第7話 カレンとセイレン

菅原先生は、見送るはずだった元クラスメイトの男子生徒を伴って、生徒指導室に入っていった。




私の名前が呼べるって事は、少なくとも、私の名前が呼べない特別クラスのクラスメイトよりは、力が強いって事だよね。


彼をどうするつもりだ?



私は、そんなことを考えながら、一人で教室に戻るように言われ、校舎を移動していた。



『もう、脅威はなくなったから、一人で大丈夫だよ』って、菅原先生は励ます様に見送ってくれたが、人気の無い校舎は怖い。


そう思っていると、柚木崎さんに名前を呼ばれた。



「りりあ、見つけた。 良かった。 会えた。  大丈夫だった?」


「柚木崎さん」


柚木崎さんは、私の来た道からまるで私を追いかけて来たかのように駆け寄ってきた。


「生徒指導室で、君を追ってきた奴のお守りを頼まれてたけど、菅原先生が変わってくれたから、急いで来たんだ⋯⋯。 無事で良かった」



柚木崎さんは、わたしの所までやって来ると、さも当たり前の様に、私の肩を抱き寄せて、自分の胸に私を押し付けた。



「柚木崎さん?!」


「りりあが無事で良かった」




そんなに喜ぶなんて、だからって抱き締めるなんて。


理解不能だ。




「柚木崎さん、近い」


「今回は、ボクらの失態だ。 りりあに何かあったら、ボクらの性だ。 ごめん」


「柚木崎さんも、りょうも、悪くないですよ」


何となく、二人が一つで今此処にいる気がしてこう言うと、驚いた顔をされた。


「りょういちの中の僕が分かるの? 」


「柚木崎さんっぽいけど、……りょうも居るって、此処にいるって、感じる」



二人共、好きだ。


怖くない、優しくて、楽しくて。


親しみやすい、笑顔を私にいつもくれる。


安心させてくれる。



私は今度は自分から、柚木崎さんの胸に顔を埋めた。


二人の存在を更に強く感じると胸が熱くなった。



「りりあ、顔を上げて。 僕のりりあ」



そう声をかけられ顔を上げる。




えっ?! 



どっちのアクションか迄は分からないが。


何故、そうされるか分からなかったが。



現実の生身だよね。今⋯⋯。



柚木崎さんは、私の頬に片手を寄せて、私の顔の位置まで屈んで、私にキスした。



私の唇に、柚木崎さんは自分の唇を躊躇いなく重ねた。


触れるだけなんてもんじゃなく、吸い付く様な激しいキスだった。





キス、初めて。


他人の唇、知らない感触?



キスしてくる柚木崎さんの顔に釘付けになって目を見開いていたが、心地よい感触と耳から聞こえる柚木崎さんの息づかいに、瞼が重くなり、目を閉じた。


遮断される視界とは裏腹に、柚木崎さんを感じる感覚や聴覚は冴えていくようだった。


これは、夢の中、レンズサイドじゃない。


目を閉じて広がる暗闇は、現実世界の証だ。



ちゅ……ッ……ちゅ。


角度を変えて、柚木崎さんは何度も私にキスをして、その度に、唇から濡れた音が漏れる。


あれ、でも。


否、わたし……こう言うの初めてじゃ、ない。



重なる唇から相手の体温が伝わる。


唇だけじゃなく、深く重なるクチビルの先の歯に触れ、舌にも触れ、柚木崎さんがわたしの唇の中に入って私のそれも絡められて、私も同じようにした。



嫌じゃない。


キスされている事で、されている事をそのまま、返して身を委ねる事で、私はそれが心地良くて、満たされていくような不思議な感覚を味わった。



「キミはみんなの大事なモノだ。物質ではなく、存在って言う意味で。 でも、僕は、大事なだけじゃない。 僕は、君が好きだ。 分魂する前より、なんで、こんなに、ますます君に惹かれて行くんだろう。 もう、キミはカミサマにはなれないのに。 どうして、どうしようもないくらい、君が好きで堪らないんだろう」



そういわれましても。


と言うかそもそも、好きって。


どっちがって、事だ?


柚木崎さんが、わたしを好きなのか?


それとも、りょうがわたしを好きなのか? 


分からない。


私は分からないまま「そろそろ、教室に戻らないと、二人が心配する。……ごめん。今は、離れているけど、もう少し待ってて、いつかきっと、君を迎えに行くから」と言う柚木崎さんと、その場で別れた。


だから、結局、真相は聞けずじまいだった。



教室に戻るまでの最中、ずっと考えていたが。


最後まで、分からなかった。 







教室に戻ると、鏡子ちゃんとセイレンちゃんがいて、私の帰還を喜んでくれた。



「ねえ、学園長がお菓子とジュース一杯くれて、18時に保護者がみんな迎えに来るから、それまでりりあちゃんが来たらお菓子パーティーして良いって」



あぁ、その机から溢れんばかりのお菓子の山の事か。



夕飯食べれなくならないだろうか?



どういう了見だ。


不可抗力とは言え、学校に不審者を招き入れて、特待生以外の全生徒は下校させ、学校に外壁の損傷やガラスが割れるなどの被害を出したのに。



「私、お菓子なんて食べて良いのかな?」


「えっ、りりあちゃん、お菓子にアレルギーあるの?」


「それは、ない。 鏡子ちゃん、そうじゃない」



私が鏡子ちゃんの天然通り越した見当違いっぷりに、頭を抱えていると、セイレンちゃんが笑顔で言った。


「りりあちゃん、気に病まないで。りりあちゃんは悪くないんだよ。 あと、鏡子ちゃんも悪気があるわけじゃないから、この破滅的な見当違いも許して上げて」



セイレンちゃん。



「学園長、お菓子のセンス半端ないね。ポッキーはアーモンドチョコにストロベリーだし。ROYCE'のチョコチップに、ホワイトチョコランドグシャに、ハリボーって、マジ乙女だよ」




鏡子ちゃん、興奮しすぎ。


あっ、おしるこサンドに、フルーツ寒天。


やだっ、ツボおさえてる。


仏壇菓子の定番で今のは、私の個人的好みだが。


学園長、恐ろしい子。



博多銘菓の三種の神器 通りもん、博多の女、南蛮往来だとっ。


やばい、やばいよ、うちの学園長。


別な意味で神だわ。


侮れん。




「りりあちゃん、格好良かったよ」



セイレンちゃんが言った。


私は照れ臭かった。


普段人に褒められる事がない、私にそんな賛辞をくれるなんて。


内容はどうあれ。




「カレンさんレベルだね」




鏡子ちゃんの言葉に私は首をかしげた。


また唐突に、何か気になる事ぶっこんできた。




カレン?


誰それ。


セイレンちゃんが、むっとした顔で抗議する。



「ストップ、鏡子ちゃん。ダメっ、またぺらぺら喋る」


「えっ、駄目だった? 口止めされてないから、良いと思って」



「つまり、私が口にしちゃ駄目な名前?」



私の言葉に、鏡子ちゃんは頷いた。



「うん、りりあちゃんが呼んだら、会いたいって気持ちを込めたら、気付いちゃうから、今は止めて欲しいかな」




今は止めて欲しい、の件(くだり)が気になる。







取り敢えず、皆でお菓子やジュースを開封して、ひとしきりパーティーを繰り広げた後、食べたお菓子を片付けていると、一人の見知らぬ女性が教室に現れた。



「お母さん」



セイレンちゃんが言った。


「華廉【カレン】さん」



鏡子ちゃんが言った。


と言うことは。


カレンって……、あぁ、セイレンちゃんのお母さんだったのか。


鏡子ちゃんのお母さんの要さんも若々しくかなりの美人だったが。


この人も、相当の美人だ。


要さん同様、カレンさんがいくつかは定かではないが、歳より随分若く見える。


とても高校生の娘が要るなんて、輝くようなまっさらな肌の張りからしても、とてもそうは思えないもん。


耳の下丈のショートカットで、MAMEDAベーカリーってロゴのT シャツに白のチノパン姿。


まさか、パン屋さん?かなと思った。


セイレンちゃんのお父さんはこの前、交番で警官してたけど。


「お母さん、まだ時間まで結構あるよ、仕事良いの?」


「早く来れば、ヒッキーに会わなくて済むと思って早引きしたのよ。 ハクに会わせたくないから」


ハク?


ハクって、誰?



「えっ、お母さんもハクが出てきたの?」


「そうよ、りりあちゃんが帰って来た日から、ハク、   おいで」



セイレンちゃんのママも、まあ、要さんもだが、私の名前呼べるってことは力があるって事だよね。


ハクって何かわからないけど。


そう思いながらも、セイレンちゃんのママの足元から、にょきっと、可愛らしい可愛く無いものが光輝きながら出てきた。



白蛇だ。


「きゃぁっ」


驚く私を尻目に、鏡子ちゃんはそんな私にお構いなしにその白蛇に駆け寄って行った。


「ハクさん、久しぶり」


「鏡子。相変わらず、場の空気が読めんな。 成長のなさに、お前と前に会ったのが昨日ではなかったかと、錯覚しそうだ」


「やだ、4年振りだよ。神様は時間感覚ないのかな?」



いや、今の話の件(くだり)から、鏡子ちゃんの空気読めない事に対する揶揄(やゆ)だと思うよ。


何か、みんな、私に色々隠したがるけど、鏡子ちゃんのすべすべした口は助かるよ。



鏡子ちゃんに内緒話は出来ないね。






「思ったより、普通だな。私は七封じの神獣、ハクだ。 ヒトガタは好まぬので、ケモノの姿でまかる。 機会あれば、そのうち、ヒトの姿でもあいまみえる事もあろう」 


ハクと言う白蛇さんはしゅるしゅると地面を這って、私に向き直り、首を上げて私を見つめる。



「えっと、懸 凛々遊【あがた りりあ】です。初めまして」


「知っている。⋯⋯初めまして、ではない。ワタシは、余所者の居候の様な身だが、敢えて言わせて欲しい」


「何でしょうか?」


「おかえり、選ばれた子」



選ばれた子?


おかえりって、ここに、この街に帰ってきて来た事を言うのなら。


そう言って、貰えると歓迎されてるみたいで、嬉しい。


若干だが。




「ありがとうございます。……えっと、ただいま戻りました」


「よく、戻って来た。……と言いたいが、嬉しい反面、不安でもある」


「不安ですか?」


「……呪いが、薄まっている。 それでは、また、狙われる。 身辺には、気を付ける事だ」




呪い?


私の髪の呪い。


えっ、そうなの?




 「えっ、ハク、呪い弱まってるの? 何で分かるの?」



鏡子ちゃんの言葉に、セイレンちゃんも、カレンさんも困惑した顔だった。



「4年前は肩から白かった。 今は、もっと下からだ。 何だ、本人も気付いて無かったか?」



私は徐に、手鏡を取り出し、自分の姿を覗き込むと確かに、今は肩甲骨の途中まで黒に戻っていた。



「いや、今朝は変化なかったよ。さっきの事が原因じゃない」


鏡子ちゃんが言った。


さっき?


自称神様と、対峙した時。



「りりあちゃん、さっき学校に押し掛けてきたカミサマを言葉で封じて、言霊の呪いも跳ね返してたけど、あれって、すごく力が居るんだよ。 ぴんぴんしてるから、感心してた」


セイレンちゃんの言葉に、カレンさんとハクは顔を見合せて、カレンさんが思い詰めた顔で言った。



「りりあちゃん、まさかと思うけど、ヒッキーと繋がってる奴に、魂を返して貰ったの?」



そう言えば、さっきからカレンさんも、呼んでたけど、氷室さんを呼ぶのにヒッキー使うんだ。


随分浸透しているな、みんなに。


氷室さんの嫌う愛称。




「えっ、ひむじゃなかった、ヒッキーと繋がってる奴って、……その繋がっている奴の名は口にしない方が良い?」


「そうね、あまり会いたくないから、やめて欲しいわ」


「じゃあ、話の流れから誰か分かりましたが、いえ、多分、魂が何か分かりませんが、返して貰ってないと思います。 何か分魂しているって、父が話して居ましたが、私の魂とやらは、一部切り離されているんですか」


「そうよ。無闇に狙われ無いように、呪われて力が殆んどなくなってしまっていると見せかける為に」



そうなのか。


りゅうは、私に魂を返しては居ないが強姦したのだが。


まさか、この場で、否、どんな場所でも、例え、誰にであっても。


絶対、言えない、言いたくもない。

 


でも、また新しい事を知ることが出来て良かった。



「レンは出てこんのか?」



ハクさんが、セイレンちゃんに向かってそう言うと、セイレンちゃんは苦笑いした。



「鏡子ちゃんが ウザイから 今は良いって言ってます。また改めて、で」


それは、残念なお知らせだ。





「随分早く来ているな。カレン」



ひとしきり、話しをした後、ハクさんが突然イヤなモノが来たと行って、消えてしまった。


そして、間もなく氷室さんがやって来た。


イヤなモノの正体が現れ、それが氷室さんだった溢れた笑いに、氷室さんは不愉快そうに私を見つめた。


「りりあ、急げ。   要が来る前に帰る。 カレン、リリアに変な話しをしてないだろうな」


「4年振りに、言うセリフがそれ? 髪の呪いが解けかけてるみたいだけど、良かったの? アナタは、本当にそれで」


「何の事だ⋯⋯」



氷室さんはカレンさんの言葉に、私を凝視して、狼狽えた。



「何をした? ハクか?」


「違うわよ、 みだりに私の大事な者の名を呼ばないで。 会いたくも無い癖に。 今日の事、聞いているでしょ? その時、変化があったんじゃないかって言ってたわ。 貴方、リリアちゃんを大事にしてるのよね? 随分、お粗末な事したみたいだけど」 


お粗末な事って、何だろう。


私がりゅうに強姦された事か?


いやいや、知らないよね。


いや、でも、りゅうとりょうが、何かで氷室さんと柚木崎さんと繋がって居るなら、知っている気もするが、否、そんな素振り見せた事ない。


そうは思いたくない。



「アイツが暴走して、見逃した。あんな、大物、逃して滅ぼし損ねたのは、俺の失態だ」


「そう? まぁ、でも、1つ言わせて」


「何だ、カレン」



何かお互いがお互いを威圧しあってる様な気がするのは、気の性だろうか?



「何のつもりで、あんたが保護者になったか知らないけど、私達の反対を押し切って、連れ戻したのよ。  りりあちゃんを 損なったら、許さないから」



カレンさんの言葉は、良い言い方ではなく、非難するような言葉なのに、氷室さんはカレンさんの言葉に急に張り詰めた様な緊張感を解いて、険が抜けたように静かに答えた。


「分かっている」


だが、ぐわしと私の手首を力一杯掴んで、氷室さんは、急いで鞄を掴みつつ引きづられて教室を後にした。


途中廊下で、氷室さんが危惧していた、鏡子ちゃんのお母さん、要さんと遭遇して、声をかけてきたのを無視して車に私を押し込んで車を走らせた。


多分、出会い際の要さんの第一声が『ヒッキー』だったのが一因だろう。



「りりあ、お前、今日何をしたか、説明しろ」


帰りの車で、私は今日知り得たことをハクさんとの話しを含めて洗いざらい嘔吐させられた。


何度か色々、新しく見聞きした事や、ハクさんに会った事をはぐらかそうと試みたが、偽証を即看破された為だ。


嘔吐だよ、こんなの。


でも、さすがに、柚木崎さんとキスした事は、言わなかった。


死守した。



 

 



家に着き、車が車庫に停まった事で、氷室さんは、まだ帰らないことを悟った。



今日も、書斎で仕事⋯⋯かな。


だと、良いな。


そんな事を思いながら車を降りると氷室さんは、私のところに来てまた手首を掴んだ。



「ひ、氷室さん?」



私は、氷室さんが、いつも通り、ちょっと不機嫌だけ。


いつもと何も変わりなく、普段通りだと思っていた。


でも、こんな事されるんじゃ、そうじゃないって事なんだ。



怒っているのか?



「目を閉じろ」




これは、何だ。


怖い……。


氷室さん、何で、何だ。


心の中が見透かされて、暴かれるような、この感覚は。



「えっ、何で?」


「見苦しいモノが見たくないなら、閉じろ」



そう言うと、氷室さんは私の手首を掴んだまま、もう片方の腕で、私を抱きしめた。


何を血迷った?


氷室さん。


えっ、どういう事だ。




「氷室さん、これ……何ですか?」




氷室さんは、人前では吸わないけど、よくたばこを吸っている。


だから、時々、衣服から煙草の匂いがする。


でも、私はそれが決して嫌いじゃなかった。


寧ろ、何か安心する時さえある。


いつも、仄かに感じるそれが、ずっと長く感じられる。


なのだが、今はそれと裏腹に、胸が不安で一杯だった。


嫌な予感もする。



「離して……下さい。お願いします、離れて」


「少し、黙れ。……ナニが変わった。 分からん」



至近距離過ぎる。 


抱き締めて、何が分かる。


心底不思議そうな顔をして、顔を近付けて来る。


氷室さんの顔をこんなに間近で見るの初めてだ。


出来れば、節度を守ってくれまいか。



異性に密着されるのは、怖い。


顧問税理士 兼 未成年後見人の関係なんだ。


24歳、歳は離れていても、男の人は、男の人で。


私は、生物学的上、女なのだ。


不適切だ。


抱き締めのも、こんなに距離を詰めて私を見つめるのも。




「えっ、あの⋯、変わるって? 氷室さん、恥ずかしいから、こう言うのは、嫌です」


「だから、目を閉じろと言っている。 もう一度言うが、少し黙っていろ。   何故、力が戻った。 魂は欠けている。 今のお前の器で、何故⋯⋯」



氷室さんは、手首を離した。


再度、目を閉じろと言われたのを無視して、手を離されてホッとしたのも束の間、私は逃げようと身を引いたが、間に合わなかった。


首もとに伸びて来る手から、逃げられなかったのだ。


氷室さんは、私から手を離して、その手で次は、私の首を捕らえて、締め付けた。


「えっ、氷室さ。 …………ん、ん、……くっ、ゃっ」



結構な力で絞めてる。


殺す気か?


何で、私。



「目を閉じていろ。見ていても、余計に怖いだけだ……」



い、いや、そ、その前に首を絞めるのをやめて貰えまいか。




「かっはっ⋯⋯。や、やだ、やめて⋯⋯殺さないで」



苦しい。


怖い。


マジで。



不意に、背中から超絶すぐ分かる嫌な気配がしたが、苦しくてそれどころではない。


なのに、声まで聞こえて来て、私の頭は、窒息の苦しみに勝る、恐怖を脳裏に刻んだ。



「何の⋯つもりだ。りゅういち⋯⋯りりあから手を離せ」




りゅうだ。


嘘。


えっ、今、現実世界なのに、どうして。


私は、死に物狂いで、氷室さんの手を払ってその場に座り込んだ。


「げほっ げほっ……りゅう。何で……」

 

りゅうが現実に、現れた。


氷室さんの事、名前で呼んだ。


本名、氷室 龍一。


最初に、聞いてたけど。


何でだ?


ってか、どうして。


何だか。


身体中が重い。


きつい、眠い、息苦しい。


身体から力が殆ど抜け出して、空っぽ一歩手前みたいだ。



「……愚かな。そんな事をしても、無駄だ。  此処が何処か分かっているだろう」


「りりあの魂が強い。これでは分魂した意味が意味がない⋯⋯」


呆れたような途方に暮れたような様子で、氷室さんは言った。



「では、再び、新たに分魂して力を閉じるか?」


「巫山戯るな。 これ以上、何を核に出来る。 言葉も忘れさせる気か?」


「お前が望むなら? まあ、確かにあまり勧められた事では無いな。 丁度良い⋯無知加減で、扱い易かろう? お前の言う事をよく聞くじゃないか⋯⋯」


どう言う意味だろう。


馬鹿にされた様な気もするが。


力が弱まっていると見せるために、私の魂を切り離したと言う話は聞いたが。


その言いようだと、私って昔、氷室さんにとって扱いにくい存在だったみたいじゃないか。


氷室さんを手こずらせる存在なんて、要さんぐらいしか知らないが。




「約束は守っている。出て来るな」


「確かに。  だが、お前でも、許さない。  約束を守っていても、勝手にりりあを苦しめるな。 それは     俺だけの特権だ  」



認めん。


勝手なこと言うな。


そんなの私はみとめないからなぁああ!

 

私は、心の中で絶叫した。







氷室さんは、りゅうが消えると、無言で一瞥もなく、車に乗り込み帰って行った。


えっ、首絞められてへたり込んでる私を、振り返ることも無く帰って行ったが。


それは、いくらなんでも、無くないか。


謝罪は無くとも、安否確認的な意味で、「大丈夫か?」の一言でも欲しくて泣けてしまった。




怖かった。



氷室さんに首を絞められた。


その事実に胸が傷んだ。


氷室さんは、冷たくて、いつも機嫌悪くて、厳しいけど、そんな事をする人だと思わなかった。


思いたくなかった。



翌朝、私はちょっと身体がだるかった。


と言うか、昨晩、氷室さんに首を絞められてから、だ。


何とか、作り置きの夕食を温めて摂り、お風呂に入って寝床に着いたが、朝、ベッドから起き上がれなかった。


トントン


部屋をノックする音が聞こえた。



「りりあ」


氷室さんの声だった。



「まだ、準備出来ていないのか?」


部屋の時計に目をやり、家を出る時間を過ぎていて焦ったが、昨夜、首を絞めてその場に放置しておいて、かける言葉がそれか? と呆れた。



「すみません、起き上がれ無いんです」


「出て来い」



起き上がらずにどうやって?


仮病じゃないんだよ。



「出来ません」


「⋯⋯分かった」



お帰りくださいな。


さすがに、何が癇に触ったか知らないが、首を絞めた挙げ句放置された人に、すすんで会いたい気にはなれない。


明日もどうだか、もう暫く⋯⋯さすがに顔も見たくない。


心の中でそう呟いて目を閉じた。



「昨夜はやり過ぎた。⋯⋯悪かった」



そう聞こえたのはすぐ傍だった。


慌てて目を開けると氷室さんがベッドのすぐそばでかがみ込んで私を見下ろしていた。



ジーザス【なんてこった】。


マンマ・ミーア【なんてこった】。


私は目を再び閉じて、視界の遮断を確認して、絶望した。


これは、現実だ。


何で、眼の前に、居るのだ。


ってか、大事な事だから、まず聞きたい。


何故なら。



「⋯⋯部屋、鍵かけてませんでしたか?」


「お前が昨夜、部屋の鍵を閉めたなら、そのままのはずだが」



つまり、ドアを使わなかったという意味か?



「氷室さんもレンズサイド行けるんですか?」


「お前に出来ることが俺に出来ない筈がないだろう?」

 


何か、前にもう自分は何も出来ない、行けないって言ってたけど錯覚か。


いや、眼の前の氷室さん自体が錯覚なのかも知れない。


ってか、て言うかさ。


やっと。


やっと、今更、昨日の事、どさくさに紛れて謝ったし。


ずっと、まず最初に私、その言葉欲しかったのにさ。



「学校には、欠席の連絡を入れておく」


「えっ、休みたくないです」


「起き上がれ無いのにか?」



誰のせいだよ。



「嫌……」


「そんなに学校が好きか?」


「好き……だから、とかじゃなくて……」



金曜のお出かけを有耶無耶にしたくない。


今日は水曜日だけど。


明後日の金曜日。


氷室さんがそれを理由に、取り止めにしやしないか、気が気じゃない。


かりんとうを食べたいのは勿論、友達と外で遊びたい。


今まで、出来なかった。


だから、今回限りなのかも知れなくても、良い子に過ごして、気持ちよくその日を迎えたい。


何の後ろめたさもなく。



「ここに、残るのが怖いからか?」


「違います」



氷室さんは、小さく溜め息を付いた。



「じゃあ、俺の顔を見なくて済むからか?」


「違います」



氷室さんの眉がだんだんつり上がっていく。沸点が恐ろしく低いから、すぐ沸騰してしまう。



「ほんとうにか?   思い付かん。 理由はなんだ」


「金曜日、気持ちよく、みんなとお出かけしたいから、学校を休みたくない。良い子に……するので、金曜日、やめないで下さい」



氷室さんは、私の言葉に目を丸くして、暫く固まった。



「阿呆。    お前は、イマノトコロ良い子だ。心配するな。 可能な限り、希望には添う。今日は休め」


じゃあ、休もう。


だって、起き上がらずに学校は行けない。


そう思ったが、まだちょっと不安で、私は氷室さんに言った。


「約束ですよ」


「……あぁ、約束しよう」


「指切りしましょ」


何の意味もなさない他愛ない事だ。


そう思っても、考え付く限りの約束の証が欲しくて、私は15にもなって、それも40過ぎのおじさん相手に何言っているのか。


そんな事、氷室さんものってくるとは思えないし、限り無く私の望みに答えると言ってくれているのに、『この上、くどい』と言われるかも?と思った。





「お前は、俺に信用が無いのか?」


「いいえ、かたちは……なくても、証が欲しいんです。私、それを心の支えにしたい」


氷室さんは、私の言い分に柄にもなく自然な笑顔をわたしに見せた。


こんな笑顔も出来るんだ。


この人。


思わず、感心していた。


「分かった、応じる。 手を」


氷室さんに促されて右手を差し出し、小指を立てると、氷室さんも小指を立ててそれと絡めた。


氷室さんの手、嫌いじゃない。


大きくてキレイな指……首はもう絞められたくないけど。


この手を、この指を、私は嫌いになりたくない。


そう心の中で祈りながらも、指切りをした。


それを終えた後、氷室さんは部屋を出ていった。




私の部屋の鍵を開けて、ちゃんとドアから。






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