第42話 誰がための奇跡 9
「このまま行けば――何周目かはわからないが、僕は怪物になるだろう」
そう言った途端、サダコと恵理の呼吸が僅かに乱れ、喉がごくりと動くのが目に入った。
僕も自分の言葉にひどく冷たさを感じ、意識の底から押し上げられてきたような不快な感触に身を震わせる。
「僕は上原から手紙を受け取った。良い手紙だったよ。その頃はまだ、まともだったのかもしれない」
あの文字を思い出すと、今の彼とはまるで別人のような、かつて理想を掲げていた上原の姿が脳裏に蘇ってくる。
遠い記憶の中に封じ込められている何かを、そっと呼び起こすような手触り。
今や異形の存在となった彼と、あの手紙をしたためた上原が同一人物だとは、到底思えなかった。
「そういえば『三周目の僕へ』って書いてませんでした?」
サダコが記憶を辿るようにそう指摘する。僕は小さく頷いた。
「そうだ。つまり、上原も同じ手紙を手にして、僕と同じ軌跡を辿ったということになるね」
サダコは信じがたいとでも言うように首を振る。
「信じられません。先生が怪物になるなんて」
恵理も同じ気持ちのようで、険しい表情をしている。
「それは私も、そう思う。あなたが、他人の命をなんとも思わない怪物になるとは思えない」
彼女たちの言葉に、一瞬安堵する。
だが同時に、自分が怪物へと変わる未来を否定できない何かが胸の奥で疼いている。
「でも――事実、僕が辿った道程がわかっているから、神社でも新田でも――」
口に出してから、自分の中で何かが途切れるのを感じた。
「新田?」
「前のあなたなのよね?」
恵理が慎重に言葉を選びながら口を開く。
彼女の中で、新田が彼女を殺害した記憶は、今も鮮明に刻まれている。
言葉に潜む恐怖が、微かに空気を震わせるのを感じた。
「言われてみれば、僕も前回は荒れていた。でも……怪物から何らかの干渉を受けたとしても、人殺しまでするかといえば――絶対にノーだ」
「先生じゃないんですか?」
サダコが問いかける。
彼女の瞳には、不安と希望が入り混じっていた。
「少なくとも、恵理。君を殺害したのは前回の僕じゃない」
自分でそう言いながら、その言葉がどこまで真実なのかに自信が持てない。
「もっと疲弊して、摩耗して……人間性がすっかりなくなった、廃人に近い。同じ時間をもっともっと何周もしたような――」
このままの道を進むと、僕もそうなってしまうのだろうか――。
「あの――この会話も経験しているということなんでしょうか?」
サダコの問いかけに、僕はしばらく思案してから答えた。
「わからない。でも、はっきりしているのは、キーポイントとなるものに変化はないってことなんだ。上原のブログ、鏡山村の社務所、そして君、サダコの存在。というか時間の境目で生まれ直したって記憶もないんだもんなあ。変わりようがない」
「確かに社務所から銅鏡は持ち出せないし、上原のブログだって……どうして削除しないのかしら?」
「撒き餌なんじゃないか?」
僕はふと考えを巡らせる。
「ブログには僕個人を指すような記述はなくて、ただ『特性追跡者諸君へ』と書かれている。つまり、ループを経験した人間を鏡山村へ誘導するための罠かもしれない」
「ブログで釣っているってこと?」
恵理が考え込むように首を傾げた。
「でも、少し効率が悪いように思えるわ」
「いや、そうでもない」僕は周囲に気を配りながら静かに続けた。
「もし彼が何周もしているなら、たどった道筋や、特性追跡者が集まるポイントがわかっているはずだ。そこに手紙や謎めいた物を残しておけば、自然とブログへ誘導される仕組みになる」
「特性追跡者が鏡山村へ取材に行ったり、映画に出演したりすれば、偶然を装えるわけね」
恵理が理解した様子で頷くのを見て、少しばかり安堵したが、心にかかる影は消えなかった。
短い沈黙が流れ、冷たい夜風が身を突き刺すように吹きつけてくる。
何度も繰り返される記憶と苦々しい思いが、僕たちの間で重くのしかかっていた。
「とにかく、もう遅い」
僕は二人に向けて言った。
「宿に戻ろう。恵理、君はどうする?」
「どうするって……どうしたらいいの?」
恵理は迷いを含んだ表情で肩をすくめた。
その視線には、未来への不安と、わずかな希望が揺れていた。
「まあ、いい。今の時期には泊まり客もいないだろうし。女将に訊ねてみよう」
「ええ、そうね」恵理は深く息をつくと、ふと冗談めかして「途中でタクシーでも拾えばいいわ」と言った。
「都会じゃないんだから……」
僕とサダコは思わず顔を見合わせ、苦笑をこぼした。
小さな村だから歩けば良い――そんな結論に落ち着くと、寒さに耐えるよう肩を寄せ合いながら、三人で同じ宿への帰路についた。
暗く冷たい夜の中、足元に踏みしめる雪がかすかな音を立てている。
互いに言葉少なに歩くうち、安堵と不安が交じり合うような静寂が、僕たちの間にただ漂っていた。
☆☆☆
湯に浸かりながら、体が温まるにつれ、考えはさらに深く沈んでいった。
柔らかな湯気の向こうにぼんやりと、バー『ミラージュ』のママ、望月沙織の顔が浮かぶ。
「矛盾を正常に直す詔」――あの時は、まともに受け取る気になれなかった。
けれど、こうして湯に身を委ねながら思い返すと、あの言葉が妙に引っかかって離れない。
もしかしたら、僕が鳴海亮介として生きることも、その「矛盾を直すため」の一端なのかもしれない。
このルートが「正常」だとすれば、僕がたどるべき道はすでに定まっているのか。
鳴海亮介として、彼の過去も、そして彼の苦悩も、そのまま背負わなければならない運命なのかもしれない――だが、そんなことが本当に許されるのだろうか?
少し首を振り、重苦しい思考から意識を離そうとする。
それでも、未来の不確かさがどこか冷たい影のように背後から忍び寄ってくるようだった。
湯の温もりがじんわりと体を包んでいるはずなのに、心はどこか寒さを覚える。
このまま流れに身を任せれば、廃人になり、恵理を刺し、怪物になる。
それも上手くいけば――だ。
恵理の言葉、いや直感によると、怪物が時間の外へ出た瞬間にこの時間軸は抹消される。
落ち着いて考えてみれば、タイムループは怪物を生むためのシステムなのかもしれない。
創りだしたのは神か悪魔か。
歴史的な超人、偉人を生むための悲劇は見向きもされない。
オカルト教授として、散々見聞きしてきた怪談や不幸話の登場人物の運命は、どれもこれも、そんな悲劇であった。
僕は湯の中で軽く拳を握りしめ、心の中で叫ぶ。
クソ食らえだ、と。
☆☆☆
「文面はこれでいいな?」
「ええ」
「連絡はSNSからってことでいいですか?」
「うん。同じ文面で拡散もするけれど、最初に書き込むのは上原のブログがいいと思う」
室内には重い沈黙が流れていた。
誰もが胸に渦巻く恐れや疑問を押し殺しているのがわかる。
「あなた、このループでは大人しくしているつもりだったのにね」
「いいさ。このままループしても新田になり、怪物になるって知れたんだ。希望はない。抗うしかないんだ」
一瞬、サダコの目が不安げに揺れたが、すぐに小さく頷いた。
「サダコも良いか?」
「はい」
少しの間を置いて、僕は恵理に向き直った。
「もう一つ訊かせて欲しい。恵理。すまないけど――」
「はいはい。席を外せってこと?」
「すまない」
恵理が小さくため息をつき、軽く肩をすくめて立ち上がった。
彼女の後ろ姿が少しだけ揺らいで見えるのは、僕が弱さを見せているからなのかもしれない。
恵理が部屋を出て、ドアが音を立てて閉じた瞬間、僕はサダコの方を向いた。
「僕は――」
「私も好きです」
サダコの言葉が、僕の中の緊張を一気にほどく。
彼女の瞳に、静かだけど確かな覚悟が見えた。
「そうか。良かった。一緒になれることはないかもしれないが……とにかくもう、僕に心残りはない」
僕の言葉に、サダコは小さく微笑んで頷く。
「そんなことはないですよ。どこかで――どこかで、一緒になれる世界線がきっとあります。きっとどこかで」
☆☆☆
「ねえ。ちょっと――」
恵理の声が背後から聞こえた。
慌てたような調子だったが、今の僕たちにとってはどうでも良かった。
僕とサダコはお互いの顔を見つめ、確かめ合うように静かに唇を重ねた。
彼女の温もりが、冷えきった僕の心に染み入ってくる。
悪いが、恵理にはもう少しだけ蚊帳の外へ居てもらおう。
彼女がいつもスクリーンで観せている大事なシーンは外せない。
キスシーンだけは邪魔させない。
☆☆☆
特性追跡者の皆さんへ
この時間軸に、出口はありません。
私たちがこのループを続ける限り、怪物の餌食となり、消えてしまう運命にあります。
ですが、私は「重複者」と行動を共にし、怪物に対抗できる唯一の存在を見つけました。
この重複者だけが、怪物に対峙する力を持っているのです。
信じられないならそれでも構わない。ですが、あなたにも思い当たる節はあるはずです。
前ループでの自分が突然不可解な行動をとった記憶はありませんか?
誰にも話していないはずの秘密を、周囲の人が知っているように感じたことは?
特性追跡者の仲間が何の痕跡もなく消えた経験は?
これがただの脅しだと思わないでください。
私たちは特性追跡者を追う「特性追撃者」――追跡されるだけの存在ではないのです。
このメッセージをSNSで拡散してください。
あなたは決して一人ではない。
私たちはこのループの中で抗い、必ず怪物を倒します。
怪物が掲示板から、この警告を消し去る前に、どうか行動を共にしてください。
☆☆☆
僕らは頷き、投稿ボタンを押した。
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