第41話 誰がための奇跡 8

 「君はどこから来たんだ?」

 僕は、あえて二重の意味を持たせて問いかけた。

 恵理が“特性追跡者”ならば、この質問の真意に気づくはずだ。


 彼女は試写会の壇上で新田に刺され、命を落としたあの恵理なのか。

 それとも、別のループから来た異なる彼女なのか。


 恵理は僕をじっと見つめ、小さく首を傾げた。

 瞳の奥で一瞬、迷いが揺らめいたが、すぐに小さく息を吐き出す。

 その表情には、どこか覚悟にも似た冷静さが漂っていた。


「私が来たのは“彼”が作り出した、この時間の終わり……と言ったらいいのかしら。この時間の行き着く先。この時間の終着点から来たの。あなたも一瞬だけど、行ってたはずよ」


 その言葉にこめられた意味は、すぐには掴めなかった。

 僕が怪物に出会った場所。

 そこに恵理も行ったというのか。

 あそこが、今の時間軸の終焉の場所?

 それとも、上原がどこかで描き出そうとしている、歪んだ未来なのか?

 僕の胸には、冷たい何かが静かに沈みこんでいく。


「待て。待ってくれ。僕たちが繰り返しているこの時間は、意図的に作られたものなのか?」

「ええ。そうよ。決まってるじゃない」


 恵理の端的な答えとその表情に、思わず息を呑んだ。

 これは彼女にしかない確信に満ちた態度だ。

 もし彼女が純朴な阿部さんのままであれば、こんな居丈高な振る舞いは考えられない。

 鋼鉄のような精神力を持つ大女優の顔である。


「神か悪魔だとでも言うのか? あの怪物は……」

「わからない」 


 恵理はそっけなく答えた。

 僕もすぐに理解できるはずもなかった。

 あの銅鏡の中で目にした怪物の姿が脳裏に浮かぶ。

 それは人の形をしていても、人の理からは逸脱した、まるで別の存在だった。

 きっと人は、人間以上の存在を元々語ることなどできないのかもしれない。


「あの――行き着く先にも未来はあるはずですよね?」

 不意に、サダコがおずおずと訊ねた。

 その言葉は、僕の中の疑念に火をつけた。

 そうだ。

 この繰り返す時間の先はどうなっているんだ?

 タイムループから抜け出すための手段があるのか?


「彼――怪物と言った方がいいわね。怪物は、ループを重ねて未来に出ることが目的だと言っていた。あなたたちも上原のブログは読んでいるのよね?」

「は……はい」

 サダコが答え、僕も無言で頷いた。


「昔の――なんだっけ? 戦国武将で……」

「ああ。天下人になれたのは、彼らが特性追跡者だったためとか、ブログには書いていたが。上原の妄想の域を出ない。仮説だよ」

「そうかしら? 彼らはループを繰り返して万全の体制を整え、時間の外へ打って出た。万能の超人として。前提条件にタイムループがあれば、説得力はあるんじゃない?」


 僕の胸に、理解がじわじわと広がっていく。

 歴史の授業を思い出す。

 圧倒的不利な状況で奇跡的に勝った桶狭間。

 完全に討ち死にするしかない状況で生き残った金ケ崎の退き口。

 敵方の真っ只中を逃げおおせた伊賀越え。


 これをたった一度の挑戦で成功させることが、果たして普通の人間に可能なのか?

 彼らは常人ではなかったから。

 彼らは超人だったから。

 天才というのは、ただの言葉だ。

 特性追跡者の存在を知った今、僕は本当にこんな説明にもなっていないもので納得できるのか?


「そうだとして、上原がこの時間の外に出た後、僕たちはどうなる? 繰り返される無限の中にまた戻されるのか?」


「それは――たぶん、そうはならない」

「……女優の勘?」


 恵理は微笑し、そして真剣な瞳で僕を見つめた。

「ええ。私は嘘がわかるの。演じることは生業だから。その時がきたら、私たちの存在はいずれ消える」


「消えるって……なんで?」

「これは新たな支配者や神を生み出すためのシステムだって怪物は言ったわ」

 自然の摂理のような言葉に、胸がざわつく。

 僕らの命や時間が、ただの資源のように使われ、怪物の進化の糧として消費されていくだけだというのか?


「そりゃ私だって、半信半疑よ。でも、思い当たることはあるでしょ?」

「思い当たること?」

「超人的な存在。とんでもない能力を持ったスポーツ選手や、天才的な研究者。延々と繰り返す時間のなかでトレーニングや研究を好きなだけ繰り返していたとしたら? そして、それを誰も知らない。切り捨てられたのよ。他の特性追跡者たちは」


 僕は彼女の、その途方もない想像に、背筋が凍る思いがした。

 僕らがループを繰り返していたのは、誰かが“外”の支配者として成り上がるための「代償」だったとしたら。


「君は、その……平気なのか?」


「平気なのか?  なんですって?  そんなわけがないでしょ?  こっちは殺されてるのよ!!」


 恵理の声が店内に響き、周りの客が一瞬振り返る。

 喫茶店の店員も心配そうにこちらを覗き込んできた。

「すいません、なんでもないですから」

 僕は慌てて立ち上がり、頭をペコペコと下げながら謝った。


 恵理はそれでも怒りが収まらないように、ため息と共に、軽蔑するような視線を僕に投げかけた。

「は!  相変わらず、肝の小さなこと!」


 彼女の怒りはもっともだ。

 刺殺されたことだけでなく、怪物の存在そのものが、彼女には到底許せないのだろう。

 超常の存在の彼らにとって、凡人の努力は、ささやかな遊びにしかすぎない。

 尋常ではない努力の末に、トップ女優へと上り詰めた彼女にとって、怪物の存在など到底、許せるものではない。


 しかし僕は、怪物たちが、その境地に至るまでの、信じがたい鍛錬や知識の積み重ねを考えた時、薄ら寒さすら覚えるのだ。

 時間が万人に平等であるという前提が崩れ去り、彼らは、もはや僕たちとは別次元の生き物とすら言えるだろう。        

 その不公平さに、内心押しつぶされそうになっているのは、僕自身だって恵理と同じだ。


「彼らのような存在が、このループから生まれてしまうというなら……僕らの生きる意味とは、いったい何なんだろうな」


 そう呟くと、恵理は冷めた目で僕を見つめ、口の端にほんの少し皮肉げな微笑を浮かべた。


「結局、凡人がいるからこそ、彼らの存在が際立つのよ。あなたはその駒でしかない――私も、ね」


 その言葉に僕は息が詰まった。

 彼女もまた、自分が駒に過ぎないと知りながら、なお生き続ける道を探しているのだ。

 この苦々しい現実の中で、それでも己を保ち続けようとしている彼女の瞳が、どこか遠くを見つめているように感じられた。


「ちょっと、うちの先生をイジメないでください!」

 ふいに、サダコが恵理に猛然と抗議した。

「イジメないでって、あんたねえ」

 恵理は、サダコに対して半ば笑いながら言い返す。


「イジメはダメです!」

 サダコは真剣な表情で、なおも食い下がった。

 その瞳はまっすぐで、一切の迷いがない。


「イジメってなによ。あなたの優しさがこの状況で、一体、何の役に立つっていうの?」

 恵理の冷酷な言葉に、サダコは一瞬息が詰まる。

「――そ、それは……」


「立つさ」

 僕はサダコを庇うように口を挟んだ。


「僕は彼女を愛している」


 その言葉を口にしたとき、自分でも驚いた。

 けれど、それはたしかに本心だった。

 この暗闇の中で支えてくれたサダコの優しさが、僕にとってどれだけ意味のあるものか――その気持ちを言葉にせずにはいられなかった。


「 呆れた!  なにを言うかと思えば!」

 恵理はため息をつきながら、呆れた様子で肩をすくめる。

 それでも、彼女の目の奥にはかすかな動揺が見えた気がした。


「……これ以上、大事なことなんてないだろう」

 静かに言い返すと、恵理は一瞬言葉を失ったかのように見えたが、やがて小さく息を吐き出した。


「――わかったわ。わかりました」

 彼女の表情はどこか穏やかに変わり、いつもの鋭さが少し和らいでいるようだった。


 ☆☆☆


「考えていたんだ。サダコ。たぶん、あの怪物に対抗できるのは君だけだ」

 僕は思い切って、サダコに視線を向けた。

 その言葉の重みが、自分でも信じられないほどに深く感じられたからだ。


「え?  私?」

 サダコは目を丸くし、混乱したようにこちらを見返した。

 その表情には、責任の重さに対する不安と、自分が何か特別な力を持っているかもしれないという一抹の期待が混ざっていた。


「病原菌に対するワクチンみたいなものだよ。それは恵理、君だって薄々気がついていたんじゃないのか?」

 言葉を発しながら、僕は恵理の目を捉えた。

 彼女は一瞬、唇を噛むようにして表情を曇らせ、目を逸らしたかと思うと、やがてため息をつくように答えた。


「……ええ。前にあなた、鳴海亮介にループしたでしょう」

「ああ。確か、あの時は君も――」

「言わなくていいから。言わないで」


 恵理は遮るように言い、険しい表情を浮かべた。

 恵理と鳴海はホテルで一緒だった。

 突然、鳴海にループした僕は、ショックのあまり卒倒したのである。


「それで、ループを意図的じゃないにしろ操れるのは、サダコちゃんだけだって言いたいんでしょ?」

 恵理は冷ややかな目で僕を見ながらそう言い放った。


「ああ。そうだ。多分、ループというのは世界線が重なってできているんだと思う。武山先生がループして、偶然、重なった時間のなかで生まれたのがサダコだ。意図してできることじゃない」

 僕が説明する間、恵理の表情には微妙な変化が現れた。

 彼女はその言葉の先にある何かをすでに察しているのか、唇をかすかに歪めながら言った。


「ああ。嫌だ。あなたの考えていることがわかってきたわ」

「うん」


 恵理は目を閉じ、一瞬の静寂が僕らの間に流れた。

 彼女の顔に浮かんだのは諦めとも覚悟とも取れるような複雑な感情だった。


「僕らは、もう一度ループする」

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