天使と黒曜石の魔術師
水底 眠
第1章 天使は屋根の上
1
街道を行き交う人々や馬車を、王都全体を囲む城壁の上から眺める者があった。風になびく長い髪も、大きな瞳も、まばゆいほどの金色をした天使だった。
天使は見覚えのある馬車に気づくと、思わずといった風にため息をついた。その馬車は王都を離れて南方へと向かっていく。
客車の中にいる魔術師の悲嘆を思えばますます胸が痛んだ。彼女は出会ったときには希望に満ちた表情をしていたのに、その輝きは日に日に失われていった。失わせたのは他ならぬ天使自身だった。彼女は期限が来る前に望んだ席を諦め、故郷へと帰ることを決断した。
しかし、失意の中であっても王都から離れていくことができる彼女を、天使はひそかにうらやましく思っていた。
天使は城壁の縁に足を掛けると、心臓の鼓動が速まるのを感じた。
城壁の向こう側、王都の外へ行こうと思えば可能だったが、足がすくんだ。それは自身の体が着地の衝撃に耐えられないからではなかった。
「こんにちは」
柔らかな声色で話しかけられ、目を見開いて振り向く。そこにはいつの間にか黒いローブに身を包んだ男が立っていた。
濡れたような艶のある黒い髪に、透き通った黒い瞳を持つ背の高い男だった。
驚きに固まっている天使をよそに、男は街道を見下ろして話を続ける。
「ああ、元護衛候補の馬車を見ていたのか。確かあれで三十人目だったかな。候補をすぐに追い返す無慈悲な天使様ってもっぱらの噂だったけど、さっきの表情じゃ落第魔術師たちのやっかみだったようだ」
天使は顔をしかめた。男の口調は終始穏やかだったが、天使の方はそうではいられなかった。わざわざ口にされたくない事実を列挙されて、苛立つのを止められなかった。
「君は誰だ?」
「ご推測の通り魔術師で、新しい君の護衛候補だ。ノイア・オブシウス、どうぞよろしく」
男の名前が大司教イレネウスから事前に聞いていたものと一致して、ようやく少しだけ警戒を解く。
「君がそうか、来るのが早いな。でも、よろしくとは言えない。頑張ってくれとだけ言っておこう」
「君から名乗ってもらえるくらいには努力するよ」
「……名乗らなくても私のことは知っているだろう」
天使が乾いた声で言うと、ノイアは当然とばかりにうなずいた。
「太陽神の眷属、その最後の一羽、剣の天使のルチア。棘ある薔薇の君。大司教イレネウスが後見人で、大聖堂の敷地内にある居館で慎ましく暮らしている。歳は十六で、五歳の時に王都に来てから一度も王都から出たことがない。巷では大聖堂による天使の独占を非難する声も大きい。王都内外の不満の高まりを受けてか、大司教イレネウスが天使に魔術師の護衛をつけると決め、天使を王都の外へ出す姿勢を見せた。しかし、天使本人はこれを拒否し、日々護衛候補たちと王都を舞台に追いかけっこを繰り広げていて……」
ルチアのひと睨みで、ノイアはすぐに話すのをやめた。
「一通りのことは知っているらしいな。だったらもう十分だろう」
踵を返すと、その背中にノイアが言う。
「もっと君のことを教えてもらえないの?」
ルチアは無視した。怒りを煽ろうとする見え透いた誘いだと思った。すっかり心がすさんでいるルチアは他人を信用しないのが癖になっていた。
「勝負の決まりはわかっているな? 君に与えられるのは明日から五日間だ。期限内に降参するなら大司教様に伝えてくれ」
ひらりと手を振ると、城壁の縁に足をかけ、さらに一歩踏み出して壁の向こう側へと落下した。軽やかに王都側の地面に降り立ち、城壁の上を見る。そこにはまだノイアがいて、風のない日の水面のように静かな瞳でこちらを見つめていた。
黒曜石の瞳の中に見えるのは儚い希望の光ではなく、力強い確信だった。焦って追いかけてこない余裕がそれをますます強調して見えた。
護衛候補はノイアで三十一人目だったが、彼のように自信と確信に満ちた魔術師がやってきたのはこれが初めてだった。
ルチアは眼差しを振り切るように歩き出した。
ノイアは階段も使用せずに三階建ての建物より高い城壁に登り、ルチアに気配を悟られないように近づいてきたのだ。おそらくは魔術によって。どれもこれまでの護衛候補にはできなかった芸当だ。
予感は忍び寄る影のようで、やすやすと振り払うことはできなかった。
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