕の笑みを浮かべていた。

 フローライトは立ち上がってルチアの腕にしがみついた。その小さな体は小刻みに震えていた。

 ルチアはどちらに非があるかは理解していたが、フローライトの手を振りほどかなかった。

「それはこちらの台詞だ、ノイア。こんなところで何をしている?」

「俺はただ契約に基づいた行動をしているだけだ。君、お人よしもここまでくると命取りになるよ。大司教が君を一人で外へ出したがらないのもよくわかる」

 ノイアはゆったりとした歩調で部屋の中を歩きまわる。

「何も命まで取ろうとしているわけじゃない、危害を加える気は毛頭ないよ。もっとも、王女様はそうではなかったようですがね」

 フローライトがびくりと肩を跳ねさせた。

「契約書には首輪を犬以外に使った場合には返却を求めると書きました、それから返さない場合には実力行使も辞さないとも。そのご様子では、契約書の内容はよくよくお読みいただけていたようですね」

 静かな物言いが返って凄みを感じさせた。ルチアはノイアから視線を外さずに後ろのフローライトに言った。

「腕輪を返せばそれで終わる。どこにある?」

「いや、助けてルチア」

「聞いてくれフローライト、首輪はもうない」

 ルチアが首を見せると、フローライトは驚きに目を見開いて固まった。

「殺し屋を雇ってまで阻止しようとされたのに申し訳ないですが、外してしまいました。彼女は犬ではありません」

 今度はルチアが絶句する番だった。フローライトは唇をつんととがらせた。

「私はただ、彼をどうにかしてと言っただけ」

 己の発言がどういった結果を引き起こすのか、それを想像できないほどフローライトが不明ではないと、ルチアは良く知っていた。

「……そうまでして、人を殺してでも、私をここに縛り付けようとしたのか? 君は、出会ったときから私が外へ出たいと思っていたことを知っていたのに?」

 フローライトは何も言わなかった。冷たい目でルチアをにらみつけながら、ゆっくりと手を上げ腕輪の在り処を指さした。ノイアは恭しく頭を下げてから寝台横のテーブルへ向かった。

 ルチアはフローライトに向き直り、ほっそりとした腕をつかんで視線を合わせた。

「フローライト、私の質問に答えてくれ。王都に戻ってきてから碌に話もしてくれない。ずっと何に怒っているのかも教えてくれない。急に首輪をつけたと思ったら遠ざけて、君は何がしたいんだ」

「ここにいて、それだけでいいの」

 ぞっとするほど哀れっぽい声色だった。そして、長い睫毛を伏せて、小さな唇を震わせた。世界で最もかわいそうな存在であるかのようだった。

「君もわかってるだろう。そんなことできるわけがない、私の本当の居場所は王都にはないんだ」

「いや、わからない。わかりたくない。ルチア、お願いよ。天使としての責務を全うしないと生きていけないなら、私が敵を作ってあげる、平和を壊してあげたっていい」

 ルチアは自分の耳を疑っていた。指先が震えているのが遠くの出来事のように感じられた。体温が下がっていくのも、頭が働かないのも、まるで嘘みたいだった。

「君は、民を守るべき王族たる君が、何を言っているか、本当にわかっているのか……?」

「ええ、もちろん。私はあなたほどお馬鹿さんではなくてよ」

 フローライトはそうっとルチアの頬に唇を寄せた。ルチアはその時ようやく友情を感じていたのは自分だけだったと知った。彼女はずっと冷静で、ずっと熱に浮かされていた。

 ルチアは後ずさった。毛足の長い絨毯に足を取られて転びかけたが、ノイアに片腕で抱きとめられた。

 フローライトは激しい感情を湛えた瞳でノイアを睨みつけた。月光冠の瞳の七色はかつてないほどに色を強くし、頬は真っ赤な薔薇のように上気している。

 ノイアは平然とその視線を受け止め、手にした腕輪を塵に変えた。

「強い味方を手に入れたのね、ルチア。これでお望み通り王都の外へ出ていくことができる。でも、きっとあなたは戻ってくるわ」

 不可解な確信をもって言い放ったフローライトは、暗闇の中で夜空に浮かぶ月のように孤独に光り輝いていた。

「……それでも私は、王都を出ていくよ。さようなら、フローライト」

 ルチアは歩き出したが、足元が不確かに感じられていた。

「ルチア!」

 フローライトの呼び掛けに足を止めた。その声の響きには懐かしいものがあって、ルチアが一番よく知るフローライトの声色と同じものだった。

「今夜あなたの首輪が締まったのはわざとじゃないの、腕輪を落としそうになって、それで……」

「大丈夫だ、信じるよ」

 ルチアは再び歩き出して露台に出ると、手すりを飛び越えて地面に降り立った。ノイアも後から続いた。

 正門も通用門も目指さず、人目につかない道を歩いて進んだ。塀を飛び越え、王宮の外に出て天使居館へ向かって歩き出す。そうしてようやくノイアが口を開いた。

「来るとは思わなかったよ、ルチア」

「お礼も言っていないと思い出したんだ。それで君がいないと気づいて、慌てて飛び出して来た」

「お礼のために? 俺のことは無視して行くべきだったのに」

「そういう訳にはいかないだろう。首輪を外してくれてありがとう。それから、酷いことをたくさん言ってしまって、本当にすまなかった」

「当然の行いだけど、どういたしまして。謝罪されるようなことは何もなかったよ」

 ルチアはため息をついた。腹の中にたまった怒りや困惑や全てを吐き出してしまいたい気分だった。

「私のせいで君が危ない目に遭ったことも謝るよ、私が君の話を信じなかったことも」

「謝ってばかりだね、君。気にしてないよ、当然の反応だ。そんなことより君はこれからどうする?」

 そうだな、とルチアは夜空を見上げた。街灯が増えてからというもの、空の月や星々の光はささやかに見えた。

「飛び出していこうと思ったけど、冷静になったよ。明日から旅の準備をして、明後日には出ていきたいところだ。大司教様に気づかれないようにこっそりとやるよ」

 ルチアは一度言葉を切り、

「そういう君は、どうするんだ?」

「ひとまず君を見送ってから考えるとするよ」

 ノイアはのんびりと言った。ルチアは急に物分かりのよくなったノイアに対して胸のあたりがもやもやとしたが、気付かないふりをした。それだけルチアを王都に縛り付けていたことに責任を感じているのだろう、と結論付ける。

「北方には帰れないんだろう? 王都で働き口を探す、とか?」

「そうだね、君が王都を発ったあとはしばらく偽装工作をするとして、そのあとは雇われ魔術師にでもなるかもね」

「偽装工作だって?」

「うん、君の出立を誰にも邪魔されないように手を貸すよ。君が旅に出られなかった責任を取らせてもらおう」

「できるのか、そんなこと?」

「もちろんだよ、おまかせあれ」

 ルチアはさみしい笑みを見せないようにうつむいた。

「じゃあ、お願いするよ。これで貸し借りなしとしよう。でもそんなに自信満々に言うなんてさ、君はやっぱりかなり腕の立つ魔術師だったんだろう? あの首輪だって、世界で一番の魔術師に造らせたってフローライトが言ってた」

「大げさな宣伝文句に釣られただけだよ。世界で一番なんて決められるものじゃない」

「君、自分の力についてだけは妙に謙虚だな、なぜだ?」

 ノイアは急に穏やかな雰囲気を消して言った。

「例えば俺が本当に世界で一番の魔術師だったとして、君はそんな人が護衛になろうとしたら何て言う?」

 ルチアは腕を組んでじっと考えて、

「私の護衛じゃない方が世間や人のためになるから、頑張って追い返す」

「想像通りの返事をどうも」

 ノイアがうんざりしたように言ったので、ルチアは今度こそいつも通りに笑うことができた。

 ノイアはおそらく、ルチアがフローライトから受けた衝撃や、ノイアが王都に残ると言ったことへの動揺を見て取っているはずだが、決して言及はしなかった。

 話をしている間に天使居館に着き、二人はこっそりと家に入った。音を立てないように二階に上がり、それぞれの部屋の扉を開け、おやすみと言い合って部屋に入った。

 ルチアは開け放していた窓を閉めると、出窓の天板に腰掛けた。

 幼いころは出窓の天板の上に座って、張り出した空間に体をすっぽりと収めていたものだった。すっかり背が伸びてしまった今となってはできないことだった。

 幼いあの頃は、ぼんやりと外を眺めて、遠い空に旅に出ることを思い描いていた。

 窓の外の暗闇を見ていても、胸が高鳴っていた。自由が、旅への期待が、ルチアの体を羽のように軽くしていた。

 けれど、フローライトと仲直りできなかったという事実だけは棘のように心に刺さっていた。

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