第一章 強欲のレイピア

第5話 禁術 1

 アンドレアスが生存者の女性を安全な場所に移そうとしたその瞬間、何かが彼の体にぶつかり、彼は地面に転がった。

 驚いて顔を上げると、そこにはまだ幼い少女が立っていた。少女の目には涙が溢れており、顔は泥とすすで汚れていた。

「どいて!」

 少女は叫びながら、倒れた女性に駆け寄った。歴戦のアンドレアスが怖じけるほどの迫力であった。


 ☆☆☆


 女性がなにごとか少女の耳元へ喋りかけ、髪の毛を撫でて――その手が落ちた。

 それから、永遠とも思える数秒が過ぎた。


 彼の前に立つ少女は目を燃やすように輝かせていた。小さな体躯に黒い瞳に黒い髪。ここらでは見ない人種である。

 少女からは、可愛らしい外見からは想像もつかない激しい怒りが放たれている。

 その小さな手が震え、次第に握りしめられていく。その手には、途方もない悲しみと、抑えきれない怒りが凝縮されていた。

「誰が……」少女の声は低く、しかし明確な怒りに満ちていた。


 アンドレアスが立ち上がろうとしたが、その時、少女が突然、異様な動きを見せた。少女は立ち上がり、周囲を一瞥するやいなや、次の瞬間にはその場から消え去った。

 アンドレアスが目を見開くと、少女はまたしても、母親の遺体の傍らに移動していた。

 まるで時間そのものを飛び越えたかのような速度だった。彼はその動きに驚愕し、動けないまま、ただ少女を見つめるしかなかった。


「赤ちゃんまで殺して――」

 少女は母親の体に寄り添い、顔を見上げた。その瞳は今にも溢れそうな涙で潤んでいたが、その中には怒りが燃えていた。少女は静かに立ち上がり、母親の手をそっと握りしめた。

「許さない……絶対に……」

 少女の言葉は小さくとも、決して揺るがない決意が込められていた。


 次の瞬間、少女の周りの空気が変わり始めた。

 まるで闇が凝縮されていくように、少女の体から黒いオーラが立ち昇り始めた。

 地面が震え、風が強まり、村全体がその魔力に包まれていく。


 少女は目を閉じ、両手を空に向けて広げると、古代の言葉を紡ぎ始めた。その言葉は、どこか異様で不吉な響きを持っていた。少女の体から溢れ出す魔力は、次第にその場全体を覆い、周囲の温度が急激に下がっていく。


 少女の唱える呪文は、次第に加速し、力強くなっていった。

 その姿には、幼い少女の面影はなく、ただ一人の強大な魔女がそこに立っていた。

 母親を奪われた怒りと憎しみが、少女を突き動かしていた。

 村は静まり返り、すべてが少女の魔力に支配され始めた。

 何もかもが、その力の前に無力であるかのように。


 周囲の空間が歪み、圧倒的な力が押し寄せてくる。

 アンドレアスは目を開けているのも辛くなってきた。

 少女から黒く渦巻くオーラが立ち昇り、それが次第に凝縮されていくのが見て取れた。

 アンドレアスは、その異様な光景に恐怖を覚えた。

「待て! その魔法は……!」

 アンドレアスは、少女を止めようと叫んだが、言葉は届かなかった。

 少女はただ、母親だろう女性に向けた悲しみと怒りの表情を浮かべ、軋り出すように恨みの魔法を紡ぎ続けていた。


「黒魔法? 呪いか?」

 少女の力はますます強まり、そのすさまじい魔力が周囲の空気を震わせた。

 アンドレアスは、ただ立ち尽くし、その破壊的な力の行方を見守るしかなかった。

 魔力は村を覆い、空気が異様に重く、まるで地そのものが震えているかのように感じた。

 少女の体から放たれる黒いオーラは、ますます濃く、激しく渦巻いていった。その中心には、少女の恨みと怒りが凝縮され、怨念がまるで生き物のようにうねりながら膨れ上がっていく。

 オーラは次第に形を成し、おぞましい塊へと変貌を遂げていた。


 アンドレアスが怨念の塊に手を伸ばす。

 少女の心を覆っているのは、母親を失った絶望と、そしてその原因となった何かへの計り知れない恨みだった。

 黒い炎にアンドレアスの指が触れた途端、耳の奥に轟音が鳴りとどろいた。

「素人が邪魔すると死ぬわよ」

 少女はアンドレアスを見下ろし、冷徹に言い放つ。

 手負いの猛獣のような殺気であった。


 その瞬間、少女が唱え終えた恐るべき呪術が、完結した。

 強烈な黒い閃光が一瞬にして辺りを包み込み、全ての魔力が恨みが怒りが、少女の掌の上に集約した。

 どこまでも黒い怨念の塊であった。


 アンドレアスは、その異常な光景に恐怖を感じ、身震いしながらも少女に向かって手を伸ばした。

「ちょ……ちょっと待て!」

 声は震え、恐怖に満ちていたが、それでも彼は必死に叫んだ。

 しかし、少女の目はアンドレアスの声など耳に入らないかのように冷たく光っていた。

 少女は怨念の塊を手にし、それを一瞬たりともためらわずに空高く掲げた。


 アンドレアスは必死に少女に近づこうとしたが、その瞬間、強烈な力が彼を突き飛ばした。

 彼は地面に倒れ込み、息が詰まるような衝撃に耐えながらも、必死に立ち上がろうとした。

 少女はアンドレアスを振り払うように一瞥した。黒い瞳は真っ赤になり、髪の毛は逆立ち、悪魔のような形相であった。

 アンドレアスは恐怖で凍りついて動けない。


 少女は、怨念の塊を解き放った。

 黒い光の塊は音もなく空を裂き、恐ろしい速度で飛び去っていく。

 それは村の上空を通り抜け、彼方の山の向こうへと放たれ、遙か遠くからでも生き物の悲鳴が轟き渡るのが聞こえた。

 黒魔法は生気を喰らいながら、標的を仕留める――魔王が行使した魔法である。


 アンドレアスは立ち尽くし、息を呑んだ。怨念の塊が消えた後にも、空気にはまだその冷たさと不吉さが残っていた。彼の心臓は激しく鼓動し、全身が恐怖で震えていた。


 少女はその場に立ち尽くし、母親の体を見下ろしていた。

 少女の顔には、怒りの残滓が残っていたが、同時にその目には虚無が広がっていた。

 少女が放った怨念の塊が何をもたらすのか、それは誰にも予測できなかった。

 ただ一つ確かなのは、少女が放ったその力が、計り知れない破壊と災厄をもたらすものであるということである。


 それから、少女が声をあげて、いつまでも泣いているのを、騎士は呆然と眺めていた。

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