ネコ

四角形

にゃ


「にゃ」

「にゃー」

 

 どちらが先に声を出したのかは、分からなかった。とにかく、朝起きたら僕らは互いに、順番など関係なく挨拶を交わす。それが猫社会の、礼儀ってもんだからだ。


「にゃっ」

「にゃー」 


 小ぶりのくせに、もふもふの毛で覆われたヤツは、着太りするタイプみたいだから、平生随分ずんぐりむっくりして見える。だから、風呂に入れてやるときは、いつもたまげる。別人みたいに細くなるからだ。あと、水が怖いみたいで、嫌がるのが、困りものだ。ただ、触り心地は、やっぱ、ふわふわ、もちぃって感じだから、ちょっとは太ってんだろうな。


「にゃ」

「にゃー」

 

 ヤツはのほほんと生きている。器用なやつで、自由にどこでも飛び乗るし、ドアも自分で開けやがる。色んな場所に行くのが好きらしくて、あらゆる部屋を津々浦々、どこに行ってもヤツはいる。やりたいことをやる。そうやって生きてるんだろう。だから、普段はごろごろしてるか、寝てるか、気まぐれに甘えてくるくらい。猫って、何が楽しくて生きてんだろ。たまに思う。でも、頭を撫でてやると、わかりやすく幸せそうに目を細めるので、それで十分なんだろうな。これでいいのかって思うけど、また、頭を撫でてやった。いい声で鳴く。これでいいんだろうな。


「にゃ」

「にゃー」


 ヤツはとりわけ、頭を撫でるのを好む。うざったいったらありゃしない。どうやら満足いくまで撫でてほしい困りものさんらしく、仕事を途中で放棄すると、ごろごろ唸って頭をこすりつけてくるものだから、面倒くさい。そもそも僕は猫アレルギーで、そう長くは撫でてやれない。と思ったら、ちろりと僕の手を舐めて、やつはそこに頭の裏を擦り付けた。人をなんと思っているんだろう。こいつ今、多分、僕を自分の舌(掃除道具)が届かない部分を掃除するための道具として扱ったな。


「にゃふんっ」

 飯を食うのが大層好きだそうで、ヤツはキャットフードにありつくと、貪りつくように食べて、終わったら満足そうにごろんと寝転がって、はしたなくげふっと息を漏らす。人として生を授かっていたら、なんていう体たらくになっていただろうと、いつも心配する。


「にゃ」

「にゃー」

 

 猫社会の礼節には、僕ももちろん従う。とりわけヤツは礼儀にうるさい。帰ったら、まずただいまと挨拶をする。それがヤツと僕の礼儀だ。また、どちらが先に言ったかは、分からなかったけど。


「にゃ」

「にゃー」


学校で嫌なこととかあって、落ち込んでる俺を見てか、ぴょこんとやつは椅子の横に飛び乗ってきて、黙って隣に座り込んだ。ありがとうと頭を撫でてやったら、途端に態度が翻って、ごろごろまた甘え始めた。計算高い猫だ。ヤツめ、これが最初から目当てだったのだ。


「」

 声が、しなかった。ヤツは、礼儀にうるさい。でも、朝起きたのに、おはようがなかった。だから僕も返さないのかというと、そうではない。


「にゃー」

 

 不貞腐れるように僕から言ってやると、ヤツはてくてくと歩いてきて、唸った。頭を撫でてほしいらしい。猫は、これが楽しいのかな。何が楽しくて、生きてんのかな。お前は、これで、幸せなの? 思いながら、頭を撫でてやる。目を細めて、ヤツは唸って、僕の手に頭を擦り付けてくる。そっか。これで幸せなら、いくらでも撫でてやる。手に硬い何かが触れる。変だなって、思った。


「」

 ヤツは、たまに格好つけている。黄昏れている。窓際に座って、外を眺めてる。ヤツは体が弱いし、頭が弱いから、放し飼いとかしないし、散歩もさせない。親が決めたルールだ。確かに、帰ってこなさそうだし。

 そっか、って、後ろ姿を見て気付いた。本当は、外、行きたいのかな。ちょっと、玄関を開けてやったら、わっと外に飛び出すものだから、焦った。走って、追いかけて、追いついて、そしたら、ごろごろ唸り始めた。結局、頭を撫でてほしいみたいで、それでこいつは十分なんだろう。二人で、家に向かって、てくてく歩いた。ヤツが転んだ。だから言ったのだ。体が弱いのだから、こいつは、無理しちゃだめなんだ。


「にゃっ」

 ヤツは水をやけに怖がる。ただ、外には危険がいっぱいで、虫とか結構面倒くさい問題で、綺麗にしてやらないと後々大変なことになる。だから、風呂に入れてやったら、暴れまわるものだから、驚いた。押さえつけるように体に触れて、変だなって、思った。水でびしょ濡れになったやつは、やけに細く見えた。ゴツゴツで、骨の輪郭が浮き彫りになっていた。ヤツは、もふもふの毛で覆われていて、着太りするタイプみたいだから、ずんぐりむっくりして見える。だから、気づかなかった。こんなにも、痩せこけていたっけな。これで何にも気づかない僕は、多分大馬鹿者なんだな。


「にゃ」

 甘えるような声がしたから、下を見たら、ヤツがいた。ドアを開けろと言いたいらしい。お前、自分で開けれなかったっけ。思ったけど、僕は親切なので開けてやる。ヤツはお礼もせず歩き出して、僕の部屋に向かって、あろうことかベッドで寝転んだ。なんてやつだ。僕は猫アレルギーなのだ。だからお前とは、寝てやらない。追い出したら、甘えるような声で鳴いた。甘えたいのか。いや、多分寂しかったんだな。


「」

 やつは、窓を見上げていた。遠くから眺めていたら、やつがよじ登るように窓際に飛び乗ろうとしていて、ようやく気づいた。もう、歳なんだな。親切な僕が窓際まで運んでやると、やつはじっと外を眺めていた。そっか。お前は、やっぱ外に出たいんだな。まあ、出してやらないけど。なんか、いなくなっちゃいそうで、怖いんだよ。分かって、くれないかな。……これでお前は、楽しい? なんとなく不安で、頭を撫でてやったら、やつは飛び降りて、僕の足に頭を擦り付けてきた。お前さ、これでいいんだって、嘘、ついてないよね? 不安になる僕は、面倒な人間なんだな。


「」

「にゃー」

 ヤツは、みるみるうちに弱っていく。見るも耐えないほどで、すぐに満足に歩けなくなった。気づいたら、ヤツの生息地はリビングだけになっていて、とりわけ僕の膝下がヤツのホットスポットになった。足を引きずって、ヤツは歩く。キツそうで、痛そうで、でも、必死になって僕のもとにやってきて、ヤツは甘えた声で鳴く。そんなに頑張ってまで、撫でてほしいのかよ。きゅっと唇を結んで、頭を撫でてやる。幸せそうで、ほんと、幸せそうで、ごろごろ唸ってて、馬鹿みたいで、何もしてやれないのが歯がゆくて、無力で、ちっぽけで、とにかく、頭を撫でてやる。手を止めたら、「にゃっ」って、怒って、なら、毎朝の挨拶、ちゃんとしろよ。声、出せるならさ。「にゃっ」って、怒るなって。そうやって、また、撫でてやる。ごめん、なんて、言っても分かんないだろうけど、なんか、言葉が漏れた。ごめん。これしかできなくて、ごめん。手が痒くて痒くて、撫でるのをやめた。僕は、猫アレルギーなのだ。許しておくれよ。


「にゃふん」

 甘えた声で鳴くメスがいると思ったら、ヤツだった。母さんに抱きしめられて、幸せそうに鳴いている。まったく、はしたない猫である。と思ったら、ヤツは足を引きずって僕のもとまでやってきて、ぐでんと横になった。撫でてやったら、そうじゃないとでも言いたげに唸ってきた。しかし抱きしめたらどうなるかは知ってる。命に関わるほどじゃないけど、結構ひどいアレルギーで、難しいもんだなって、思う。つまらなさそうに唸るくせして、結局幸せそうに目を細めてる、簡単なやつだ。


「」

 ヤツは、わりと限界らしくて、意識朦朧ってほどじゃないけど、日中ぐだーってしていて、とうとう、僕のもとまで歩くこともなくなった。トイレをするのも一苦労で、別にもう、どこで排泄したっていいのに、ヤツは気難しいお嬢様なものだから、やっぱりトイレでしたいらしくて、でも、トイレでするとヤツは、いつも力尽きて、出られなくなる。ちょっと、縁があるものだから、それを超える気力もなくなるらしい。トイレで眠りこけそうで、どうしたものかって思ったから、チュールとやらを買ってみた。そしたら、現金な奴め、びーんと元気になってトイレから出てきて、舐め始めた。どんだけ美味しいのだか。お預けすると、途端に追いかけようとしてきて、手を伸ばしてきて、なんか、それが妙に苦しかった。我が家はとりたてて裕福な家庭じゃないから、こういった嗜好品は普段与えていなかった。でも、やっぱお前も、好きだったんだな。もっと早くあげてればな。もっと、楽しい日々に、させてやれてたかな。


「にゃ」

「にゃー」

 声がしたから、反射的に返したら、ヤツがいた。挨拶、できるようになったんだ。ちょっとは回復したのだろうか。チュールで元気でも出たか。そういえば、外。ふと思って、ヤツを持ち上げた。その軽さに驚く。ただの思いつきだった。外、見たいのかなって。猫って、普段、生きてて楽しいのかなって思う。ただ、こいつは、外を見るのが好きだったから、見せてやったら喜ぶかなとか、思って。でも、ヤツは外に出ても、見向きもせずで、腕の中でごろごろ唸って俺の手をちろちろ舐めてる。そっか。それで、十分なんだな。ヤツをおろして、身体に痒みを感じる。少し、長く、触れすぎた。思ったけど、その後も撫でてやった。満足そうだ。そっか。それで良かったんだな。ぐでんと、やつは横になる。抱きしめろってこと? ごめんけど、それは無理かも。


「」

 ヤツは、やっぱり撫でられるのが大好きで、どれだけ力尽きてても、撫でてやると幸せそうにするし、やめると怒る。ただ、僕にも予定があるのだから、分かってほしいものだ。僕は生粋の遅刻魔で、ただでさえ次遅刻したらまずいことになるので、大焦りなのだから、僕の歩みを止めさせないでほしい。「にゃっ」なんて苦しそうに鳴く。キツそうなのに、必死に首を持ち上げて、立ち上がって、歩こうとするものだから、止めた。そんな頑張んなよって、言ってやった。帰ったら、撫でてやるから。いくらでも撫でてやる。実際そのつもりだった。ぐでんとやつは横になる。不貞腐れたのか、抱きしめてくれと言ったのか、僕には分からなかったけど、とにかく大焦りの僕は、家を飛び出た。


「にゃー」

「」

 って言ったって、返事はなかった。帰ったら、ヤツは随分と綺麗な身なりで、毛布に包まれて眠っていた。泣いている母さんを見たら、すぐ分かった。ヤツは、いなくなってしまったのだ。理解した途端、急に涙が込み上げて、でも、我慢した。我慢してなんの意味があるのか分からなかったけど、多分、男の子のくだらないプライドなんだな。撫でてやったら、硬くて、冷たくて。幸せそうな顔して、眠ってる。我慢とか、まあできるわけなくて。泣いて、泣いて、抱きしめた。硬いし、冷たいし、でも、ぎゅっと、強く抱きしめた。なんでだよって、思った。なんで、もっと早く、こうしてやらなかたんだ。ボロボロ蕁麻疹が溢れ出て、全身痒いし、目なんて、パンパンに腫れて。でも、抱きしめた。お前、楽しかった? 猫の一生、楽しめた? チュールもやらなかったし、外にも行かせなかったけど。多分、違うよなーって、思うよ。だから、せめて、抱きしめてやればよかった。ごめん、なんて言っても、届かなさそうだけど。

 お前さ、最後、頑張って、立とうとしたじゃん。バイトに行こうとする僕に、着いてこようとしたじゃん。止めなきゃよかったって、思うよ。せっかく振り絞ってくれた最後の力だったのにな。ごめん。寂しかったよなー。だよなー。

 

「にゃー」

 そう言って、また声が返ってくるとか、ありきたりなご都合主義、ないよなぁ。

 

 ただいまとか、言っちゃうよ。いなくなっても、想像するよ。生活の一部だったし、喪失感は多分、この家に住んでる限り拭えないだろうな。もっと、写真とか撮っておけばよかった。もっと幸せにしてやりたかった。

 俺はね、ありがとうって、ひたすら思うよ。俺は幸せだったよ。家に帰ったら、お前がてくてく歩いてやってきて、柄じゃないくせに、つかキモイけど、「にゃー」とか声かけて。心地よかったんだな、それが。いつかまた、会いたい。というか、今すぐ会いたい。また、会えるかな。


「にゃ」

 返事はなかった。ていうか、しなかった。さめざめと雨が降っていて、傘に打ち付ける騒がしい雨音ばかりが、耳元を覆っていた。ぴしゃりと水たまりを踏んづけて、瞬間、雨音を突き抜けてヤツの声が聞こえたものだから、つい水たまりに浸かったまま足を止めた。防水加工とか一切ない安物の靴だから、靴下まで水が染みてきたっけな。 ヤツのために傘をさしたから、ランドセルの中身、ぐちゃぐちゃになったんだっけ。

「にゃー」目があったから、なんとなく返事をしたら、ヤツが返した。「にゃ」



 

 始まりのあの日見たく、会えたら良いな。

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