第38話 誰がための奇跡 5

 小さな社務所の中は、古びてはいたが不気味なほど整然としていた。

 長い年月を経ているはずなのに、埃ひとつ見当たらず、まるで誰かが最近まで手入れをしていたかのように感じられる。

 土間は、古いけれど丁寧に掃き掃除されている感じがした。


 入口付近には簡易な台所があり、鉄製の古びたコンロと錆びついた水道蛇口が残っている。

 鍋や包丁が置かれている場所も、そのままの姿で年月を重ねたかのようだ。

 台所の横に神棚があり、そこには神具が整然と並んでいるが、どれも薄暗い光に包まれて、不気味さが増している。

 神棚の上には蜘蛛の巣が張っているが、どこか意図的に避けるように祀られた道具は手付かずで、異様な雰囲気を漂わせていた。


 さらに奥へ進むと、四畳半ほどの狭い座敷が目に入る。

 畳は色褪せ、所々にシミが浮かんでいる。

 仮眠室だろうか。

 不気味な静寂が、部屋全体に張り詰めるように広がっていく。

 まるで、この場所だけが時の流れから取り残されているような――あるいは、ここだけが異界へと繋がっているような錯覚を覚えた。


「なにもないスね」

 サダコがぽつりと言う。

「ああ――いや。待て。あれは何だ?」

 視線の先には、神棚の横で隠されるように飾られた古びた掛け軸があった。

 布地は黄ばんでいて、長い年月を感じさせる。

 描かれているのは奇妙な姿の存在。


「お化けの絵?  なんで神棚に?」

 サダコが訝しげに眉をひそめる。


「いや、違う。あれは――天狗か?」

 僕は掛け軸の前に一歩近づき、じっとその絵を見つめた。

 赤い顔に長い鼻、大きな翼を広げた姿が描かれている。天狗だ。

 だが、なぜ神棚に天狗の絵があるのか。

 通常、神棚には神社の祭神が祀られているはずだ。


「そうか……まさか"隠し神"信仰か?」

 その言葉が自然と口をついて出た。

 何か腑に落ちるものがあったように思える。

「隠し神?」

 サダコが不思議そうに首を傾げる。


「神隠しの別称だよ。山姥や天狗が人を拐うという話を聞いたことくらいはあるだろう?」

「ないです」

 僕の言葉にサダコはあっさりと首を横に振った。


「君、作家の娘さんだよな?」

「あんまり読書しないんで」

 サダコは肩をすくめて答えた。


「しなさいよ。もったいない。一番近くにベストセラー作家がいるのに」

 とんでもない人物が目の前にいるのに、それを活かさないなんて、などと僕は思ってしまう。


「歌をうたってばかりいましたけど」

 サダコは少し照れ臭そうに言った。

「それがなんで芸人なんだ?」

 歌手になる道もあっただろうに、なぜかお笑いの道を選んだ彼女が不思議だった。


「歌ってると、歌詞を考えちゃうんですよ。嘘臭いなって。人間の本当ってもっと泥臭くて、もっと笑えるもんだと思っているんで」

 彼女の声には、どこか飾らない強さがあった。


「……なるほどな。サダコはやっぱり武山先生の血をしっかり引いていると思うぞ。そんな理由であんなに歌えるのに芸人になる奴なんかいないだろ」

 僕は思わず笑いながら言った。

 普通なら音楽の道に進むはずだ。

 だが彼女は、笑いの中にこそ真実があると感じていたのだろう。


「歌えてましたかね?」

 サダコは少しだけ不安そうに聞き返してきた。


「いや、そうとう上手いと思うが。ボイトレに行ってるのか?」

 その歌声には磨かれた技術が感じられたから、当然のように聞いたのだが。

「ぼいとれ?」

 サダコは首を傾げた。どうやらその言葉自体を知らないらしい。

「本当に現代人なのか、君は」

 思わず突っ込まずにはいられなかった。

 だが、緊張がほぐれたことは確かだった。


 ☆☆☆


「それで天狗の絵がなんなんスか?」

 サダコが促すように尋ねる。


 僕は天狗の掛け軸に再び目を戻した。

 掛け軸には明らかに後から書き足されたような別の要素が見える。

 例えば、天狗の周りに黒い影のようなものが蠢いている描写があり、それが天狗にまとわりつくかのように見える。

 よく見ると影の形は人間の手や顔を思わせた。


 室内が薄暗く、よく見えない。

 懐中電灯を取り出して、掛け軸に当ててみると僕は思わず仰け反って驚愕した。


 天狗の背景には、顔が黒く塗られた人間が無数に描かれ、その傍らで笑う天狗が立っている。

 普通の天狗の掛け軸では、険しい顔つきや威圧感を感じることが多いが、この天狗は微笑んでいる。

 しかし、その笑みには何か人間らしい悪意や企みが感じられ、不気味さを漂わせていた。


 天狗の足元には、何かが埋まっているような描写があり、それが人の手や足のように見える。

「いや、まさか、そんな――」

 天狗が人間を踏みつけているかのような印象を与えることで、掛け軸に潜む暴力性を暗示しているのか。


 なんなのだ。このおぞましく恐ろしい絵は。

 山伏たちが崇める天狗信仰の清らかな姿とはまるで異なり、この天狗は物の怪としての異質な存在感を放っている。

 オカルト教授と呼ばれるこの僕でさえ、これほどまでに嫌悪感を抱かせる絵を目にしたことはない。


 ああ、くそ、わかりたくない――けれど、この掛け軸を目の当たりにしてしまえば、すべてに合点がいってしまう。

 顔を黒く塗られた男たちが何故、熱気に包まれて山奥へ入って行くのか。

 そして、梵字のような歪んだ文字が顔に書かれたまま、何故、帰ってくるのか――まるでその文字が彼らを別の存在に変え、そしてまた戻すかのように。


 この掛け軸は単なる信仰画ではない。

 人を生け贄にする儀式、あるいは人がそのまま物の怪に取り込まれていく姿を描き出しているのだ。


 まさしく、拝まれているのは救いでも守りでもなく、ただ畏れられるべき存在。

 恐ろしく、忌むべき天狗の姿――隠し神の姿だ。


「ここには、昔から人が足を踏み入れてはならない何かがあったのかもしれないな」

 僕の声はどこか乾いて聞こえた。

「信仰してたかもしれない」

 僕は言葉を選びながら言う。


「天狗を? なんで?」

 サダコの目が不思議そうに細まった。

「隠し神が、人拐ひとさらいの別称だと言っただろう?」

 その言葉に、彼女の顔が少し曇った。


「……まさか」

 サダコはつぶやく。


「僕の推理が正しいなら、この村は人拐いを生業にしていた過去があるのかもしれない。隠し神とは言っても、その実、妖怪や怪異だからな」

 そう言いながら、僕は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 ここにある天狗の絵はただの装飾品ではない。

 過去のある種の暗示を秘めたものなのかもしれない。


「拐ってどうするスか?」

 サダコの声は、少し震えていた。

「普通の犯罪組織なら人身売買や裏仕事への斡旋だ。もし、人里離れたこの地で取り引きが行われていたとしたら……」


「こんな絵の一枚でよくそんなキモいこと考えられますね」

 彼女は小さく笑いながらも、その目はまだどこか警戒心を帯びている。

「キモいって。僕はオカルト教授だぞ? この手の話は放っておいても自然に入ってくる」

 言葉は軽くしたつもりだが、実際には不気味な事実が重くのしかかっていた。


「どんどんキモくなる一方じゃないスか。なんでそんなモンを拝むんですか」

 サダコの問いは無邪気でありながら、どこか本質を突いている。


「今でも人拐いをしているなんて断定はできない。でも、そういう過去が形を変えて裏信仰となって残っている可能性はある。実際、ここまでの取材は禁止されていたし、村祭りで顔を黒く塗るのも何か意味があるはずだ」


「黒く塗っているのは人拐いですかね?」

 サダコがぽつりとつぶやく。


「拐われた方かもしれない。彼らを密かに供養するためだとすれば、部外者に触れられるのは避けたいはずだ」

 僕はそう答えながらも、心の奥で嫌な予感が膨らんでいく。

 不幸にして命を落とした者たちの魂を鎮めるために、隠された儀式が続けられてきたのかもしれない。


 もしその祟りが本当に存在するのだとしたら、どれほどの怨嗟がこの地に渦巻いているのだろうか。

 考えるだけで胸が苦しくなった。


「ああ。道理で村祭り、やる気なかったんスね。本番は裏信仰の方ってことで」

 サダコが言葉を継いだ。

 異常な熱気の中で山に入る男たちや、墓地で一人ずつ故人の名前を呼び上げる儀式は、普通の信仰とは程遠い異様さを帯びていた。


 最悪の推測をすれば、この村はかつて盗賊集落であったかもしれない。

 そして、その過去が今もなお人々の心の奥底に生き続けているのだ。

 外部の人間を拒絶し、写真を撮ることすら禁じるのも、それを隠すための防衛本能かもしれない。

 時代が違えば、そうした行為に命の危険が伴っただろう。


「救われたいって――みんな思うんスね」

 サダコの言葉が、思いがけず僕の心に深く響いた。


 なぜこの子は、こんなにも優しいのだろう。

 僕はふいに涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。


 ☆☆☆


「なんか――奥に変な物、見つけたっスよ」

 サダコが椅子を引き寄せて神棚を覗き込むと、ためらいもなく手を伸ばし始めた。

 まるで日常の掃除でもしているかのように、その神聖な空間を弄くり回している。


「嘘だろ。普通、そんなところ触れるか?  君には畏れってものがないのかね?」

「ありますよ、もちろん」

 サダコは神棚の中から金属製の物体を掴み上げ、僕に放り投げた。

 明らかに、畏れなど知らない人間の所業であった。


「うわっ!」

 反射的にそれを受け止めた僕は、その重みと冷たさを感じながら驚いた。

 見ると、それはどう見ても古びた金属の鏡だった。


「……これは、銅鏡か?」

 僕はしげしげとその表面を見つめる。

「銅鏡って、日本史で習ったあの銅鏡ですか?」

 サダコが首を傾げながら尋ねる。


「ああ。三種の神器にも含まれているし、卑弥呼が持っていたという伝説もある、古代の神器だよ」

 僕は銅鏡を受け取り、指で軽く撫でた。

 確かに古い物にしては驚くほど綺麗だ。

 全く汚れもない。


「埃もついてないってことは……誰かが手入れしてたのかもな」

「……誰かが最近まで使ってたとか?」

 サダコが言う。


 僕は銅鏡を慎重に手に取り、じっと見つめた。

 確かにこれは古いもののようだが、驚くほど状態が良い。

 錆びもなければ、汚れもない。

 まるで誰かが定期的に手入れしていたかのように、輝きを保っている。


「神棚に祀られていたということは、やはり何かの儀式や祭祀に使われていたのかもしれないな」

「でも、こんなに綺麗だと逆に怪しいですね。本当にそんなに古いモンなんスか?」

 サダコが首を傾げる。


「わからない。見た目だけじゃ本物かどうかの判断はできないが……少なくとも、普通の骨董品店にあるような代物じゃないことは確かだ」

 そう言いつつも、僕はどこか引っかかるものを感じていた。

 この銅鏡が単なる装飾品や記念品ではなく、もっと重要な意味を持つものである可能性が高い。


「例えば、儀式に使われていたとか、何かを封印するための道具とかさ」

「封印……? 急にオカルトじみてきましたね」

 サダコはふっと笑った。

「この村自体が、昔からの不気味な言い伝えがあるんだ。何かを封じ込めるためにこうした古代の遺物を使うなんてことは、オカルトに限らずよくある話だ」


 僕は銅鏡をもう一度じっくりと眺めた。

 鏡の面は輝きを放っているが、鏡背の方に何か刻まれているようだった。

 僕はふとその部分に手を触れ、光を当ててみる。すると――


「なにこれ?」

 不規則な模様が浮かび上がってきた。

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