第1話−1 スフェーンの夢

 ───不合格。



 学園から届いた封筒の中身は、スフェーンに絶望を叩きつけた。


 たった一言、『不合格』とだけ書かれたその書類を、スフェーンはしばらく呆然と見つめていた。しかし、いつまで経っても不合格の文字が合格に変わることはなかったし、スフェーンの破裂しそうな心臓が落ち着くこともなかった。 


 この日、スフェーンの夢も、希望も、これまでの努力も、崩れ落ちてしまったのだ。






 王国いちの教育機関であるニーア=イスカ修道院附属学園を卒業すれば、騎士や宮廷魔法士、聖職者、学者、議員、裁判官、大臣などの名誉ある職につける。また、修道院は他国との国境にあり、国内外から優秀な生徒が集まることでも有名で、卒業後のコネクションを作るという意味でも良い機会に恵まれるだろう。


 スフェーンは、そこに行きたかった。


 スフェーンは金持ちになりたいわけでもないし、周りから羨まれるような職に就きたいわけでもない。けれど、スフェーンの夢を叶えるには、ニーア=イスカ修道院附属学園に行くことが、ほとんど絶対的な条件だったのだ。


「おはようー!ブラザー!」


「ガーネット」


 ノックもなしにスフェーンの部屋のドアを開け放ったのは、スフェーンの唯一の親友であり、この学校の問題児────ガーネットだった。


 週末は必ず家族の元へ帰るガーネットは、今しがた寮に帰ってきたばかりのようで、手には荷物をいくつも抱えている。自室に寄るよりも先に、スフェーンに会いに来たらしい。


「なんだよブラザー!そんなに暗い顔しなくったってさ、卒業してもおれたちずっと友達だろ?もちろん、お前が、王都に行っちゃってもな!……だからほら、遠慮せずに言ってくれよ。お祝いのプレゼントも用意してんだぜ!」


「ガーネット」


 椅子に座ったまま動かないスフェーンに近寄って、ガーネットがその肩をぽんぽんと叩いた。彼はいつだって元気いっぱいで、底抜けに明るいが、今日はいつもの3倍は嬉々としている。


 仕方のないことだった。ガーネットは、スフェーンが不合格通知を受け取る可能性を完全に排除していた。正確には、ガーネットだけでなく、この学校の全員がスフェーンはニーア=イスカ修道院附属学園に進学すると確信していた。


「……スフェーン?」  


 黙りこくったままのスフェーンの表情を改めて確認したガーネットが、その異変に気が付いた。


 いつも冷静で穏やかで、滅多なことでは取り乱さないスフェーンの美しいグリーンの瞳に、涙の膜が張っていたのだ。それは、窓から差し込む朝の光をきらきらと反射して、どんな宝石よりも綺麗なものに見えた。


 しかし、それ以上にスフェーンの涙はガーネットの体温を奪った。一気に血の気が引いて、彷徨った右手が荷物を取り落とした。このとき、ようやくガーネットの脳内に最悪の事態が思い浮かんだのだ。


「落ちた。……………私、っ、わたし………!」


「ッ、スフェーン!ごめん!おれ、あの、そんなつもりじゃ!あぁあぁ………、泣かないでくれよぉ」


 ついに涙の膜は限界を迎え、ぼろぼろと大粒の涙が頬を伝う。必死に堪らえようとしているのか、眉をぎゅうと寄せてスカートを握りしめるスフェーンの姿は、痛々しい。


 こうなるとガーネットは慌ててしまって、何を言ったら良いのか分からなくなってしまった。なんせ、スフェーンが泣いている姿なんか、今まで1度も見たことがなかったのだから。学校に入学してから約8年間、ずっとである。


「えっと、……あー、大丈夫、大丈夫だから!」


 くしゃくしゃのハンカチをスフェーンの目元に押し当てて、ガーネットは彼女の背を擦った。なんの根拠もない激励が、スフェーンの鼓膜を揺らす。


 背中に感じる体温は、温かい。炎魔法が得意なガーネットの体温は、いつだって温かいのだ。───そして、彼の心もまた温かい。


「えぇ!?なんでもっと泣くんだよぉ!よしよし〜、よしよ〜し!大丈夫!大丈夫だぜ、スフェーン〜!」


 ガーネットの手のひらが、遠慮がちに、忙しなく背中を擦る。慌てたような声も、必死に泣き止ませようと紡ぐ言葉も、全てが温かかった。


 それが余計にスフェーンを泣かせるもので、ガーネットはずっと涙を拭う作業をやめられない。ついには、ひっく、ひっく、と不格好に息を吸う音が聞こえ始めて、ガーネットの焦りも加速していく。


「過呼吸になっちまうよ!ほら、ゆっくり息吸って、吐いて、大丈夫、大丈夫だから……」


 ガーネットが、優しくスフェーンを抱きしめる。自身の服が濡れるのも構わずに、震える体を守るように抱きすくめられて、次第にスフェーンの嗚咽が小さくなっていく。



 この学校の誰よりも強くて賢い少女だが、たしかに弱さも持ち合わせているのだと、少女の一番近くに居た少年は、この日始めて気が付いた。



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